日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.6 市民への暴行(まとめ) / 4.6.3 各派の主張

4.6.3 各派の主張

図表4.6(再掲) 国際委員会が報告した事例の分析

国際委員会の事例分析

(1) 犠牲者数

市民への暴行による犠牲者数は、国際委員会のスマイス博士がまとめた「南京地区における戦争被害」(通称「スマイス報告」)や、ラーベなどが推測した数字がある。詳細は4.7節で述べるので、ここでは概要のみ記す。

(2) 否定派の主な主張

否定派の主張には次のようなものがある註463-1が、詳細は第6章で述べるとして、この節ではこれらの要素のいくつかが含まれる冨澤氏の主張とその反論を次項で紹介する。

(3) 冨澤氏の主張 … 南京事件は外国人が創作した!?

冨澤氏が「安全地帯の記録」で主張する結論は次のようなものである。

{ 「南京事件」という虚報の体系を作り上げたのは、南京に残留していた外国人達であり、彼らがいたからこそいわゆる「南京事件」なるものが創作された。… 彼らは日本軍の占領目的を阻害し、南京の政治的ヘゲモニー【覇権】を自分達に留保するために「南京事件」なるものを、日本軍兵士たちがあるいは犯したのであるかもしれない占領軍としては許容されるべき細かな事件を混ぜて殊更に大きく宣伝し、このヘゲモニー争いを有利に導こうとしたために作り上げたのである。}(「安全地帯の記録」,P42-P43)

(4) 冨澤氏の主張への反論

この結論の前提及び根拠としてあげているのは次のようなものである。(→は筆者の反論)

①「南京事件」の舞台は「安全地帯」であって、「南京全市」にわたるものではない。 { 市民はほとんど全員が安全区に集結、中国軍の大部分は逃走し一部が安全区に潜入した。}(「安全地帯の記録」,P9-P10<要約>)
→東中野氏でさえ幕府山や中華門などで(合法と言いつつも)大量の捕虜殺害があったことを認めている。

②事例は、"ヘゲモニー争い"を有利に導くために蒐集された。{ 第一の山は日本軍入城のすぐ後である。日本軍の駐留により地獄となったことを立証し、難民たちが元の住居に帰れるような施策を要請するために事例を集めた。第二の山は、日本側が住民たちを帰還させようとしたときである。国際委員会はそれが自分たちの行政機能を害するものとして猛反発し、住民たちが帰還するところは地獄であることを立証しようとして事例を集めた。}(「安全地帯の記録」,P50)
→意図的に事例を集めたと言うのであれば実態とのギャップがあるはずだが、そのギャップを客観的事実として示しておらず、憶測にすぎない。

③安全地帯を"警備"していた日本兵は1700人だったので、一日1000件などという強姦が起るはずがない。
→1700人(歩7連隊の一部)が安全区の"掃蕩"を行っていた頃(12/13~20)、南京周辺には7万人以上の日本軍がいた註31-4<ページ外>

④日本兵は夜間外出禁止だったから夜に事件が起こるはずがない
→夜抜け出す兵がいたという証言もある註463-2。 残念ながら軍紀が弛緩していたことを示す証言や記録は多数ある。(6.7.2項(4)に日本軍関係者の証言や記録あり)

⑤目撃者が少ない
→悪いことをするときは人目をさけてやるから目撃者は少ないのが当然。冨澤氏は外国人が「意図的に事例を集めた」、「ヤラセが多い」と言っているが、そうであれば目撃者を作るくらい簡単だったはずで、目撃者がいたからといって信用できるわけではない。

⑥文責者が書かれていない事例が多い、被害者名や被害場所が書かれていない事例が多い
4.6.2項(5) 参照

冨澤氏は上記以外に、「戦争とは何か」への批判の中で、具体性のない事例が多い、ベイツは国民党の顧問だった、安全区の外に住民はいないのにそこで事件が起きている、埋葬記録は誤り、1月23日以降の事件は国際委員会のヤラセが多い、などを主張しているが、いずれも誤りか、根拠のない憶測にすぎない。

(5) 占領軍として許される範囲!?

冨澤氏が主張する「占領軍として許容される範囲」でないことは、次のような事実から明確である。


4.6.3項の註釈

註463-1 否定論の名称

否定論の名称は、笠原十九司:「南京事件論争史」,P87-P88による。

註463-2 夜間抜け出す兵士 藤田清<独立軽装甲車第2中隊曹長>の証言

{ 夜になると、こっそり隊を抜け出す男が二人、将校は知らず、私も報告しませんでしたが、現役のFと召集兵のOでした。宿舎を抜け出して何をしたか、恐らく「女遊び」に行ったものと想像します。私の中隊は軍紀厳正な部隊であったが、南京入城後、120名の隊員中、2名の不心得者が居ったことは事実です。} (「証言による南京戦史(11)」,P11)

註463-3 岡崎総領事の東京裁判での証言

{ … 私が最初同地に到着した時は、事態はひどく悪化していました。軍隊は全く無統制でありました。… 国際委員会は、同市内において行われたと主張せられて居る暴行に関する報告を南京駐在の日本領事に行ひ、そして私が南京滞在中、同市内の事態について殆んど毎日私の所へ話に来ました。 … 国際委員会の報告書を南京の日本領事館で受取りました時、その報告書の概要は電報で東京に送られ、報告書其物も亦郵便で東京の外務省に送られました。 … 南京の日本領事館は、受け取る度に此等報告書に松井大将或はその麾下将校の注意を促した。 ・・・ 南京に起りつつあった事について、その後、松井大将と会話した時、同大将は、「何等弁解の辞もない」と言はれました。 … }(「大残虐事件資料集Ⅰ」,P383)