南京事件全体の犠牲者数に関する正確な史料はなく、各研究者がそれぞれの方法で推定している。この節では中間派の秦郁彦氏、板倉由明氏、南京戦史(偕行社)の3氏と史実派の笠原十九司氏の推定、及び中国の主張について述べる。なお、現在の否定派は不法行為による犠牲者はほとんどないか、あっても通常の戦争であり得る範囲、としているので、この節の対象外とする。
図表4.15 犠牲者数の諸説と推定方法
※ 史実派の対象範囲は南京近郊6県を含む、他は南京城周辺のみ
東京裁判において南京事件関連の判決は、事件そのものに対するものと松井被告に対するものがあった。いずれも犠牲者数を確定することが目的ではないためか、積み上げの根拠などは極めて貧弱であるが、事件の範囲や犠牲者数に触れている註471-1。
この判決で述べられているように、南京事件の期間は「占領後6~7週間」、地理的範囲は「南京(城Iとその周辺」とするのが日本でも中国でも一般的であるが、笠原氏ら史実派はこれより期間も地理的範囲も広げて推定している。
中間派の研究者はいずれも以下の方法で犠牲者数を推定している。史実派も少し異なる部分があるものの、ほぼ同様の方法であるが、中国側はまったく異なる方法(4.7.6項)で推定している。
図表4.16 犠牲者数の推定手順
① 捕虜殺害など事件ごとの犠牲者数を日本軍の公式記録や関係者の記録などから推定する。
② 中国軍の総兵力とその行方(戦死、脱出、捕虜など)を中国側資料などから推定し、①で算出した犠牲者数との整合性を確認する。
③ 中間派は、主としてスマイス報告をもとに市民の犠牲者数を推定する。なお、「軍関係」には便衣兵として殺害された市民の犠牲者も含まれるが、その重複がどのくらいかはわからない。史実派は市民の犠牲者数を明示していない。
④ 史実派はスマイス報告を参考にしつつも他の情報、特に埋葬者数を重視して犠牲者総数を推定している。中間派は埋葬者数を参考程度にしかみておらず、軍関係と市民の犠牲者数を合計して全体の犠牲者数を算出している。
板倉氏は南京戦史の編集委員なので、南京戦史の推定値を最大値として実態値を推定している。南京戦史が示した「最大値」から、不法殺害にあたるものは軍関係で2分の1から3分の2、市民で3分の1から2分の1に絞り込み、不法殺害の数はおよそ1万から2万であった、と主張する。不法殺害に絞り込むのは、次の理由による。
出典; 板倉由明:「本当はこうだった南京事件」,P181-P200
個別事件の犠牲者数は戦闘詳報や主として指揮官・上級将校の記録などから、実態に近いと思われる数字を推定し、捕虜や敗残兵を「処断」した実数を合計1万6千人としているが、これらは不法殺害の実数ではなく、不法殺害の最大値が1万6千人である、とする。
市民については、スマイス報告の都市部調査と南京市が含まれる江寧県の農村部調査から15,760人を犠牲者としているが、これは最大値で実態はもっと少ない、と述べている。
出典; 「南京戦史」,P346-P374
戦闘詳報や下級兵士も含む関係者の証言などから個別事件の犠牲者数を推定する。戦闘詳報などの数字は実態の2~3倍の数字を書くこともあるというが、秦氏はそのまま積上げている。また、「収容された」と記述のある捕虜でも独自の判断で処断されたとみなしている場合もある。
市民については、スマイス報告の都市部調査と農村部調査の4.5県全部の死者数など約3万3千を採用するが、板倉氏と同様の意味と思われる「不法殺害としての割引」などを行って、8千から12千にまで絞り込んでいる。その理由などは明確にしていない。
出典; 秦:「南京事件」,P207-P215
なお、秦氏は「増補版あとがき」で次のように述べている。
{ 旧版では特記しなかったが、この計数は新史料の出現などを予期し、余裕を持たせたいわば最高限の数字であった。この20年、事情変更をもたらすような新史料は出現せず、今後もなさそうだと見きわめがついたので、あらためて4万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下まわるであろうことを付言しておきたい。}(秦:「南京事件」,P317-P318)
笠原氏は南京事件の地理的範囲を、南京城区と近郊6県を合わせた南京特別市全域、期間を大本営が南京攻略戦を下命した12月4日前後から3月28日の中華民国維新政府の成立時まで、と定義している。
軍関係の被害者は、中間派が合法とみなす下関での追撃戦や、"収容した"とする堯化門の捕虜なども不法殺害とみなして犠牲者数に含め、中国軍の総数15万人の半数以上8万人が犠牲になったと推定する。さらに、幕府山事件の犠牲者は2万人とし、堯化門の捕虜など公式記録では収容したとされる捕虜も殺害されたとみなし、個別事件の犠牲者数合計は8万人とみる。
市民については、スマイス報告やラーベの推定註471-2を参考にしつつも犠牲者数は明示していない。
南京城周辺での埋葬者数を埋葬作業のダブリや戦死者なども考慮して約19万体とみなし、犠牲者数全体を{ 南京事件の全体状況を総合すれば、10数万以上、それも20万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される。}(笠原:「南京事件」,P227-P228) と幅の広い推定をしている。
出典; 笠原:「南京事件」,P214-P228
南京事件研究のパイオニアで史実派の元祖でもある洞富雄氏は、1982年12月発行の著書において、
{ 南京城内外で死んだ中国軍民は20万人をくだらなかったであろうと推測される。… これには戦死者が相当含まれているはずである。}
と述べている。洞氏は東京裁判の判決や埋葬記録、中国軍の規模などをもとにしているが、スマイス報告は調査方法に問題あり、として採用していない。史実派はこの洞氏の数字を踏襲しているとみられる。
出典; 洞:「決定版 南京大虐殺」,P135-P155
これまで述べてきた方々以外がどのような数字を推定しているかを図表4.17に示す。
図表4.17 その他の犠牲者数推定
出典)下記以外は、秦「南京事件」,P318(原典は雑誌「諸君!」2001年2月号アンケート)
※1 ラーベがヒトラーへの上申書で述べている。[南京の真実],P362
※2 「証言による南京戦史」(最終回) 雑誌「偕行」1985年3月号
「南京暴虐事件」の判決 (1948年11月11日)
{ 後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。}(「大残虐事件資料集Ⅰ」,P396)
松井石根被告への判決(1948年11月12日)
{ この犯罪の修羅の騒ぎは、1937年12月13日にこの都市が占拠されたときに始まり、1938年2月の初めまでやまなかった。この6,7週間の期間において、何千という婦人が強姦され、10万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。}(同上,P397)
「南京暴虐事件」の判決文では、犠牲者数の内訳について次のように述べている。
{ これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の2,3日の間に、少なくとも1万2千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。}(同上,P396)
{ 中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混じり込んでいるという口実で、… 機関銃と銃剣によって、集団ごとに殺害された。兵役年齢にあった中国人男子2万人は、こうして死んだことがわかっている。}(同上,P396)
{ 南京から200中国里(約66マイル)以内のすべての部落は、大体同じような状態にあった。… 日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。南京から避難していた一般人のうちで、5万7千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生き残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。}(同上,P396)
{ 中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。… 右のような捕虜3万人以上が殺された。}(同上,P396)
上記をまとめると城内とその周辺で、非戦闘員1万2千、便衣兵2万、捕虜3万、合計6万2千人、郊外の部落で5万7千人、総計でも11万9千人にしかならない。21万人は内訳も根拠もよくわからない許伝音の次の証言に基づくものだといわれている。(秦:「南京事件」,P260)
{ 許伝音はその宣誓口供書で、「私の最善の推定によれば、南京市内外で陥落後、且つすべての抵抗がやまつて後に、日本兵の手によって殺戮された中国人一般人の総数は20万人内外であります」と言っている。}(「大残虐事件資料集Ⅰ」,P31)
ラーベは、「ヒットラーへの手紙」の中で次のように述べている。
{ 中国側の申し立てによりますと、10万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ5万から6万とみています。} (「南京の真実」,P362)