日本の歴史認識南京事件第8章 まとめ / 8.1 論争のまとめ / 8.1.2 悪魔の証明

8.1.2 悪魔の証明

秦郁彦氏は、{ 裁判でシロクロを争うとき、確実なクロの証拠が2つあれば有罪にできる。}( 1.4節(7) ) というが、クロの証拠がイヤっというほどある南京事件がなかったことを立証するのは、まさに「悪魔の証明」である。

図表8.1(再掲) 論争のまとめ
論争のまとめ

(1) 否定派の限界

"詩魂を持つ物語"としてならともかく、純粋ノンフィクションとしてみるならば、本レポート第6章で検証したように、否定論のほとんどは合理性に問題があると言わざるを得ない。わずかの傷を誇大にとりあげてそれが全体であるかのようにみせかける方法がよく使われるが、ほかにも、印象操作、詐欺まがいの引用、憶測による結論導出など、様々な手法を駆使している。

(2) 事件の存在を裏づける主な史料

南京事件があったことを裏付ける史料は下記のように膨大な量があり、これらをジグゾー・パズルのように組み上げると多少の隙間はあるものの、「事件は存在した」という絵が浮かび上がってくる。しかし、否定派が作る「事件はなかった」というジグゾー・パズルの絵は穴だらけで、しかも一部には都合のよいように作った手製のピースが無理やり押し込まれている。

日本側の史料

①日本軍最高幹部の記録

②日本軍の公式記録

③日本軍将兵の日記など

④外交官、ジャーナリストなどの記録

欧米人の史料

①安全区国際委員会の公式資料;

②現場にいた欧米人の日記など;

③米独の外交文書;

④欧米での新聞報道;

中国側の史料

①被害者の証言;

②南京潜伏者の記録;

(3) 越えられないカベ

「犠牲者はほとんどいない!」という完全否定論を成立させようとするならば、「国際連盟で取り上げなかったから」などという周辺的なことでなく、以下3つの視点で関連する史料の問題を具体的な根拠をもって合理的に説明しなければならないが、これまでの完全否定論者はすべて失敗している。

①捕虜殺害の合法性

収容した捕虜を多数殺害しているが、殺害していないことを証明するか、殺害が不法ではない状況であったことを立証しなければならない。

②市民の殺害者数

市民の犠牲者数を科学的手法で推計したスマイス報告や外国人たちの記録を具体的かつ合理的な論拠をもって否定するのは極めて困難であろう。

③日本軍の"自白"

松井大将をはじめ、日本軍の最高幹部が事件の存在を肯定した記録がいくつもある。

(4) 犠牲者数の推定

不法行為による犠牲者数について、日本の研究者が推定している数字は、「ほとんどない」から「20万以上」まで様々な数字が提示されている。

否定派は、「南京事件はなかった」というが“まぼろし派”と呼ばれた頃の否定論者には、犠牲者数を明確にしないものの、一定数の犠牲者を認めている人もいた。(以下各氏の見解の詳細は 註812-1 を参照)

・鈴木明:「南京大虐殺のまぼろし」 … 「軍民合わせて数万人の犠牲者が出たと推定されるが、事件の真相はだれにも知らされていない」

・畝本正巳:「証言による南京事件」 … 「虐殺の疑いのあるものは3千~6千」

・田中正明:「南京事件の総括」 … 「個別的投降兵の射殺や便衣兵狩りのそば杖をくった一般市民の殺害があった」ことは認め、スマイス報告も"最も信憑性のある学術的調査報告"としているが、具体的な数にはふれていない。

・東中野修道:「再現 南京戦」 … 「日本軍の不法行為は10件前後の掠奪と強姦であった」

東中野氏だけが、「ほとんどゼロ」と断言している。他の論者は数千から数万の犠牲者は認めているかのようにもみえるが、明確な数字は言わない。数字を言えば「たとえ数千でも虐殺にはちがいない」と責められるからであろう。

史実派(笠原氏)は、「10数万以上、それも20万近いかそれ以上」と大きな幅をもって推定しているが、その数字の根拠や内訳を明確に提示していない。史実派は事件の範囲を南京城周辺だけでなく近郊6県も含め、期間も広げている。(4.7.1項(6)) それ自体は事件の定義の問題として議論すれば良いことであるが、そのためにも大半の研究者が対象とする範囲との差分を明確にすべきではないだろうか。

笠原氏が推定根拠として明示した埋葬者数18.9万人などをもとに試算してみると、南京城周辺の犠牲者数だけでも20万近くになる( 4.7.5項(6) )。埋葬者数のダブリや記録されていない遺体数をどう評価するかによって試算は変動するが、近郊県を含めて10数万以上という推定値は、論理的に矛盾している。

秦氏は{ 史実派は従来、中国側の数字をそのまま引用している例が多かった。}註812-2 と指摘しているが、数字の議論を軽視せずに前提や根拠を明確にした論争ができるようにすべきであろう。

(5) 筆者の結論

あったかなかったかについては、すでに述べたように、田中氏や東中野氏その他多数の否定派の方々が様々な手法を使って論争をいどんだものの、実証的・合理的な論理とはほど遠い状況で、少なくとも完全否定論が学術的に成立しないことは明確である。

犠牲者数について、「南京城周辺と陥落後6~7週間以内」という範囲でいえば、最低でも1万はあるだろうが、20万を超える可能性はほとんどないのではないだろうか。それ以上詳しいことは、「神のみぞ知る」状態であり、議論は政治的な要素も含んだまま今後も続くだろう。犠牲者数については、根拠を明確にする必要はあるものの、研究者の感覚に頼る部分も少なくない。そうした感覚は長年、歴史学に携わり磨き上げてきた人に備わるものであるし、数字には社会的責任も伴う。素人がとやかく言う問題ではないと思う。

筆者の結論を日本政府の公式見解と同様に示せば、次のようになる。

日本軍の南京入城(1937年)後、戦闘員の不法殺害や非戦闘員の殺害・掠奪行為等があったことは否定できない。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、どれが正しい数かを認定することは困難である。

※政府見解には"戦闘員の不法殺害"がないが、それ以外は政府声明と同じ。

歴史が“物語”であるならば、多様で自由な論争に任せておけば良いのだが、その“物語”を公式見解としようとすると、“事実”の議論は避けて通れない。田中氏や東中野氏はその議論にチャレンジしたが、すでに述べたように犠牲者数の多い少ないはさておき、あったという事実をくつがえすだけの合理的な説明はできていない。それでも否定派のいきおいは衰えず、否定された論理を何度も何度も繰り返している。それは、教科書問題などもからめて、否定論が存在することを世論にアピールし続けることに意義を見出しているからかもしれないが、そこに「誇り」のかけらは微塵もない。

ちなみに、慰安婦問題では一定の非を認めた上で、それなりに合理性のある根拠をもって政府による公式謝罪を拒否している。


8.1.2項の註釈

註812-1 否定派各氏の犠牲者数認識

・鈴木明:「南京大虐殺のまぼろし」,P298

{ そしていま、もし請われて、僕がどうしても「南京事件」について記述しなければならないとしたら、僕はおそらく、次の数行だけを書いて筆を止めるだろう。「〔南京事件〕昭和12年12月、日本軍が国民政府の首都南京を攻め落した時に起きた。この時、中国側に、軍民合わせて数万人の犠牲者が出たと推定されるが、その伝えられ方が当初からあまりにも政治的であったため、真実が埋もれ、今日に至るもまだ、事件の真相はだれにも知らされていない …」}

・畝本正巳:「証言による南京戦史(最終回)」,雑誌「偕行」昭和60年3月号,P18

{ ある程度は推定し得るが、真相はわからない。強いて言えば、不確定要素はあるが、虐殺の疑いのあるものは3千乃至6千内外ではあるまいか、と私は答えるしかない。}

・田中正明:「南京事件の総括」

 畝本正巳氏の不法殺害の定義 ["戦死者"=①南京防衛戦で戦死した者、… ④便衣兵で摘出され処刑された者 "準戦死者"=①個別に投降したが殺された者、②中国軍に協力したか、 巻き添えを食って死亡した一般市民、③便衣兵狩りのそば杖をくって死亡した者 "不法行為"=①集団投降捕虜で収容後殺された者、②無抵抗の善良な市民で殺された者] を引用した後、次のように述べる。

{ 南京戦における犠牲者数をこのように分類すると、その大部分は戦死または准戦死者である。いわゆる不法殺害に該当するものは限定される。ただ個別的投降兵は、その場で射殺されることが多く、便衣兵狩りのそば杖をくった一般市民は、遺憾ながら当時の戦況上やむを得ない面もあった。善良な市民を殺害したという記録はどこにもない。}(P23-P24)

{ このスミス【スマイス】博士のもっとも信憑性のある学術的調査報告に対して、虐殺派は全然これを無視して取りあげようとしない。… スミスの調査報告を使うと南京市内の日本兵の暴行による死者は2400人であり、拉致されたもの、つまり行方不明者は4200人、合計しても6600人である。}(P76)

・東中野修道:「再現 南京戦」,P356

{ 日本軍の「戦闘詳報」や日本軍将兵の「陣中日記」をもとに日本軍の南京戦を再現してきたが、日本軍の不法行為は10件前後の掠奪と強姦であった。}

註812-2 秦氏の指摘する史実派の犠牲者数

{ 虐殺派【=史実派】の場合は、中国側の数字をそのまま紹介、引用している例が多いが、笠原十九司が「洞富雄の20万人をくだらない中国軍民の犠牲が生じた」とする推計が、最も有力だと思われる(「歴史学研究」1987年9月号)と書いているところを見ると、ウノミはまずいという判断もでてきているようだ。}(秦郁彦:「昭和史の謎を追う(上)」,P179)