日本の歴史認識南京事件第7章 論争史 / 7.4 国際化と政治の介入(1990年代)

7.4 国際化と政治の介入(1990年代)

南京事件論争の国際化、政治家の介入や犠牲者ゼロを主張する否定論の登場などにより、ナショナリズムが盛り上がる。

図表7.6 論争の国際化と政治の介入

論争の国際化と政治の介入

(1) 中国系アメリカ人の運動

1980年代後半から中国系アメリカ人による南京虐殺や慰安婦問題など日本の戦争責任を追及する対日賠償請求運動が本格化した。1987年、ニューヨークで対日索賠中華同胞会(Chinese Alliance for Memorial and Justice)が、1991年には記念南京大虐殺受難同胞連合会(Alliance in Memory of Victims of the Nanking Massacre)が結成され、1992年にはアメリカ、カナダを拠点に世界規模の組織として世界抗日戦争史実維護連合会が組織された。これらの団体は、日本の戦争責任を追及する宣伝活動を行い、ラーベの日記の刊行やアイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」の出版を支援した。

1990年に石原慎太郎衆議院議員が雑誌「PLAYBOY」(英語版10月号、日本語版11月号)で「南京大虐殺は中国の作り話」と発言すると、これらの団体は反発の声をあげた。(Wikipedia:「南京事件論争史」)

(2) 中国における歴史教育

1989年の天安門事件で共産党の正当性が失墜、鄧小平は学生への教育が間違っていたと述べて、愛国主義教育が中国を統一するための新しいイデオロギー上の道具となった。満州事変60周年の1991年9月18日には「九・一八事変記念館」が建設され、中国政府は中学校で歴史教育を強化すると宣言し、この日を「国恥記念日」と定めた、さらに「勿忘国恥(国の恥辱を忘れるな)、強我国防」をスローガンとして愛国主義教育運動を推進していった。(Wikipedia:「南京事件論争史」)

(3) ザ・レイプ・オブ・南京(The Rape of Nanking)

著者のアイリス・チャン(Iris chang)は中国系アメリカ人のジャーナリストで、2年ほどかけてアメリカや中国、日本の資料を調べ、1997年に頭記の本を出版した。出版当初はニューヨーク・タイムズが絶賛し60万部を超える註74-1ベストセラーとなり、アメリカ人の読者は大きな衝撃を受けたという。しかし、アメリカの歴史学者、特に日本や中国の歴史に詳しい学者からは厳しい非難があり、東中野氏や秦氏も多くの誤りがあることを指摘している。日本語への翻訳版は日本国内での激しい反対があり、10年後の2007年にようやく出版された。否定派にとって、{ 中国政府と中国人がアメリカを舞台に展開した情報戦としての反日謀略作戦ととらえて糾弾するための格好の本になった}。(「南京事件論争史」,P234)

(4) 60周年記念シンポジウム

1997年は、南京事件から60周年を記念した催しが東京、南京、台北、香港、ニューヨーク、プリンストンなどで開催された。秦氏は笠原氏とともに米国ニュージャージ州プリンストン大学でのシンポジウムに参加したときの様子を次のように語っている。

{ 運営の主体は中国系アメリカ人で数百人の聴衆も8割ぐらいがチャイニーズ・アメリカンだから異様な空気が漂っていた。日本から行ったのは秦と笠原だったが、風当たりはもっぱら秦に集中した。原因論では、笠原が「日本軍の皆殺し思想」「女性蔑視」「上海戦いらいの補給難と復讐感情」などを挙げたあと、秦が「付け加えれば、部下を放り出して逃亡した唐生智司令官にも原因がある」と述べたところ、会場のあちこちから憤激の声があがった。その後の質疑のようすは笠原の「南京事件と三光作戦」に詳述されているので一部を引用してみよう。
《 会場から異議、抗議の声があがり、一時騒然とする。… 秦氏と私にたいして、日本の中国侵略の罪について、日本政府が公式に謝罪するときがあるかどうか、という質問が出された。私が秦氏に発言を促すと、氏は発言を避け、「あなたでいい」と私に発言をまわしてきた。… 日本政府・国民も公式に謝罪が行なえるよう希望していると結ぶと、会場から拍手がおこった。
ついで司会者が「謝罪問題についての秦教授のお答えを」と促すと、会場から「謝罪せよ!」というヤジが飛び … 秦氏は謝罪問題については回答せず … 終了後、何人かの人が私のところに来て握手を求め、「立派ないい報告だった」と言葉をかけてくれた。 》
実際には会場の空気は「一時騒然」とか「ヤジが飛び」などというなまやさしいものではなかった。ブーイングの嵐で私の発言はほとんど聴き取れなかったらしい。それでも報告が終ると私のところにも白人や日本人留学生が何人もきて、「立派ないい報告だった」と言葉をかけてくれた。
謝罪についての質問を笠原にまわしたのは、質問者の表情から求めている内容が察知できたのと、学術討論から外れたテーマで日本人同士が争う姿をみせたくないとの思いもあったからだ。
アイリス・チャンが登場したのはそのあとだが、29歳の美女が歯切れよくぶったアジテーター調の弁舌は観衆を魅了した観があり、私は「やるものだなぁ」と舌を巻いた。}(秦:「南京事件」,P248-P250)

(5) 戦後50年決議の阻止活動

1993年8月に成立した細川護煕を首相とする非自民連立内閣及び次の羽田孜内閣は、先の戦争にたいする"深い反省とおわび"を表明し、戦後50周年を契機に過去の戦争の反省と未来の平和への決意を表明する国会決議(=不戦決議)を採択する方針を決めた。このような内閣の動きに連動して、戦争の被害体験や開戦原因に関する報道や博物館などでの展示も増加していった。

一方、自民党保守派は「終戦50周年国会議員連盟」を設立し、日本遺族会、神道政治連盟などの民間団体と一体となって不戦決議に反対する運動を展開する。不戦決議阻止の切り札として南京事件虚構説を利用しようと、1994年6月10日九段会館で「南京大虐殺は事実か?真相解明・謝罪外交糾弾国民集会」が開かれた。以降、上記のような右派系国会議員や関連団体などは南京事件否定論のキャンペーンを展開、書店に設置された戦後50周年フェアーのコーナーには南京事件を否定する本が平積みされた。こうした運動が実って不戦決議はしたものの中味の薄いものになった。このとき活動した団体は1997年に「日本会議」として統合され、その活動は現在に至っても活発に行われている。(以上は、「南京事件論争史」,P180-P184,P222-P229を参考にしている)

(6) 永野法相更迭

羽田孜内閣の法務大臣だった永野茂門氏は、1994年5月4日、「南京大虐殺はでっち上げだと思う」と発言して更迭されたが、上記「謝罪外交糾弾国民集会」は、「更迭は中国の抗議を怖れた謝罪外交である」と抗議した。

(7) 「つくる会」の結成

"不戦決議"に反対する活動は戦後50年を過ぎたあともますます活発化し、1997年5月には「日本会議」が発足して憲法改正や"東京裁判史観"否定などの活動が強化されていく。

{ 1997年2月には自民党の当選5回以下の議員を中心として「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(代表:中川昭一、事務局長:安倍晋三) を結成、中学校歴史教科書の"従軍慰安婦"問題をはじめとする侵略・加害の記述を削除するよう、教科書攻撃を展開した。…
上記のような動きと連動して、1997年1月「新しい歴史教科書をつくる会」(会長西尾幹二、副会長 藤岡信勝)が結成された。同会は、日本の現行教科書の批判攻撃を展開するとともに、日本の侵略戦争を肯定・美化する歴史教科書の作成をめざして精力的な活動を開始した。従軍慰安婦と南京大虐殺の記述が教科書攻撃のターゲットにされた。}(「南京事件論争史」,P231-P232<要約>))

(8) 新まぼろし派の登場

1998年思想史研究者だった東中野修道氏は「南京虐殺の徹底検証」を刊行、2000年10月には「日本南京学会」を設立して、田中正明氏らの"旧まぼろし派"とは一線を画した活動を始めた。秦氏は次のように述べる。

{ 東中野修道は、吉田松陰や東ドイツに関する著書のある思想史研究者だった。南京事件は専門外ということもあり、当初は大虐殺派の論拠を検証して論破するのを主眼とする傾向が目立ち、事件の全体像をとらえようとする視点に乏しかった。【日本南京学会に】集まった会員も大虐殺派や中国への対抗意識が強い戦闘的な運動家や局所に熱中するマニアが多く、"旧まぼろし派"と一線を画した"新マボロシ派"の誕生と評された。…
しかし、実証面を重視する会員もいて新史料の発掘、データベース分析の導入、写真の検証作業などの分野で注目すべき成果も出した。}(秦:「南京事件」,P299-P300)

しかし、笠原氏は次のように東中野氏を徹底的に批判する。

{ 東中野の方法は、"大虐殺派"が根拠にしている史料に1点でも不明瞭さ、不合理さが発見できれば"大虐殺派"のつかっているのが4等史料、5等史料にすぎないことが"検証"できるという論理なのである。…
"大虐殺派"の研究を正面から批判できないので、膨大な引用史料の一つでも批判できれば全体の信憑性が批判できるという否定のため否定の方法をつかっているのである。}(「南京事件論争史」,P245-P246)

なお、「日本南京学会」は2012年に「当初の目的を達成した」として解散し、東中野氏も南京事件の論壇から去っているようである。

(9) 家永教科書裁判結審

家永教科書裁判は1965年に第1次訴訟、1967年に第2次訴訟、1984年に第3次訴訟がはじまり、1997年8月に第3次訴訟の最高裁判決が出るまで32年間にわたって続いた裁判である。最大の争点は教科書検定が憲法に違反するかどうかであったが、第3次訴訟では南京事件など検定で修正を要求された史実の妥当性も争点になった。
憲法違反については、1970年に第2次訴訟の1審(東京地裁)判決(杉本判決)で「教科書検定は憲法21条に違反する」との判決が出て、高裁も国の控訴を棄却したが、最高裁で差し戻しとなり、最終的に憲法違反ではないとされて原告の敗訴となった。
第3次訴訟の最高裁判決(1997年8月29日)では検定制度は合憲としながら、検定における裁量権の逸脱を指摘し、問題になった7件の史実のうち、南京事件、731部隊など4件に関する検定は違法と認定した。
笠原氏は、第3次訴訟の判決により{ 南京事件論争に学問的決着がついた …}(「南京事件論争史」,P214) と主張している。

(10) 出版された歴史書など

1990年代にはたくさんの歴史書や資料などが刊行された。以下はその主なものである。


7.4節の註釈

註74-1 「ザ・レイプ・オブ・南京」の部数

笠原氏は{ 60万部を超えるベストセラー}(「南京事件論争史」,P234) 秦氏は{ 50万部のベストセラー}(秦:「南京事件」,P250) と述べている。