日本の歴史認識南京事件第8章 まとめ / 8.1 論争のまとめ / 8.1.1 論争の性格

第8章 まとめ

8.1 論争のまとめ

図表8.1 論争のまとめ

論争のまとめ

8.1.1 論争の性格

(1) 南京事件が注目される理由

日本人のおとなで南京事件を知らない人はいないだろうし、日本の戦争記念館などで掲示されている事件としては南京事件が最も多いという。ネットの世界にもたくさんのサイトがあり、多くの人たちが議論に参加している。なぜ、そんなに注目されるのだろうか … それは、この議論が歴史事実としての論争にとどまらず、感情的、政治的な要素を含んだ議論になっているからだと思われる。

日中戦争の象徴的事件

南京事件は東京裁判でも日中戦争における日本軍の暴虐を象徴する事件として大きく取り上げられた。しかし、日中戦争(支那事変)を侵略戦争ではないと主張する人たちにとって、南京事件の存在を肯定することは、侵略戦争であることを認めることにつながるため、どうしても否定しなければならない。歴史学的に存在するかどうかではなく、感情的・政治的に存在してはならない事件として、著名な政治家や著述家、ジャーナリストなどがこぞって否定運動を展開したのである。

30万虐殺のインパクト

中国側が主張する犠牲者数30万人以上は、旧軍関係者やそれに同調する人たちが受容できる数ではなかった。これらの人たちのなかには日中戦争侵略論とは一線を画し、一定の犠牲者が出たことを認める人たちも少なくないが、そうした人たちでさえ30万という大量の犠牲者数には感情的な反発を示したのである。板倉由明氏などはその典型であろう。もちろん、事件の存在を否定する人たちにとっても30万という数字は、反発力を高める有効な材料であった。

歴史の専門家ではない一般の人たちも巻き込んだ活発な論争の副産物として、たくさんの出版物が発行された。その中にはふつうならば専門家以外の人が目に触れられない貴重な歴史史料もたくさん含まれている。日本史のできごとのなかで、一般の人が見られる資料が最もそろっているのが南京事件ではないだろうか。

(2) 論争の性格

オーストラリア人の歴史学者アスキュー・デイヴィッド(David Askew)氏は、南京事件の論争について、次のように述べている。

{ 虐殺派【=史実派】は、少なくとも最近まで、南京軍事裁判・東京裁判およびそれらの判決書をその論拠としており、これらの裁判そのものの是非やそれぞれの判決の信憑性は不問に付している。反対に、まぼろし派【=否定派】は、これらを「勝者の正義」と見做し、真っ向から拒否してかかっている。往々にして虐殺派とまぼろし派の間の論争は多分に政治的意味合いを含む。つまり、両派とも、虐殺が「あった」・「なかった」という基本的立場を自明の理として問わず、相手を攻撃するのみである。中間派は必ずしもその名の通り両派の中間的立場を意味するものではなく、むしろ、一次史料の検証を固守する歴史家的立場をいう。… 中間派は歴史学の基本的方法論の重要性を強調するが故に、いかなる前提をも出発点としないのである。}(「書評 南京アトロシティ研究の国際化-Kitamura Minoru, The Politics of Nanjing: An Impartial Investigation の検証」,2008年10月)

筆者註; アスキュー氏はこの論文の最後で秦郁彦氏と並べて、{ 笠原十九司や吉田裕の業績の中にも実証的な研究として参考にしうるものもあり … }と評価している。

学術的な研究といえども研究者の感情をまったく抜きにすることは不可能で、中間派にも研究者の感情的要素が入っていることは否めない。これに対して史実派は実証的研究を志向しつつも、特に犠牲者数については結論ありきになってしまっているような印象があるし、否定派にいたっては政治・感情のかたまりのような議論になっているようにみえる。

(3) 中間派と否定派の議論

以下は、秦郁彦氏と保守派の論客である西尾幹二氏の論争の一幕であるが、中間派と否定派の特徴がよく表れている議論である。

西尾: … ルーズベルトはきわめて巧妙に工作を進める。日本を一歩一歩、戦争に陥れていくプロセスが、非常に興味深い心理分析を伴って描かれているのです。

秦 : いろいろな推測は可能ですが、従来の定説的解釈を覆すだけの証拠はありません。心理的な要素というのは結局、証拠がないでしょう。

西尾: 証拠なんかないですよ。

秦 : だから、それは多様で自由な論争に任せておけばいい。しかし、重要なのは、ここまでは言えるという確定した史実なんですよ。

西尾: いや、大きな歴史の流れを解釈するとき、「ここまではいえる」などと制限を設けたら、結局、ほとんどなにもいえないという結論になってしまう。…

秦 : 西尾さんは3月号論文で「実証を誇る歴史家の歴史より、真の詩魂を持つ小説家のフィクションのほうがよほど立派な歴史になっている」と書かれていますが、これはひどい。

西尾: 私は歴史の専門家を信用していないのでね。

秦 : いや、専門家にもいろいろありましてね。… 現在、定説となっているのは専門家による第一次的な論証がなされたものであって、いまさら素人による議論では動かしがたい史実ばかりなのですから。その辺は専門家にお任せください。

西尾: … いくら細かい史実が確認されてもこれは年代記、クロニクルであって、歴史、ヒストリーではない。歴史はあくまで「物語」なんですよ。…

西尾: いつまでも「日本は反省しなければならない」というような、固定的な善悪を当て嵌めるような自虐的歴史観はやめてくれと、私は歴史家、とくに昭和史研究家たちにいっているんです。… 歴史は道徳じゃない。私には彼らが歴史に道徳を持ちこんでいるように見えます。

秦 : 私は道徳など持ち込んでいませんよ。好き嫌いもです。歴史というのはあくまでも事実ですから誰の味方もしません。

(雑誌「WILL」2009年8月号増刊,P315-P316,P326-P327)

「歴史は道徳ではない」は、そのとおりだが、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(Otto von Bismark) が正しいとすれば、それは失敗や成功を生かすための知識というべきものである。

(4) 否定派のホンネ

西尾氏は"事実"では勝負できないので、「歴史は物語である」と言ったのかもしれないが、秦氏は否定派のホンネを次のように推測している。

{ 田中【正明】のホンネは … 「どうして秦さんはこうも日本軍のことを悪く悪く解釈するんでしょうね」という発言にあるかと思われる。つまり、日本人が同胞や日本軍の恥部をあばく必要はないという論理で、本多【勝一】などの虐殺派に多いマゾヒスト的筆致に反発する旧軍人やナショナリストたちの共感を呼び起こすことに成功した。}(秦郁彦:「昭和史の謎を追う(上)」,P180)

「犠牲者数はほとんどゼロ」とする過激な"完全否定論者"は別として、田中氏のように実態を理解している否定論者は、一定規模の犠牲者がいたことを認めた上で、「戦争だから」、「他国でも類似のことをやっているのに…」という不公平感が強く出ているのであろう。

(5) 史実派の中間派批判

中間派に対する否定派の批判は、上記秦氏の「田中のホンネは … 」に集約されるだろうが、史実派(笠原氏)は中間派を次のように批判している。

{ 南京事件の事実は認めながらも、犠牲者数や規模を小さく見積ることで、事件としての深刻な意味を過小評価して、戦争につきものの事件の一つにすぎない、中国の「30万人虐殺説」は虚構であると主張する「虐殺少数説」が登場するようになった。「虐殺少数説」の役割は、虐殺問題を虐殺者総数の数量の論議に矮小化させ、肝心な虐殺の実態や被害者の実態にたいする関心を稀薄化させ、ある意味で「ゲーム化」した数字や計算の議論に「論争」を集中させる傾向をもたらしたことである。「虐殺少数説」の本音は「南京大虐殺」の否定にあり、南京事件の実態を解明してその事実を誠実に受けとめようというところになかった。}(笠原十九司:「南京事件論争史」,P165)