日本の歴史認識南京事件第5章 事件のあと / 5.1 事件の報道 / 5.1.2 書籍等による情報発信

5.1.2 書籍等による情報発信

図表5.1(再掲) 事件の報道

事件の報道

(1) 石川達三「生きている兵隊」

第一回芥川賞受賞作家の石川達三は、小説というかたちで実態を伝えようとした。彼は、中央公論社の特派員として1937年12月25日に東京を発ち、南京に着いたのは1月5日だった。南京で8日間、上海で4日間取材したあと帰国し、2月1日から原稿を書き始めて10日間で脱稿、2月18日発売の「中央公論」3月号に掲載された。原稿は330枚、編集部が伏字をあちこちに入れたが、それでも発売の翌日、「軍を誹謗したもの」「反軍的内容をもった不穏当な作品」として発売禁止となった。その後、石川と編集長は起訴され、禁錮4か月、執行猶予3年の判決を受けた。

「生きている兵隊」の内容は、秦氏がうまく要約しているのでそれを借用する。

{ この作品は、ある小隊の数人の兵を登場させるフィクションの体裁をとっているが、第16師団の行動記録に照合してみると一致点が多く、実質的にはノンフィクションといってよい。作者もそれを自認してか、執筆の動機は「戦争というものの真実を国民に知らせること」にあったと述べ …
「生きている兵隊」は題名どおり、戦場における兵士たちの行動と心理を描き出している。母親の死体を抱いて泣き叫ぶ娘を「うるさい」と刺し殺した元校正係の平尾一等兵、それを「勿体ねえことしやがるなぁ」とからかい、捕虜の試し斬りに熱中する農村青年の笠原伍長、ジュズを巻いた手でシャベルをふるい敗残兵を殴り殺す片山従軍僧、女を撃って憲兵に捕まるが、釈放される医学士の近藤一等兵 … いずれも、歴戦の勇者であり、生き残りである。そして平常心を取り戻せば、平凡な市井の青年たちにすぎない、と作者は暗示していた。その彼らを一様に略奪、強姦、放火、殺傷にかり立てた契機が何であったかについて、作者は直接には答えていないが、充分な補給と納得の行く大義名分を与えられずに転戦苦闘すれば、兵士たちの心情が野盗なみのレベルまで荒廃していくものだ、と訴えているようにもとれる … }(秦:「南京事件」,P20-P21)

(2) マギー・フィルム

マギー・フィルムとは、国際委員会委員のジョン・G・マギー牧師が南京事件の被害者などを撮影したフィルムである。撮影は主として鼓楼病院で行われたといわれ、暴行を受けた子供や女性、中国兵の死体などが映っている。
 このフィルムはマギー牧師自身が作成した解説書とともにドイツの南京駐在外交官からドイツ外務省にも送られ、その解説書が「ドイツ外交官の見た南京事件」(P166-P177) に掲載されている。ショッキングな情景もあるが、どんな暴行が行われたのかがわかるので、一部を引用する。

ここに示される映像は、1937年12月13日の日本軍による南京陥落に引続いて起った、言語に絶する出来事を断片的に垣間見せるものにすぎない。… カメラを壊されたり押収されたりしないよう、人目を避けるのに多大な注意を払わなければならなかった。こうした理由で、私は、人が殺される光景や、町のあちこちに横たわるおびただしい死体を撮影することができなかった。… 公正のために一言いえば、多くの日本人は一部の日本兵のひどいふるまいを認めていた。2人の新聞記者もそれを私に認めた。その一人は、このようなことが起ったのは「避けがたかった」と言った。軍紀の弛緩を認めたある総領事も同じ言葉を述べた。… 私は何度も日本を訪れたことがあり、この国がどんなに美しく、また品性を備えた人が大勢いることを知っている。もし日本人が、戦争がどのように引き起こされ、遂行されてきたかについての真実を知れば、かれらの多くは恐ろしさに震えることだろう。…

フィルム1

この映像の大部分が1937年9月と10月の間におこなわれた日本軍の南京空襲で構成されている。…

フィルム2 シーン(1)~(6),(8)は省略。

(7) これは、大学病院(鼓楼病院)に入院して3日後に亡くなった7歳ぐらいの少年の死体である。かれは腹部に銃剣で5ケ所の傷を負い、そのうちのひとつが胃を貫通した。

(9) この男性は、日本兵が何をしたいか理解できなかったため、胸を撃ち抜かれた。かれは農民である。この種の事例は鼓楼病院では非常に多い。

フィルム3 シーン(12)まであるが下記以外は省略。

(1) これは他の70名ほどといっしょに金陵大学の養蚕棟から連行された男性の死体である。かれらは全員銃火をあびせられ、何人かは銃剣で刺された。その後、すべての死体にガソリンをかけられ火が放たれた。この男性は銃剣で2か所の傷を負っていた。顔や頭にひどい火傷を負ったが、鼓楼病院へ行くことができた。だが、その20時間後に亡くなった。

(2) これは、あるほうろう製品店の店員の映像である。ある日本兵が店員に煙草を求めたが、店員が差し出せなかったため、日本兵はかれの頭部を銃剣で強打し、耳のうしろの頭蓋骨に大きな穴をあけた。…

(8) この女性は光華門の内側に、夫と年老いた父親、そして幼い5歳の子どもといっしょに住んでいた。日本兵が城内に入ったとき、かれらはこの家に押し入り、食べ物を要求した。かれらはこの女性と夫に出て来るように怒鳴った。夫がそうすると、かれらは夫を銃剣で刺した。彼女が怖がって出ないでいると一人の兵士が部屋に入り、彼女の胸を撃ち抜き、その銃弾が偶然にも幼子の命を奪った。

フィルム4 シーン(9)まであるが下記以外は省略。

(1) この女性は、日本軍将校の衣服を洗うために、他の5名とともに難民センターから連行された。彼女は、軍の病院として使用されているらしい建物の2階へ連れて行かれた。彼女たちは日中、衣服を洗濯し、夜は日本兵を楽しませた。彼女の話によると、年かさの不器量な女性は一晩で10回から20回強姦されたが、若くて綺麗な方は一晩で40回も強姦された。フィルムの女性は、あまり美人ではない方の一人だった。1月2日、二人の兵士が同行するよう彼女に誘いをかけた。彼女はかれらについて空き家に行った。そこでかれらは彼女の首を切ろうとしたが失敗した。彼女は血の海のなかで発見され、鼓楼病院へ運ばれ、いまは回復している。…

(4) 1月11日、この13,4歳の少年は、日本兵3名に、城内南部へ野菜を運ぶことを強要された。日本兵は少年の有り金全部を奪い、背中を2度、腹部を1度銃剣で刺した。暴行をうけた2日後に少年が鼓楼病院に着いたとき、大腸が1フィートほど突き出ていた。かれは入院して5日後に亡くなった。…

(9) 12月13日、約30人の兵士が、南京の南東部にある新路口5番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏も撃ち殺した。馬婦人がどうして夫を殺したのかと問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。 夏夫人は、一歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。…以下省略するが、これは「夏淑琴さん事件」の模様を生き残りの少女からヒアリングしたもので、フィルムには殺害された人たちの間に横たわる少女2人を映しだしているという。

このフィルムを同じく国際委員会のフィッチが1938年1月、密かに上海に持ち出し、フィルムのコピーを作製した。フィッチはこのコピーをもって同年4月、アメリカ本土に渡り、各地で上映会を開き、政府要人や報道関係者にも見せた。また、1938年5月16日号の雑誌「ライフ」でもこのフィルムが紹介された。こうしたアメリカでの報道は、アメリカ人の反日感情をあおることになった。

(3) 「戦争とは何か」の出版

オーストラリア人でマンチェスター・ガーディアン紙記者のH.J.ティンパリー(Harold John Timperley)が、国際委員会のベイツやフィッチらの情報提供を受けて編集した「戦争とは何か」(What War Means: the Japanese terror in China: a documentary record)が、1938年7月にロンドン、ニューヨーク、中国で発売された。
全文の日本語訳が、洞富雄編:「大虐殺事件資料集2」に掲載されているが、A5判で付録を含めて140ページほどのものである。本文の目次は次のようになっており、1章のほとんどと2章から4章まではベイツ又はフィッチが書いたものとみられている。

この本については、否定派からティンパリーは国民党宣伝部の顧問をしており、国民党の宣伝文書にすぎない、という批判があるが、詳しくは6.3.3項で述べる。