歳末に思い出される挿話

小野田 学

クリスマスとか歳末とかの賑わいや慌しさに縁のうすい農村の郊外に住まっている僕だが、その言葉を聴くとふと僕の若かりし日の挿話を思い出す。


挿話 その1

僕が学生生活から離れて2,3年くらい後のことだからもう半世紀くらいになる。
 新潟県だったかの某郵便局に届けられた迷子郵便がふと局長の目に留まったというのである。
 その葉書には「もしサンタクロースが本当に居るものなら、そして、僕の願いが聞き遂げられるものなら、自転車が送られるといいなあと思う。 僕のクラスではみんな自転車を乗り回しているのに、僕の家では貧しくて自転車など買ってもらえず、友達と一緒に放課後遊べないのです。 お母さんのお使いの手伝いも何時も歩きです。」と言うのです。

差出人は某村の小学生。 宛先は「サンタのおじいさん」宛て。 当然迷子 郵便として処理されるもの。 それが、局長の目に留まったと言うのだから、せいぜい数人くらいが勤務する小ぢんまりした局だったに違いあるまい。
 事故郵便だから当然差出人宛てに返送されるはず。 が、局長はそれをしなかった。
 調べてみると、その差出人の家は母子家庭であり、自転車も買って貰えないような保護家庭だったことが判明。 局員たちに呼びかけてみんなで募金。 漸くクリスマスイブの夕べそっと小学生君の下へ自転車が名前も告げずに届けられたと言うのである。

この挿話は子供新聞のページで全国に伝えられたもの。
 このニュースに触れて、いろいろな意見はあろう。 当時の経済白書で「もはや戦後ではない」と政府が発表して未だ幾年も経っていない、なお貧しい時代である。
 「サンタクロースは本当に居るのだ」とその少年君は送られた自転車を撫でながら長い間信じていたことだろう、などと想像するとついつい微笑ましくなる。
 局長以下の人情味あふれる行為が手放しで賞賛される風土がなお色濃く残っていた「古きよき時代」の話である。


挿話 その2

これも僕の学生生活最後の冬休みでの話である。

某氏が東京の西口は新宿駅でたまたま落ちていた紙くずを拾い上げてみたところ、宝くじであったので、それを財布に収めたまま忘れかけていたと言うのである。
 やがて、年末の宝くじ抽選会のニュースに接してふとそのことを思い出し、財布を開けてみたところ、なんとそれが1等当選の当たりくじだった。
 当時の一等当選金は1千万円くらいでは無かったか?
 何しろ、ラーメン1杯が普通の食堂で30円、コロッケ1個が5円の時代である。
 拾い主の某は驚いて早速それを警察に届けたところ、「これは落ちていたものとはいえ拾得物である。 したがって、当選金は新宿駅に帰属するものである」との発表。

2,3の新聞がこのニュースを取り上げて、コラムだったか社説だったかで論評。
 「厳格な法解釈ではそのような結論になるかも知れない。 が、もとより落とし主の特定は不可能。 だが、彼が拾った宝くじが当たりくじで無かったならそのまま忘れ去られていたはず。 当たりくじと分かった時点で、早速届け出たのは真に奇特な行為である。
 当選金は新宿駅ではなく、拾い主の善意と道徳観への称賛と感謝の意をこめて某氏に渡すのが当然である」と論評したのだった。
 その後人伝に当選金が拾い主の某氏に手渡されたことを聴いたように覚えている。

ともかく、古き良き時代の話であり、今に受け継がれても良い明るい話とは思われるのだが。

お古い話で恐れ入りました。 これで、お後とと交代しましょう。