伝統芸能入門

鬼頭正代

2009年は私にとって日本の古典、伝統芸能との出会いの年となりました。
 これまで日本の古典には全くといっていいほど興味を持ったことはなく、学生の頃にせいぜい百人一首をするくらいのものでした。
 歌舞伎が好きで足繁く歌舞伎座に通っている友人もいましたが、私自身が全く興味がなかったため幕の内のお弁当の話くらいしかしたことがありません。

そんな古典芸能とはかけ離れた生活をしていた私に突然「文楽を聴きに行かない?」という誘いをもらいました。
 文楽!?その言葉は聞いたことがあるものの内容は人形浄瑠璃ということくらいしか知りません。あわててにわか勉強をすることとなりました。

ネットで私が知りうる限りの単語で検索をかけ、ナイーブネットやこの名古屋盲人情報文化センターの貸出係のスタッフさんにメールを出して文楽に関する入門書のようなものを何冊か探していただきました。

とりあえず人形浄瑠璃の大まかな歴史を頭に入れ、太夫・三味線・人形遣いで演じられることを知りました。
 そして出来れば一度実際の舞台を見ておきたいと思い、これもあちこちネットで調べたところちょうど名古屋での地方公演があり、チケットをとりました。

本当ならひとつのお話を丸ごと見られる「通し」がいいのですが、名古屋には文楽用の劇場がないため、「草三間堂棟由来」から平太郎住家より木遣音頭の段と「本朝廿四孝」十種香の段・奥庭狐火の段という2つのお話の中のそれぞれ選ばれた「段」の公演でした。


ここで人形浄瑠璃をご覧になったことのない方々にちょっと説明…

 人形の大きさは約80センチ。演目によって頭と着物を替えるそうです。
 この人形一体を三人の人形遣いが、頭と右手を主使い、左手を左遣い、足を足遣いの人たちがそれぞれ担当して動かします。
 この人形を手すりと呼ばれる上に出し、人形遣いの人たちは手すりの後ろに隠れるのが基本です。
 場面によっては人形が4体も5体も登場しますが、そんな時は手すりの向こう側で人形遣いさんたちの混み合い様がつたわってきます。

太夫はお話の情景から台詞までを一人ですべて語ります。
 「段」と呼ばれる、本でいうなら「章」にあたるものですが、ここで次の太夫と三味線に入れ替わることが多いようです。

太夫と三味線は床と呼ばれるターンテーブルのような回転するものに乗って舞台に登場します。
舞台上は中央に手すり、舞台に向かって右側に床、左側には笛や鼓などの鳴り物を担当する方々…という具合です。

このように人形浄瑠璃を公演するには特殊な舞台が必要となります。東京の国立劇場と大阪の新国立劇場が主なところです。
残念ながら名古屋にはきちんとした人形浄瑠璃を公演する劇場はありません。

名古屋での地方公演では偶然にも人形遣いの方の襲名披露を聞くことが出来ました。
 テレビでは歌舞伎の方の襲名披露を見たことはありましたが、始めて行った文楽の公演で襲名披露というものを生で聞くことが出来たのはとても幸運なことでした。
日頃使うような言葉ではなく、朗々とした言上は日本語の美しさを改めて感じさせてくれるものでした。

リハーサルともいえる名古屋での地方公演を体験し、いざ本場の文楽を体験!
 今回は1泊2日で大阪の新国立劇場で、1日目は「心中天網島」(しんじゅうてんのあみしま)を夜の部で見て、2日目は「芦屋道満大内鑑」(あしやどうまんおおうちかがみ)を昼の部で…と文楽三昧の旅行となりました。

ちなみに、それぞれ通しの公演で公演時間約4時間という長丁場です。
 同行した友人たちが言うには、「心中天網島」では人間国宝の竹本住大夫(タケモトスミタユウ)が出演、「芦屋道満大内鑑」では友人の御贔屓の三味線さんが出るというので、結局どちらの演目も見ることになってしまったのです。

人気のある演目ということも重なってチケットはかなり早くに完売になったようです。
私は友人たちがパソコンでチケットの売り出しとほぼ同時におさえてくれたため前から2列とか3列めといった席で見ることが出来ました。
チケット購入も以前のように電話予約などではなく、全国どこからでも好きな席まで選んで決済出来るようになりました。
こういう時の座席表はたいていが画像をクリック…ということで視覚障害者には難しいところもあるのが残念です。

新国立劇場は収容人数700人程度の劇場です。
2階から座席のあるホールに入りますが、お年寄りや体の不自由な人は優先的にエレベーターを利用させてくれます。そしてホール内はすべてスロープとなっていて全く段差なし!というのは嬉しかったです。

飲み物の自販機にコインロッカー、おみやげ屋さんもありました。
お話に出てくるお姫様のお人形(30cmくらいのフィギュア)が25000円以上だったのには驚きました。よく出来てはいるようですがこんなお値段でも買っていかれる人はいるのかしら?といらぬ心配をしてしまいました。

面白かったのがめざしのマスコット!?布で実物大に近いめざしを作ったものでしたが友人たちが言うにはとてもおいしそうに出来上がっていたそうです。
私がさわる分には単なるフワフワの魚としかわかりませんでしたけど。これらは外国人のお客さんや修学旅行で来る学生たちのためのおみやげなのでしょうか?

1階にはちゃんとした文楽についての資料の展示もあります。
 公演については600円くらいで携帯ラジオのような解説が聞ける機械をも貸し出ししています。
私は1日めだけ借りましたがなかなか細かなところも解説してくれるので前知識のない演目を見る時にはお勧めします。

演目の「心中天網島」は「心中」というくらいですから近松門左衛門作です。
 本で読むと最後の心中シーンは結構悲惨な場面ですが、舞台の方は意外にあっさりと終わってしまいました。

「芦屋道満大内鑑」の方は、安倍晴明(あべのせいめい)の父親と狐の哀しい恋物語です。
 こちらはファンタジー的な面もあるせいか、人形の動きも鳴り物もにぎやかです。もちろんちゃんと狐の人形も出てきますし、悪役の人形ではこらしめの場面で首までとびます。
血も吹き出すようなこともない人形だからこそ出来る演出です。
 こちらの演目の方が破天荒なので解説の端末はこちらのものの時に借りれば良かったと思いました。

いずれのものもあらすじや前知識を得るために何冊かの本を読みました。
 私が実際に見た2つの作品以外にも「雨月物語」や他の近松の作品もいくつか読みました。

近松の心中ものはよく取り上げられますが、私は「天網島」も「曾根崎心中」も、そしてそれ以外の心中もののいずれにも何の感情も持てませんでした。
 大阪から帰ってからもずっとそのことについて考えていました。
人が死ぬのに悲しいとも哀れとも思わないのは人間としての感情形成に問題があるのではないかとも考えてしまいました。
どちらかというと「芦屋」の方が現実にはない人間と狐の恋愛なのに去っていく狐に涙してしまうのです。

私が抱いていたそんな考えを解くヒントを、「日本古典文庫18 近松門左衛門」(河出書房)の山崎氏の解説の中に見つけました。
 近松の描く心中ものの中の男女は精神的なつながりよりも肉欲的で、ただ「死」というものだけを目指していて自分たちは何ものとも闘わないのです。死に魅入られ、そこに向かっていくだけなのです。
 私が思っていた心中とは、あらゆる手をつくしたが出口がない…とか、そしてどうしても恋しい人と一緒に…という愛情に裏付けされた精神的な強いつながりがあるものと考えていました。
でも、近松のそれにはそういった強いつながりもなければ疲れ果てるまで何かをした…というのがまったくないのです。だから彼らに思い入れが出来ないのです。

近松はこれらの心中ものの作品を現実に起こったものを参考に書いたといわれています。今のワイドショーみたいなものとしてその時代の人たちは興味をもってこれらの作品の公演を見たのでしょうか…。
同じ演目で歌舞伎でも上演されるものも多いようですから作品として人気があったということでしょう。

ここで新たな疑問としては、どうして日本人はこういったお話に興味を持ち、そして心中ものでもシェークスピアの「ロミオとジュリエット」のようなきちんとベースに恋愛感情があるようなお話は観客の興味をひかなかったのでしょうか…。
疑問を解決するにはもっと多種多様な本を読まないと見つけられそうにありません。

今年は引き続き文楽を鑑賞したいと思っています。
 去年は文楽以外にも桂文楽とも呼ばれる落語も見に行きました。友人からは歌舞伎も…と誘われています。

文楽に落語、歌舞伎とそれぞれ表現方法は違いますが、意外に同じ作品を上演していることを知りましたのでどれも興味を持って楽しみたいと思っています。

それにやはり生の舞台はテレビなどで間接的に見るものとは完全に異質なものだと私は感じます。
この「生」の魅力にひかれて劇場に足を運んでしまうのです。

これまで古典芸能などというと敷居が高そうな感じがしましたが、もともとは庶民の娯楽だったのですから私でも楽しめると思いました。

大阪の友人に聞くと、夏休みなどには子ども向けの現代版の演目やわかりやすい説明をしてくれたりもするそうです。
文楽のお話の中には大阪の地名がたくさん出てきますから地元の方々は一層親しみをもってご覧になるのでしょう。

これからも少しずつ勉強し、たくさん「本物」と呼ばれる素敵なものを体験していきたいと思っています。