日本の歴史認識南京事件第7章 論争史 / 7.3 過熱する議論(1980年代)

7.3 過熱する議論(1980年代)

史実派/中間派/否定派が形成され、南京事件に関する学術的研究が進展する一方で、議論はときに感情的になった。

図表7.5 過熱する議論

過熱する議論

(1) 教科書誤報事件

1982年6月26日、主要新聞各社及びテレビ局は「高校用の日本史教科書の文部省検定で中国華北への"侵略"を"進出"に改めさせた」と報じた。このニュースは、もともと"進出"と書かれてあったものを検定で書き換えさせられた、と日本テレビの記者が誤解したもので、誤報であることがまもなくわかったが、中国や韓国からは日本政府に強硬な抗議がよせられた。
鈴木善幸首相は中国を訪れて謝罪し、アジアの近隣諸国に配慮した「近隣諸国条項」を公表して沈静化をはかった。

(2) 中国での研究活発化

同じ頃、中国で南京事件の研究が活発化し、政治協商会議南京市委員会分史史料研究会が83年に発行した「侵華日軍南京大屠殺史料専輯」は84年に「証言・南京大虐殺」として邦訳が発行され、1985年には南京市に「大屠殺紀念館」が開館した。上記のような動きに対して、南京事件否定論が活発化する。

(3) 否定派の形成

上記のような動きに対して、南京事件否定論が活発化する。

{ 先頭にたったのは、松井大将の秘書だった田中正明(1911~2006)であった。1984年6月に刊行した著書「南京虐殺の虚構」は、副題が「松井大将の日記をめぐって」とあるように、松井の名誉回復が初志だったようだが、渡部昇一、小堀桂一郎や右翼陣営の支援を受けて、「まぼろし派」(本人は虐殺否定派と自称)の代表的地位を固めた。}(秦:「南京事件」,P272-P273)

田中正明氏は85年に「松井石根大将の陣中日誌」を出すが、そこには原文と異なる箇所が900以上ある、と改竄を指摘された。(6.3節 余話「田中正明氏の改竄」)

{ さすがの田中も再起不能におちこんだかと噂されたが、支援者たちに励まされて再起の日は意外に早かった。1年半後に、田中は「南京事件の総括」を刊行した。}(秦:「南京事件」,P287)

(4) 史実派の形成

1984年3月、史実派の研究者、ジャーナリストなど約20名からなる「南京事件調査研究会」が発足した。笠原氏はその目的について次のように述べる。

{ その目的は第一に、"まぼろし派"が自らの政治的立場やイデオロギーを歴史的事実に優先させ、事実そのものを無視ないし歪曲しているのにたいし、南京事件の実態をできるかぎり正確にかつ多面的に明らかにする、第二に、南京事件の歴史的教訓を真の日中友好と国民自らの主体的平和意識形成の糧としたい、とするところにあった。また折から進行中の家永教科書裁判を積極的に支援していくことも目的とした。}(「南京事件論争史」、P150)

南京事件調査研究会は、1984年12月に訪中して生存者からの聞き取りや文献資料の収集などを行っている。それらの結果を含めて、多くの歴史書などを刊行した。以下はそのうちの主なものである。

(5) 中間派

秦氏や板倉氏などの中間派が活動をはじめたのもこの頃である。中間派はグループとして活動しているわけではなく、研究者がそれぞれ個別に活動している。笠原氏は中間派の主張を「虐殺少数説」と称して批判する。

{ 南京事件の事実は認めながらも、犠牲者数や規模を小さく見積ることで、事件としての深刻な意味を過小評価して、戦争につきものの事件の一つにすぎない、中国の30万人虐殺は虚構であると主張する … その役割は、虐殺問題を虐殺者総数の数量の論議に矮小化させ、肝心な虐殺の実態や被害者の実態にたいする関心を希薄化させ、ある意味でゲーム化した数字や計算の議論に論争を集中させる傾向をもたらしたことである。}(「南京事件論争史」,P169)

板倉由明氏は1981年から南京事件の研究をはじめ、偕行社「南京戦史」の編集にも参加した。

秦郁彦氏は自身のデビューについて、{ 秦が論争に参入したのも「諸君!」84年10月号の「南京大虐殺とは何だ」と題した特集に書いた「松井大将は泣いたか」が最初である。}(秦:「南京事件」,P273) と述べている。

(6) 南京戦史の刊行

偕行社が「南京戦史」を刊行することになった経緯について、秦氏は次のように述べている。

{ きっかけは、田中正明、畝本正巳の働きかけかららしい。畝本は軽装甲車隊の小隊長として南京攻略戦に参加している。結局、偕行社は正式に南京事件と取り組む方針を決め、雑誌「偕行」の83年10月号と11月号で公表、理事長名による情報提供などの協力を呼びかけた。たとえば、「どんなことを見た」とか、「12月〇日〇時頃、〇部隊に所属して〇付近にいたが、そのようなことは何も見なかった聞いたこともない」という情報を寄せて欲しいと要望していた。下線の部分をわざわざ強調しているから、シロの証言が欲しいと言われても、しかたあるまい。
ところが、84年4月から「証言による南京戦史」の標題で連載が11回つづく過程で、シロばかりでなく灰色ないしクロのデータも集まってきた。またこの連載に刺激されてか、マスコミが次々にクロの資料や証言を掘り起こす事態が出現した。・・・
連載最終回の85年3月号に加登川幸太郎元中佐が執筆した総括的考察を掲載した。… 全体のトーンから虐殺の存在を確認した加登川は「この大量の不法処理には弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と書いた。…
外部では加登川論文は好評だったが、会の内部から強烈な反発が起きた。… 田中正明は老将軍や地方偕行社幹部に「皇軍の名誉を傷つける本を偕行社が出してもよいのか」という主旨の手紙をばらまき訴えた作戦がきいて、連載を単行本化する作業は一次頓挫した。
やっと1988年11月の総会で了承がとれ、翌年11月に偕行社編「南京戦史」として刊行される。…
ともあれ「南京戦史」は最終的に中間派の立場をとったこと、史料集に軍関係の公文書や日記などの第一次資料を大量に収録したことで高い評価を受けた。}(秦:「南京事件」,P275-P279)

笠原氏も「南京戦史」を高く評価している。

{ 「証言による南京戦史」の"その総括的考察"が南京事件論争にとって画期的な意味をもっているのは、これによって南京事件の"まぼろし説"、"虚構説"が否定され、破綻させられたことを意味するからである。ただし、自分の書いた総括をボツにされた畝本はその後も否定説を主張しつづけたし、「偕行」の会員からも"総括的考察"に抗議する投書が寄せられている…
「南京戦史資料集」と「南京戦史資料集Ⅱ」には、「南京戦史」を執筆するために収集した資料を中心に、… 陣中日誌 … 作戦命令 … 戦時旬報、戦闘詳報など、戦争終結直後の焼却を免れた記録文書が、防衛庁防衛研究所に所蔵されていたものを中心に収録されている。… 本資料集の出現によって、南京事件を上海から南京への進撃と攻略、ならびに占領という具体的な歴史展開に即して分析することが可能になった。… ただし防衛研究所が所蔵していた資料は南京戦参加全部隊の約3分の1にすぎない、その他の多くは敗戦直後に焼却・隠滅された可能性が高く残念である。}(「南京事件論争史」,P161-P163<要約>)

(7) 3派の議論

雑誌「諸君!」1985年4月号に掲載された「虐殺派、中間派、まぼろし派 全員集合」と題した座談会のもようを秦氏は次のように記している。

{ 洞富雄、秦、鈴木明、田中正明の4人に司会半藤一利という顔触れで日曜日の午後、出前のコーヒーだけで8時間論じあい、くたくたに疲れたが結論は出なかった。
争点はいくつかあった。中島今朝吾日記の読み方、松井大将への戒告と御嘉賞、南京の人口、便衣兵の摘出などだが、洞、秦、鈴木の3人が規模はともかく、かなりの数の虐殺があったとする点では一致していたので、否定派の田中が孤立していた感があった。… 中島日記に投降者7,8千人を"処理"したとあるのは「即殺害とは限らないですよ」とか、天皇から松井大将に戒告と御嘉賞の双方が出たことについて「さぁ、そんなばかなことがあるでしょうか。常識では考えられません」式に反論するしかなかったのは、いささか気の毒に思えた。}(秦:「南京事件」,P274)

秦氏は否定派と史実派の"議論"の様子を次のようにも述べる。

{ 南京事件論争のもうひとつの特徴は、… 本質から離れたリング場外の乱闘に走りがちなことだろう。渡部昇一は田中正明の「南京虐殺の虚構」に寄せた推薦文で、「本書を読んで、今後も南京大虐殺を言い続ける人がいたら、それは単なる反日のアジをやっている左翼と烙印を押してよいだろう」と言い切った人だが、…
渡部が【本多勝一に対して】「悪質なヨタ記事を流し … 見えるものを見ようとせず、根拠なき悪口雑言を書き始めるといったタイプの記者」と書けば、本多は「鉄面皮なニセ学者」とやり返す。田中対本多の「無責任なレポーター」(田中)対「明白なインチキ人間」(本多)となれば、もはやののしり合いと言ってよい。}(秦:「南京事件」,P283)

秦氏はこうした議論を次のようにまとめている。

{ 南京論争をめぐる三派の言い分のうちホンネの部分をつなぎあわせていくと、①正確な数字は誰にもわからない、②規模の大小は別として南京で虐殺事件が発生した、という共通の認識がある点はたしかなようだ。ところが立場上ホンネを表明しにくい人たちの争いであるがゆえに仁義なき泥仕合と化し、とばっちりが中間派にも飛んでくるという構図になる。}(秦:「南京事件」,P282)

(8) 参戦将兵たちの証言

栗原利一氏

栗原氏は幕府山事件に関係した歩65連隊第2中隊の伍長で、自身が描いたスケッチブックを提示して、「揚子江岸で13,500人を機関銃で殺害した」と証言したが、脅迫めいた電話や戦友などからの"忠告"が寄せられた。のちに阿羅健一氏ら否定派からの再インタビューでは殺害者数を減らした上、虐殺ではなく戦闘によるものだった、と証言を変えている。詳細は4.3.4項を参照。

宇和田弥市氏

1984年8月5日の朝日新聞に、南京戦に参戦した都城歩23連隊の元上等兵宇和田弥市氏の遺族が提供した日記と写真が掲載された。日記には、南京城西部で2千名の投降兵殺害などが記されていた。(4.2.2項(2)参照) 歩23連隊戦友会は日記の持ち主を探したが見つからず、世界日報という新聞社が介入してきて写真はニセものであることを伝え、朝日新聞の不買運動などを展開した。戦友会は勢いに乗じて「日記もニセもの」を立証しようと小倉簡易裁判所に提訴した。結局、朝日と協議のうえ、「連隊は南京虐殺とは無関係」との記事を全国版に掲載することで引き下がった。(以上、秦:「南京事件」,P289-P290より要約)

曽根一夫氏

曽根氏は南京戦における自らの体験と称して私記を出版したが、板倉氏の調査によりつくり話である可能性が高いとされた。以下は笠原氏の評価である。

{ 曽根が自らおこなった強姦、掠奪、暴行などの行為が、自分の心理状況もふくめて記述されており、ふつうの人間が戦場でどのように蛮行をおこなうようになるのかがわかる …
曽根一夫の本にたいして、板倉由明が調査をおこない、曽根が砲兵であって歩兵ではなかったこと、曽根の属した野砲兵連隊の上海から南京までの行軍跡が曽根本の記述と異なることを指摘し、曽根本が"ウソ"であると批判した。…
板倉が指摘したように、自分の身分を歩兵分隊長としているのは問題だし、整然と書かれた字を見ると、それは戦場で書いたのではなく、後日に清書したものとわかる。
曽根本は回想録として、「アチコチの歩兵から話を聞いて本を書いた」としても、南京攻略戦で日本軍がおこなった加害・残虐行為の体験・見聞録としての意味はある。しかし、板倉の厳しい批判にたいして、曽根は沈黙したままだった。}(「南京事件論争史」,P164-P165)

東史郎氏

東氏は手記をもとに南京で体験したことを「わが南京プラトーン」と題して刊行したが、その内容の一部が事実無根だとして戦友から訴えられた。

{ 東が告発したのは、南京占領直後の1937年12月21日、上官のH分隊長が最高法院前で捕えた中国人を郵便袋に詰め、ガソリンをかけて火をつけ、近くの沼まで運んで手榴弾3個を結びつけて放りこみ爆殺したという残虐行為だった。
ところが生存していた当の橋本が事実無根だとして93年4月、東京地裁に提訴する。3年後の判決は、南京事件の存在は否定できぬが、郵便袋による殺害は物理的に不可能であり、日記も数年後に書いたものと判定して名誉棄損の成立を認め、橋本の勝訴となった。}(秦:「南京事件」,P306)

その他

こうした兵士たちの証言について秦氏は次のように述べている。

{ 元参戦兵士のなかには、マスコミや運動体に担がれて不正確かつ誇大に罪行を告白する"語り部"として登場する例が少なくない。田所耕三、中山重夫、曽根一夫、舟橋照吉などで戦友会などとトラブルを起こしている。}(秦:「南京事件」,P305)

栗原氏や宇和田氏のスケッチや手記などは事件当時に書かれたもので信頼性は高いとみられるが、"ザンゲ屋"などと呼ばれて誇大な話をしていた人たちが少なからずいたのも事実のようだ。