日本の歴史認識南京事件第5章 事件のあと / 5.2 日中戦争のその後 / 5.2.1 その後の軍事行動

5.2 日中戦争のその後

図表5.2 日中戦争のその後

日中戦争のその後

5.2.1 その後の軍事行動

(1) 「蒋介石を対手【あいて】とせず!」

2.4節(9)に記載のとおり、日本と中国はドイツの駐華大使トラウトマンが仲介した和平交渉を行っていたが、南京陥落後、日本政府は従前の講和条件に賠償を含む厳しい条件を追加して、中国側に提示した。中国からの「条件の細目を知りたい」という回答に対し、大本営(陸軍参謀本部)は交渉継続を主張したが、広田外相、近衛首相は打ち切りを決め、有名な「国民政府を対手とせず」という近衛声明を1月16日に発表、その結果、交渉相手を失って日中戦争は泥沼化した。

(2) 徐州会戦

1938年3月に山東省台児荘で起きた日本軍と中国軍との戦闘をきっかけにして、大本営は徐州作戦を発動することを決めた。2月に当分のあいだ大規模な戦闘を控えることを決定したばかりであったが、その方針の立役者である河辺作戦課長が解任され、新たな作戦課長として赴任した稲田正純中佐は積極的な軍事作戦を企てる現地軍の意をくみ、徐州、漢口、広東作戦の発動を提案していた。
徐州作戦の目的は、津浦線(天津と浦口を結ぶ鉄道)の貫通と、徐州に集結していた中国軍主力の撃滅であった。日本軍は7個師余(約21万人註521-1)の兵力で、北支那方面軍は4月下旬から、中支那派遣軍は5月上旬からそれぞれ徐州に向けて進軍し、15,16日には包囲網を完成した。約50個師(50~60万人註521-1)の中国軍は、いち早く退却を決め、日本軍の包囲網を突破して脱出した。日本軍は5月19日に徐州に入城している。
目的であった津浦線の貫通は達成したが、中国軍の多くは逃走したため撃滅することはできなかった。

(3) 漢口作戦(武漢作戦)と広東作戦

徐州作戦に続き、大本営は実質的な首都であった漢口の攻略命令を8月22日に発した。作戦の軍事的な目的は、中国軍の撃滅よりも武漢地区(武昌、漢口、漢陽)の占領としたが、蒋介石の屈服を目指したもので、兵力は日本軍9個、師団(35万人註521-2)、中国軍120個師団(110万人註521-2)がぶつかりあう日中戦争最大の戦闘となった。
8月下旬から本格的な戦闘が開始され、9月29日には漢口防衛の最大拠点田家鎮要塞を落とし、10月26日には漢口市を占領した。漢口の占領という戦闘の目的は達成したが、蒋介石は重慶に逃れ、国民政府を屈服させることはできなかった。
漢口作戦とほぼ同時期に行われた広東作戦では、兵力を漢口に集中させていた中国軍の抵抗はほとんどなく、10月21日に日本軍は広東を占領した。

(4) 漢口作戦後

秦氏は「日中戦争史」で次のように述べている。

{ 漢口作戦の軍事的成功によって中国が屈服することを期待した日本の希望は裏切られ、長期消耗戦への移行が確定的になってきた。日本は一面において和平工作による戦争の終結に努めるとともに、他面では戦略要点を確保しつつ間けつ的な討伐作戦をくり返して駐留軍隊の練度を維持し、あわせて中国軍の反抗、再建を破砕しようとした。
中国は漢口作戦までの戦闘で軍需資材、重火器の大部分と、精鋭軍の大半を失い、地勢的にも分断されたため、大規模な反撃作戦を開始する余力を持てず、仏印・ビルマ・西北各ルートや華南海岸から流入する列国の援蒋物資に頼りながら小規模な攪乱作戦やゲリラ戦闘によって抵抗した。したがって、漢口作戦以後は両軍の間に大規模な野戦戦闘は行われなかった。}(秦郁彦:「日中戦争史」,P296-P297)


5.2.1項の註釈

註521-1 徐州作戦の兵力  Wikipedia:「徐州作戦」

日本軍の兵力; 約216,000人
中国軍の兵力; 50~60万人

註521-2 漢口作戦の兵力  Wikipedia:「武漢作戦」

日本軍の兵力; 35万人、航空機500、艦船120

    損害; 戦死9,500 戦傷26,000

中国軍の兵力; 110万人、航空機200

    損害; 遺棄死体195,500 捕虜11,900