松尾敏彦さんをしのんで
近藤 貞二あれは昭和42年の4月だったでしょうか、私は張りつめた心と期待の中で名古屋盲学校の玄関に立っていました。
そこへ一人の少年が駆け寄ってきて、私の名前を確認するなり、いきなり手をとってダンプカーのようにものすごいスピードでどこかに向かって走り出したのです。
なんだこいつ!!いきなりそんなに走ってどこ行くんだ!!自分はなれてる所かもしれないけれど、私はこの学校、見学を含めても今日が2回目なのだぞ。それにここは盲学校ではないか。一般の小学校では「廊下は走ってはいけない」とよく叱られたのに、そんなに走ってどこ行くんだ!!
と、このダンプカー少年、私のとまどいなど気にすることもなく、校舎から渡り廊下へと、渡り廊下から校舎へと、私の手を引っ張ってどんどん走っていく。
私は段差につまづき階段を踏み外しながら、必死の思いでその少年についていった。
それにしても盲学校だというのに、どうしてこんなに校舎の配置が複雑で階段や段差が多いのだ!!それに通路が暗い。そしてついでに言わせてもらうなら、廊下が真っ白に砂だらけできたない!!私が通っていた地元の学校では、校舎は古かったけれど廊下も渡り廊下もきれいだったぞ。
さて、ダンプカー少年に連れられて着いた所は、一般小学校の半分ほどの小さな小さな教室。どうやらここが、私がこれから学ぶ6年B組の教室らしい。ダンプカー少年は同じクラスメイトで私を迎えに来てくれたのだった。
私が教室に着いた時には、すでに数人のクラスメイトがいて何やら談笑していた。
しかし、他の連中はどうしたのだ?これからどやどやっと入って来るのだろうか。どういうクラスメイトなのだろう?…。などと思いながらぼさっと立っていると、担任の先生がやってきた。先生は甲高い声の女の先生だった。
みんなは席に着き私も指示された席に着いた。しかし、どやどやっと入って来るはずのクラスメイトは他に誰もいなかった。観れば、机も人数分しか用意されていないことに気づいた。6年B組みは私を含めても6人だけだったのだ!!そして、その中の一人に松尾敏彦さんがいた。
私は小学6年生、地元の小学校から名古屋盲学校の小学部へ転校したのでした。そしてその日から、松尾敏彦さんやダンプカー少年と同じクラスメイトの一員に加わったのでした。
こうして始まった盲学校生活、転校したその日から「おまえ、松尾とよく似てるなぁ…」と、私の顔をまじまじと見ながら言う人がいました。
クラスメイトの名前さえもまだ覚えられていない私は、「松尾ってだれだ?」と頭の中はクエッションマークが点滅!!
その後も中学生頃までは松尾さんと似てるとよく言われたものでした。
しかし、容姿は似てたのかもしれないけれど、脳みその構造はかなり違っていたようで、彼はポジティブ思考で自分の意志を通すタイプ。私はネガティブ思考で軟弱人間…。というところでしょうか。
当時の松尾さんは決して目立つ方ではありませんでしたが、都会的な雰囲気を持っていて、いなかっぺの私としてはまぶしく思いました。
高校からは、私と松尾さんとは進んだコースが違ったため話す機会は少なくなりましたが、就職先の職場で、なぜかまた同じ同僚として仕事をすることになりました。
ところが、職場の条件が違っていたのか、それとも仕事の内容に不満があったのか、彼は数ヶ月ほどでさっさとやめて、自分で治療院を開業してしまいました。
そんな彼の決断力の早さも私とは違うところでしょう。
その数年後には私も退職することになるのですが、その時には松尾さんから「一緒に仕事をしないか?」と誘いを受けたのですが、私の力不足のために迷惑をかけてはいけないという理由でお断りしました。
そう、パソコンを習い始めたのも松尾さんの誘いからでした。
昭和59年、名古屋市視覚障害者協会主催の第1回パソコン講習会があり、それに二人で参加したのでした。
その時の使用パソコンは、今からすればおもちゃのような、NECの「PC-6000」シリーズ。
彼と私は、6000シリーズでも上位機種の「PC-6601」という、当時のパソコンには珍しく3.5インチフロッピードライブが搭載されたパソコンを買って、講習会場へ持ち込んだのでした。
当時は、「パソコンの学習」イコール「プログラミング」という時代で、その講習会でも「N66basic」の学習でした。
簡単な計算プログラムを作ったり、パソコンに歌を歌わせて夜が明けるのも忘れて遊んだことを思い出されます。
「REMを手伝ってもらえないか」と誘ってくれたのも松尾さんでした。
「若い女の子がいるから…」というおいしいニンジンをぶら下げられて飛びついた私は、これまたさっさとやめてしまった松尾さんの後を引き継いで、いまだにこうしてREMにお世話になっております。
でも、そのおかげで、パソコン以外でもいろいろなことを学ぶことができました。
彼は言いました。「教える側がいらいらしてはいけない。教える側がいらいらすると、教わる側はもっといらいらする」と。
本当にそのとおりなんですけど、後で反省することしばしばです。
考えてみれば、これまで何度松尾さんに足跡を付けてもらったことでしょう。
時に彼はとっぴょうしもない行動や考えをして、周囲の人を驚かすこともありましたが、物事に行き詰まった時、彼だったらどのように乗り切るのだろうと、もうその考えも聞くことができない松尾さんのことをよく考えます。
平成21年8月、あまりにも早い松尾敏彦さんの急逝に接し、私の人生に大きく関わった一人として、この場を借りまして心より哀悼の意と返させていただきます。