日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.5 市民への暴行 / 4.5.4 反動期(1/24~2/6)

4.5.4 反動期(1/24~2/6)

図表4.5(再掲) 市民への暴行

市民への暴行

※ このグラフは、安全区国際委員会の報告書「南京安全区档案」に記載の事件を集計したもので、被害者数には強姦・掠奪被害者も含む。
報告書に記載された事件は氷山の一角に過ぎず、市民の犠牲者総数は数千から数万に及ぶと見られている。

(1) アリソン事件(事件の推移)

1月上旬になると各国の外交官が南京に戻ってきた。アリソン(J.M.Allison)は南京アメリカ大使館の3等書記官で、1月26日にアメリカ人の施設を調査のために訪問した際、日本兵に殴られる事件が発生、これがアリソン事件と呼ばれる事件である。アリソン氏は駐日アメリカ大使のグルーに次のように報告している。

{ 私【アリソン】に対して1月25日に次のような報告があった。すなわち、前日の夜11時頃、武装した日本兵たちがアメリカ人施設である金陵大学農学院の作業所に侵入し、… 女性一人を連れ去った。その女性は2時間後に戻ってきたが、報告によれば彼女は3回強姦されたという。…
1月26日の午後、私服の領事館警察1人と憲兵複数名が同件の調査に来て、私とリッグス氏を伴って、その女性が連れ去られた場所へ行った。…
憲兵の一人がその女性を連れて、開いた門を通って敷地内へ入っていった。そこでリッグス氏も後についていった。私もそれに従った。そしてちょうど門の内側で、われわれは議論するために立ち止った。そうしているところに日本兵が血相を変えて突進してきて、「バック、バック」と英語で叫ぶと同時に、門まで私を押し返した。私はゆっくりと下がったが、門から追い出される前に、その日本兵は私の頬にビンタをくれ、それからリッグス氏にも同じことをやった。われわれが同行した憲兵は弱々しい態度ながらもその日本兵を止めようとした。そのうちの一人が日本語で「こいつはアメリカ人だ」あるいはその種の意味のことを言った。われわれはそれから門の外の道路に出た。
われわれがアメリカ人と聞くやいなやその兵士は激昂して「アメリカ人!」と叫ぶと、彼の近くにいたリッグス氏に再度襲いかかろうとした。憲兵らがそれを止めようとしたが、彼はリッグス氏の衿を引き裂き、シャツのボタンをいくつか引きちぎった。…}(「南京事件資料集Ⅰ」,P234)

{ アメリカ政府はグルー駐日大使をとおして強硬に抗議し、日本政府はすぐに謝罪して賠償を約束し、外交的には一応決着をみた。しかしアメリカのマスコミではパナイ号撃沈事件に続いてアリソン事件を大々的に報道した。… アメリカ国民のあいだに高まりつつあった日本軍への反感がさらに煽られる結果になった。}(「南京難民区の百日」,P345)

(2) アリソン事件(日本側の調査)

この事件を日本側で調査した結果について、秦氏は次のように記している。

{ この事件に立ち会った派遣軍司令部の本郷忠夫参謀と石倉軍二伍長の回想を照合するとなぜアリソンが赤ら顔の大男に力ずくで追い出されたか、理由がはっきりする。
問題の家屋は天野郷三予備中尉(歩33連隊第8中隊長)と十数名の兵士の宿泊所で、かけつけた本郷大尉が天野の室に入ろうとすると、兵士たちが押しとどめる。無理に入ってみると、天野が女と寝台に寝ていて、隣室にも3,4人の女がいた。 問いただすと、天野は連日あちこちから女を連行しては、部下とともに強姦していたことがわかった。… 結局、天野以下の12名は軍法会議へ送致されることになり、1月29日、ほかの数件とともに軍司令官の決済を終った。… *天野は禁錮刑を課せられ、旅順軍刑務所へ送られた。戦後、弁護士を再開、昭和39年没した。(秦:「南京事件」,P178)

(3) アリソン事件(日本軍の見解)

この事件に対する日本軍の見解は「アリソン氏が軍の制止を振り切って侵入したことがきっかけ」としており、東中野氏はその見解を採用して次のように述べている。

{ アリソン領事が天野中尉の買春事件を聞きつけて、天野中尉の宿舎に入ろうとした。日本軍兵士が制止したが、それを振り切って強引に日本軍の宿舎に踏み込もうとしたため、領事は殴打されてしまった。…
アメリカ領事といえども、軍の制止を振り切って侵入することは、軍の指示を無視する不遜な行為であった。事件の翌日、逸早く深堀報道班長がアリソン領事の「検察官的不遜の態度」、つまりアリソン領事の越権行為について発表すると、それが「殆ど全世界の輿論を制してしまった」ため、この事件が大きな問題に発展することはなかった。ただ、殴打にかんしてのみ、日本軍はアリソン領事に陳謝している。}(「再現 南京戦」,P334-P335)

(1)に記載の報告によれば、アリソン氏は日本の領事館警察や憲兵の後について門を入ったところで日本兵に襲われており、「日本軍の制止を振り切って強引に踏み込もうとした」という状況ではない。

少なくとも「全世界の輿論を制した」ことはなく、この事件がきっかけになって、アメリカで日本製シルクの不買運動が起き、外務省が陳謝してようやく収まっている。

(4) 難民への帰宅指示

国際委員会の第56号文書によれば、日本軍特務機関は1月28日の自治委員会において、2月4日までにすべての難民は自宅に帰るよう指示した。難民は1月中旬から自宅の下見などのために一時帰宅する者もあったが、この指示が出た後、帰宅者は増加した。しかし、帰宅先で掠奪や強姦などにあい、再び安全区に戻ってくる者もおり、中には家財を持ち込む者もいた。ラーベは2月2日の日記に次のように書いている。

{ 今日、上海日本大使館の日高信六郎参事官と、ローゼン宅で昼食。我々が記録した日本兵の暴行はこの3日間だけでなんと88件もある。… 日高氏はまったく困ったものだとつぶやいて、部隊が交代するときには往々にしてこういう事件が起きがちだといいわけした。「前の部隊は評判が悪く、1月28日に離任させられたんですが、撤退前にもう一度けしからぬふるまいに及んだという話です」
この手の逃げ口上は先刻承知だ。けれども我々は、いま報告されている強姦などの事件が実は新しい部隊のしわざだという証拠をつかんでいる。
難民が2月4日に力ずくで追い立てられるというのは本当かと聞くと、自分が知る限りでは、ぜったいにそんなことはないと日高氏は言った。… 私は念を押した。「近いうちに我々も収容所を解散したいと考えています。ですからなおのこと、いくども難民に家へ帰るようすすめました。けれどもそのためには、一にも二にも安全であることが条件になります」 日高氏は、強制執行しないということは中国人には黙っていてくれといった。すんなりいかないと困るというのだ。私は約束した。}(「南京の真実」,P252)

※「前の部隊」は、第16師団歩30旅団。アリソン事件の天野中尉もここの所属。

日本軍はこの時点になっても将兵の非行の状況を正しく把握できていなかったようだ。秦氏は次のように書いている。

{ アリソン書記官が2月12日上海派遣軍へ、1月28日から2月1日の間に89件の略奪・強姦があったと抗議してきた。そこで飯沼参謀長が憲兵隊に調べさせると、該当の事実は数件しか見つからなかった。憲兵隊が把握しうる非行は、依然として氷山の一角にすぎなかったのである。}(秦:「南京事件」,P182)

(5) 収容所の一部閉鎖と帰宅状況

以下は、ミニー.ヴォートリンの2月4日の日記である。

{ 午前中、5人の若い女性が聖経師資培訓学校〔聖書講師養成学校〕からやってきて、きのうそこの収容所が閉鎖されたこと、彼女たちがそれぞれの家に帰ったこと、夜間、兵士たちが侵入してきたこと、彼女たちが家の塀をよじ登って聖経師資培訓学校に逃げ戻ったことを話した。・・・
午後5時30分、救援計画について相談するためプラマーがやってきて、どの収容所でも強制退去は行われていない旨を述べた。午後5時、若い女性200人ほどがやってきて頭を地面にこすりつけ、ここにいさせてくれと懇願した。彼女たちを強制的に帰宅させることは考えていなかった … }(「ミニー・ヴォートリンの日記」,P153-P154)

ラーベは2月5日の日記に、ある収容所の責任者である中国人からの手紙をのせている。その中国人によればそこの中学では5000人だった難民が8000人に増えている。

{ 金陵大学付属中学からの手紙 1938年2月5日 拝啓ラーベ様 … 保護を求めて戻ってくる難民の数は増える一方です。そして家には長くいられないと口々に訴えております。… 娘を出せと言われ、言うことをきかなければ殺すと脅迫されるのです。… 自治委員会には日本に対する影響力はまったくありません。委員会から、難民を助けることのできるのは国際委員会だけだと言われました。自治委員会の妻たちでさえ、一般民と同じように強姦されているありさまなのです。}(「南京の真実」,P256-P257)

2月4日以降、一部の収容所は閉鎖され、難民も少しずつ自宅に戻っていったが、まだ半分以上の難民が安全区にとどまっていた。以下は、2月14日付けのベイツのメモである。

{ 12月後半の難民キャンプの人口は最高時に25キャンプに69,406人であった。1月25日には60,000人であった。今現在、24キャンプに35,334人収容している。… 日本当局による自宅帰宅者の登録の報告に基づけば、1月に25万人であったのに対して、現在は15万人が安全区に残っている。 }(「南京事件資料集Ⅰ」,P173)

(6) 本間少将の宴会

現地視察に訪れた参謀本部第2部長の本間少将は、南京で2月1日、各国外交官を招いて大宴会を催した。参加したドイツ大使館のローゼン書記官は次のような報告書をベルリンに送っている。

{ 宴会はわれわれの異議や苦情を封じ込めようとするあからさまな下心をもって開かれた。… 愛くるしい芸者たちが、杯を飲み干す間も与えず酒の酌をし、将校たちはほどなく軍服の襟のボタンをはずし、歌才に恵まれた者も、そうでない者も歌に興じ始めた。芸者たちは、手もなくわれわれ一同の膝の上に腰を下ろし、この甘美な重荷から解放されるには、グラモフォンの楽曲にあわせたダンスに彼女たちを誘うしかなかった。}(「ドイツ外交官の見た南京事件」,P143-P144)

ローゼン書記官は日本軍には批判的だったので厳しく批判しているが、他の外交官がどう感じたかはわからない。日本側はこの宴会に外国人は満足した、と受け取ったようだ。上海派遣軍参謀副長の上村利道大佐は2月1日の日記に次のように記している。

{ 夜大使館に英、米、独等の領事を招待し、晩餐会談、大に彼等の心境を軟らけ大の効果ありし如く観察せらる。今後の成果果して如何?}(「南京戦史資料集2」,P279)

(7) 天谷司令官のティーパーティ

2月5日、新任の南京警備司令官天谷少将が各国の外交官を招いてティーパーティを開催した。以下、出席したローゼン書記官がベルリンに送った報告を要約して引用する。

{ 少将は原稿を手に長々と演説をし、福田担当官がたどたどしく英語に通訳した。まず少将は、日本軍は厳しい軍紀で世界に名高いが、中国でこのような事態が起きた原因は中国にある。日本兵は進軍中に食糧と必要物資にありつけずその怒りを住民にぶちまけたのだ。天谷少将は中国側を激しく叱責した。中国軍は日本人将校を狙った、中国人スパイは日本軍司令部の位置を発火信号などで知らせ攻撃させた …
天谷少将は、外国人とくに「ある国」の人間が不遜にも裁判官の役目を果たそうとしている、外国人が介入しなければ、日中関係はうまくいったはず、中国人を抗日運動に仕向けたのは外国人だ!
最後に少将は、何か意見はあるかと尋ねた。私はこの「演説」に反感を覚えたが、発言は断念した。米国人のアリソン氏が原稿の写しを求めたが、演説は即興的なものだと返答された。いましがた少将が原稿を読み上げていたのに …
天谷少将の演説からは、中国人の抵抗が日本軍をかなり動揺させたことがわかる。屈辱を経験した民族がついには外国の侵略に抗して立ち上がるということは、祖国愛の強い日本人には自明のことであったはずである。
たしかに日本軍の怒りは理解できる。なぜなら、中国の日本軍はこれまで世論を閉め出して行動することができたのに、ここ南京では細かな点まですべて白日の下にさらされてしまったからである。秩序なき中国に日本軍が光明と秩序をもたらす、という説はこれで台なしになった。}(「ドイツ外交官の見た南京事件」,P147-P152)