日本の歴史認識南京事件第5章 事件のあと / 5.3 太平洋戦争への道 / 5.3.3 開戦決定

5.3.3 開戦決定

図表5.4(再掲) 太平洋戦争への道

太平洋戦争への道

(1) 9月6日御前会議 … 戦争を準備!

石油その他の物資の輸入ができなくなり、このままいけば日本の国力は失われていく、坐して死を待つより戦って資源を入手すればアメリカとの長期戦にも耐えられる、という「ジリ貧説」が軍部の間で主張されるようになる。9月3日、大本営政府連絡会議で「外交手段を尽すが10月上旬頃までに決着の見通しがつかなければ開戦を決意する」という方針註533-1を採択し、9月6日の御前会議で承認された。

天皇は御前会議に先立ち、近衛首相、杉山参謀総長などから、事前の説明を受けた。

天皇:「日米に事が起れば、陸軍としてはどれくらいの期間で片づける確信があるのか?」

杉山:「南方方面だけは3カ月で片づけるつもりであります」

天皇:「杉山は支那事変勃発当時の陸軍大臣だぞ。あの時、陸軍大臣として、事変は1カ月くらいにて片付く、と言ったように私は記憶している。しかしながら4カ年の長きにわたりまだ片付いていないではないか」

杉山:「支那は奥地が開けており、予定通り作戦がうまくゆかなかったのであります」

天皇:「なに?支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。いかなる確信があって3カ月と申すのか」

これには杉山はすっかり弱ってしまい、頭を下げたままで答えられませんでした。

(半藤一利:「昭和史」,P360)

(2) 戦争の見通し

9月6日御前会議の質疑応答資料には次のように記されており、ドイツの勝利や米国の継戦意志喪失による戦争終結を期待するだけで、自力での勝利のあてなく戦争に突入するのであった。

{ 対英米戦争は長期大持久戦に移行すべく、戦争の終末を予想すること甚だ困難にして、とくに米国の屈服を求むることは先ず不可能と判断せらるるも、我が南方作戦の成果大なるか、英国の屈服等に起因する米国世論の大転換により、戦争終末の到来必ずしも絶無にはあらざるべし}(大杉一雄:「日米開戦への道(下)」,P82)

米英との総力戦についてはこれより前に研究が行われ、「敗戦」の結果が出ていた。

陸軍参謀本部は40年6月、「秋丸機関」とよばれる研究チームを作り、日米英の国力を資源、経済、政治など多方面から分析したが、その結論は「日本が英米と戦争しても1年か2年で日本の戦力は尽きる」であった。(大杉一雄:「日米戦争への道(下)」,P143-P144 要約)
また、40年9月には内閣直属の機関として「総力戦研究所」が設立され、政府及び軍の若手エリートを集めて「総力戦机上演習」として日米戦争のシミュレーションが行われた。結果は開戦すべきでない、開戦した場合は敗ける、というものであった。シミュレーションは各部署が保有する資料をもとにしており、客観的かつ合理的な結論とみてよい。(大杉一雄:「日米戦争への道(下)」,P144-P147 要約)

(3) 東條陸相の思い

東條陸相は9月7日の東久邇宮との会談で開戦への思いを次のように語っている。

{ 米国の日本に対する要求はせんじつめれば、日本が独伊枢軸から離脱して英米の方に入れということである。もしそうしたら英米はドイツを撃破した後に、日本打倒に向ってくるに違いない。さらに米国は日本に対し、中国全土から撤退して日中戦争以前の状態に戻すことなどを要求しているが、このような条件は、戦争で生命を捧げた尊い英霊に対して絶対に認められない。… ジリ貧になるより、思い切って戦争をやれば、勝利の公算は2分の1である。危険ではあるが、このままで滅亡するよりよいと思う。}(大杉一雄:「日米開戦への道(下)」,P90-P91<要約>)

(4) 日米交渉の行き詰まり

「日米諒解案」に基ずく交渉が頓挫したあとも、首脳会談の事前打ち合わせとして交渉は継続されたが、双方は譲らず膠着状態になった。主な争点は次の3点であった。

①仏印および中国からの撤兵 … 米国は全面撤兵を要求

②三国同盟 … 米国は事実上の廃棄を要求

③東亜における日本の権益 … 米国は無差別通商を主張

(5) 近衛内閣から東条内閣へ

近衛首相は10月12日、外相、陸相、海相を集めて「荻外荘(てきがいそう)会談」とよばれる会談を行った。近衛首相と外相は「一部譲歩して交渉継続」を主張したが、東條陸相は「開戦を決意すべき」と主張、海相は「総理に一任」で、意見の一致を見ず、近衛内閣は「閣内不一致」を理由に10月16日総辞職した。

近衛と東條は次の首相に和平派の東久邇宮を推薦したが、木戸幸一内大臣は皇族内閣が戦争開始を決めるのは好ましくない、として天皇に忠実な東條を指名、天皇もこれを認め註533-2東條が次の首相に決定した。天皇は東條に大命を下すにあたって、9月6日御前会議の決定を白紙撤回し、国策を再検討するよう指示した。

(6) 11月5日御前会議 … 戦争を決意!

国策の再検討は、10月23日から11月2日まで連日深夜に至るまで行われ、「11月末までに対米交渉がまとまらなければ、12月初旬に開戦する」ことを決定した。
日米戦の中心となる海軍は山本五十六など開戦反対派が多く、軍令部の永野総長もはじめは開戦に消極的だったが、「海軍が戦えないといえば、海軍の存在が問われる」ことを心配し、「両国の軍事力バランスからは今、開戦することが望ましい註533-3、時がたてばアメリカの軍事力はどんどん強大になる」と述べ、即刻開戦を主張した。

(7) 最後の交渉

日本政府はアメリカとの交渉のために2つの案を用意した。一つは、これまでの提案からさらに譲歩した甲案、もう一つは暫定案ではあるが南部仏印からの撤兵を謳った乙案である。11月7日、野村大使はまず甲案をハルに提示した。すでに外交電報を解読して日本の開戦決意を知っていたハルは甲案にさしたる興味を示さず具体的な交渉に入る気配はなかった註533-4
11月15日には前独大使の来栖三郎が派遣され、野村とともにハルやルーズベルトとも交渉したが進展はなく、20日に提示した乙案にもハルは難色を示した。その後も野村・来栖は連日ハルを訪問して交渉を続けたがアメリカ側の姿勢は変わらなかった。

(8) ハル・ノート

アメリカも暫定案を検討しており、基礎協定案とセットで日本側に回答する予定でイギリスや中国などとの調整作業を進めていたが、26日朝ハルは暫定案を提示しないことを関係者に連絡した。なぜ、暫定案を提示しないことになったかについては諸説あるが、ルーズベルトの判断という説が有力のようである。
米国時間11月26日夕方(日本時間27日早朝)、いわゆるハル・ノート註533-5といわれる米国案が野村大使らに提示されたが、米国の主張する原理原則を一方的に述べたもので、とても日本が呑めるものではなかった。

(9) 開戦決定

ハル・ノートは11月27日の大本営政府連絡会に提示された。アメリカからの回答にわずかな期待を寄せていた出席者はその厳しい内容に唖然とし、日本が受諾できないことを知って通知してきた最後通牒と受け取った。
12月1日、全閣僚が出席して御前会議が開催され、開戦が決定された。天皇は開戦決定について、「拒否すればクーデターが発生する恐れがあった」と戦後、告白している註533-6

(10) 宣戦布告

1941年12月8日未明(日本時間、ハワイ時間では7日午前8時)、真珠湾が攻撃され太平洋戦争が始まった。
日本では12月8日午前7時にラジオ放送が開戦を告げ、昼には開戦の詔勅が発表された。この詔勅には日清・日露戦争と異なり、「国際法の遵守」は明記されていなかった。


5.3.3項の註釈

註533-1 9月3日「帝国国策遂行要領」

{ 1.自存自衛のため、対米英蘭戦争を辞せざる決意のもとに、10月下旬を目処に戦争を準備
2.それと並行して、米英に対し外交の手段を尽し、別紙のような要求の貫徹に努める
3.10月上旬頃までに要求を貫徹し得る目処なき場合は、直ちに対米英蘭開戦を決意する }(大杉一雄:「日米開戦への道(下)」,P80)

註533-2 東條首相の誕生

昭和天皇は東條首相選任の経緯について次のように述べている。

{ そこで後継首相の人選であるが、9月6日の御前会議の内容を知った者でなければならぬし、且又陸軍を抑え得る力のある者であることを必要とした。 … 内容を知った者と云へば、会議に出席した者の中から選ばねばならぬ。東條、及川、豊田が候補に上ったが海軍は首相を出す事に絶対反対であったので東條が首相に選ばれる事になったのである。
東條という人物は、… 克く陸軍部内の人心を把握したのでこの男ならば、組閣の際に、条件をさへ付けておけば、陸軍を抑へて順調に事を運んで行くだらうと思った。
それで東條に組閣の大命を下すに当り、憲法を遵守すべき事、陸海軍は協力を一層密にする事及時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思ふと云ふ事を特に付け加へた。時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思ふと云ふ事は、9月6日の御前会議の決定を白紙に還して、平和になる様、極力尽力せよと云ふ事なのだが、之は木戸をして東條に説明させた。…
近衛の手記に、東久邇宮を総理大臣に奉戴云々の記事があるが、之は陸軍が推薦したもので、私は皇族が政治の責任者となる事はよくないと思った。尤も軍が絶対的に平和保持の方針で進むと云ふなら、必ずしも拒否すべきではないと考へ、木戸をして軍に相談させた処、東條の話に依れば、絶対に平和になるとは限らぬと云ふ事であった。
それで若し皇族総理の際、万一戦争が起ると皇室が開戦の責任を採る事となるので良くないと思ったし又東久邇宮も之を欲して居なかったので、陸軍の要求を退けて東條に組閣させた次第である。}(寺崎英成編:「昭和天皇独白録」,P80-P81)

註533-3 海軍の主張する最適開戦時期

{ さまざまな研究や演習の結果、アメリカに対して7割の海軍力があればなんとか頑張れるとされていました。…
対米比率が7割になるのはいつかということになります。それが、昭和16(1941)年12月なんですね。… 日本海軍の艦艇数235隻、総トン数97万5793トンに対して、アメリカは345隻、138万2026トン、つまり日本の対米比率は70.6%です。… 昭和17年,18年になれば、6割、5割となってしまいます。}(半藤一利:「昭和史」,P369)

註533-4 最後の日米交渉 … 野村大使の報告

野村大使は11月14日電で次のように本国政府に報告している。

{ (1) 米国は、その信条たる政治的根本原則を譲り妥協するくらいならば、戦争を辞せざる覚悟である
(2) 三国同盟は日本政府当局の政策により、いかようにも運用されるから安心できないと主張
(3) 米国が大西洋に忙殺されるようになれば、太平洋では多少妥協するだろうと予想していたが、現在の米国内は対独参戦より対日参戦の方が反対が少なく、太平洋から参戦する可能性がある。
(4) 日本国内の政情が逼迫していることは承知しているが、結論を急がず世界戦の状況が判明するまで辛抱するのが得策と考える。}(大杉一雄:「日米開戦への道(下)」,P196 要約)

註533-5 ハル・ノート(Wikipedia:「ハル・ノート」 要約)

ハル・ノートは正式名称を「合衆国及日本国間協定の基礎概略」(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)といい、冒頭に「厳秘 一時的且拘束力なし」(Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)との記載がある。

1.政策に関する相互宣言案
「4原則」と無差別待遇を中心とする国際経済関係の原則

2.日米両国政府のとるべき措置

①日米英ソ蘭中タイ国間の相互不可侵条約締結

②仏印の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等

③中国及び仏印よりの日本軍の全面撤兵

④中国における蒋介石政権以外の政権を支持しない

⑤英国その他諸国の中国における治外法権及び租界の撤廃

⑥最恵国待遇を基礎とする日米間互恵通商条約締結

⑦日米相互凍結令解除

⑧円ドル為替安定資金の同額出資

⑨日米両国が第三国との間に締結した如何なる協定も、本協定及び太平洋平和維持の目的に反するものと解釈しない(三国同盟の実質廃棄)

⑩本協定内容の両国による推進

これを手交した時のハルは、{ さすがにばつの悪そうな様子であったとみえて、日本側の指摘、質問にはまともに答えず、もっぱら世論に配慮せざるを得なかったと縷々述べ、弁明にこれ努める風であった。} という。(大杉一雄:「日米開戦への道(下)」,P248)

註533-6 天皇の開戦決意

昭和天皇は開戦を決意した時の心境を次のように述べている。

{ 開戦の際東條内閣の決定を私が裁可したのは、立憲政治下に於る立憲君主としてやむを得ぬ事である。若し己が好むところは裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異なる所はない。…
今から回顧すると、最初の私の考えは正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時に於てすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起った位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が「ベトー」を行ったとしたらば、一体どうなったであろうか。…
私が若し開戦の決定に対して「ベトー」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨時が行はれ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は滅びる事になったであらうと思ふ }(寺崎英成編:「昭和天皇独白録」,P159-P160)

※ベトー; veto 拒否権