迎春雑感

永田 敏男

大晦日といえば「紅白歌合戦」と決まっていて、すき焼きでもつつきながら、簡単なおせちを食べてビールを流し込む。これが我が家の大晦日の過ごし方ではあった。

しかし、どうしたことか、体が震え、水をかぶったようなひどいさむ気を覚えた。38度5部の発熱である。

いつもなら除夜の鐘を聞いて、地元の八幡神社にお参りするが、それもとうていできず、寝てしまった。

新春の朝を迎えてもまださむ気と全身の痛みとも疲労感とも言えないような症状があり、起きあがって雑煮を食べ、こたつに入ってテレビを聞くのが精一杯であった。

私の頭の中は、霧がかかったようにぼーっとしておぼろげであった。私の子供のころのお正月の様子が、かすかに童歌を伴って聞こえてくる。

鉄でできた頑丈なコマを買ってもらい、飛びあがらんばかりに嬉しくて、紐をしっかりと巻き付け、勢いよく投げると、ぶーんとうなって回るのが、心をわくわくさせる。なんどもなんども繰り返して飽きもせずに、どちらが長く回っているか、あるいは、相手のコマを倒しあったりして遊んだものである。

女の子たちは、ゴムのまりを買ってきて、何人かでついて遊んでいた。そのマリつきの童歌が、私にはたまらなく懐かしい。

「一番初めは一宮。 新潟日光当初宇久。」。 あるいは、「一問目のいすけさん、いの字が嫌いで」などもあった。歌声と、楽しく笑ったり叫んだりする子供たちのにぎやかさが、正月をそのまま盛り上げている。

そのころの正月は、待ち遠しくて、歌にあるように、後いくつ寝ると正月がくるのかなと、指折り数えて待っていたものだ。

たいしたご馳走のないあのころ、それでも、日常の生活よりは、良いものを食べる。お雑煮だって、かずのこだって、あるいは、各家庭で作るこんにゅく・豆腐・そんなものが、豊富に並べられるのも嬉しかったものだ。

一口飲んだ御神酒も、神様のあらたかな、どこか神秘的な感覚もあったように思う。

そのころの井戸は、やはり井戸の神様の住まいされるところとして、餅のお飾りさんをあげ、尊いものとして扱われた。 若水をくみ、神様にお供えし、自分たちも、正月の朝の清めとして、そこで顔を洗ったように思う。

山羊の鳴く声も、放し飼いの鶏の叫ぶ声も、牛ののっそりと動く姿も、すべてが新鮮で正月の雰囲気のなかにあったように思う。
元気な犬の走り回る姿、走ってきて私の胸まで飛びあがる勢いも、なんだか正月を楽しんでいるように思えた。

おぼろげな頭に浮かんだ子供の頃の正月、もちろんラジオがあれば良いほうで、テレビなどない。

現在の正月を思うと、私の子供のころとは雲泥の違いで、ご馳走も、テレビ番組も、正月をもり立てるために十分に作られ、放映される。

しかし、どこか正月の新鮮さと神々しさがないのはどうしたことだろう。

やたらに笑わせようとして大騒ぎする番組、なにを食べても、さほどおいしいと思わないご馳走、神社のごたがえすようなにぎわいと、大声で笑い、しゃべる若者、結局は、正月を形骸化し、休みの一部になってしまったと感じるのは私だけであろうか。

熱に浮かされて、子供の頃の正月を懐かしく思い返した私の、今の正月でした。