日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.2 西部・南部における掃討戦 / 4.2.5 江心州の捕虜

4.2.5 江心州の捕虜

図表4.2(再掲) 西部・南部における事件

西部・南部における事件

注)赤丸に白抜きの数字は、上表左端の①~⑦の各事件の発生場所を示す。

※ 各派評価 それぞれの事件が不法な事件かどうかについての各派の評価
史: 史実派(笠原氏) 中: 中間派(秦、板倉、偕行社) 否: 否定派(東中野氏)
〇:不法又はそれに準じる
△:研究者により異なる
-:合法又は調査対象外

(1) 江心州の掃蕩(図表4.2⑥)

江心州(=江興州)は、揚子江にある中洲であり、多くの中国兵が逃げ込んだ。その掃蕩を行なったのが国崎支隊である。
国崎支隊は12月11日揚子江を南京の上流で渡河して左岸にわたり、12月13日夜下関の対岸にある浦口を占領した。12月14日午後、江心州にいる敗残兵を掃蕩せよとの支隊命令により、歩41第12中隊は揚子江を渡った。以下、第12中隊の戦闘詳報より要約引用する。

{ 午後6時頃、永島大尉より第7中隊は北半分、第12中隊は南半分を掃蕩されたしと伝令あり。… 前進すること約800メートル、前方並びに左側面より敵の射撃を受け、直ちに応戦するが、敵は間もなく白旗を揚げて降伏してきた。中隊長はこの捕虜に他の中国兵に降伏するように働きかけさせた。この戦闘で花戸一等兵が戦死した。
中隊長の計画は図に当り、午後7時30分より続々兵器を持参し白旗を掲げて投降してきた。中隊長は兵器と捕虜を区分したが、翌朝午前10時頃までかかった。
支隊長に捕虜の処分、兵器の処置の指示を問い合わせると、武装解除後、兵器は持ち帰り、捕虜は後刻処置するのでそれまで島で自活させよ、との命令あり。正午、中隊は兵器を携えて浦口に帰還した。}(「南京戦史資料集」,P710)

このときの捕虜は2350人、と記録されている。南京戦史は、{ この捕虜は13日歩45連隊に撃破されたものと、14日下関で釈放された捕虜であろう。}(「南京戦史」,P335) と推定している。

国崎支隊は15日も江心州を掃蕩したが、新たな敗残兵は発見されず、前日に武装解除した兵士もそのままにしたようだ。その後、どうなったのかはわからない。

(2) 各派の見解

否定派、中間派はこの捕虜は釈放された、とみなしているが、史実派は{ どのように"後刻処置"したのか、公刊された資料には記されていない。… 中支那方面軍全体が展開した捕虜大虐殺を見ればその推測はつく。}と、殺害された可能性があるとしている。