日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.2 西部・南部における掃討戦 / 4.2.4 城内掃蕩

4.2.4 城内掃蕩

図表4.2(再掲) 西部・南部における事件

西部・南部における事件

注)赤丸に白抜きの数字は、上表左端の①~⑦の各事件の発生場所を示す。

※ 各派評価 それぞれの事件が不法な事件かどうかについての各派の評価
史: 史実派(笠原氏) 中: 中間派(秦、板倉、偕行社) 否: 否定派(東中野氏)
〇:不法又はそれに準じる
△:研究者により異なる
-:合法又は調査対象外

(1) 城内南部の掃蕩

12月12日に中華門を占拠した第10軍は、13日から南京城内の掃蕩を行なった。掃蕩にあたり、第10軍は次のような命令を出した。(現代語に要約)

{ 敵は城内で頑強に抵抗を続けているが、それらを殲滅せよ。各師団の城内進入兵力を各1個連隊とする制限を解除して軍主力を投入し、城内を焼き払ってでも残兵を掃蕩せよ!}註424-1

秦氏によれば、この命令により{ 歩45を除き、ほぼ全軍が城内へなだれこむ }(秦:「南京事件」,P150) こととなった。ただ、「証言による南京戦史」は城内へ進入したのは一部の部隊だけだとしている。

{ 城壁を占領した歩兵第47連隊および第23連隊の一部が、城内の掃蕩に任じ、師団主力は城外に待機し、軍司令部は14日正午過ぎ進入して南京路の銀行の建物に司令部を置いた。}(「証言による南京戦史(6)」,P4)

城内南部は現在でも夫子廟などの観光地がある繁華街であり、当時も人口は多かったようだが、敗残兵は北に逃げてほとんどおらず、火攻めの必要もなかった。しかし、2家族13人が襲われ11人が殺害された"夏淑琴さん事件"(4.5.2項(3))のような市民への暴行はあったようだ。

(2) ラーベとの出会い

また、13日午後、城内でラーベら国際委員会のメンバーに会っている。この時の様子については 6.4.1項(5) に記した。

{ 最左翼を北上した歩23連隊第3大隊は、午後2時頃漢中路付近で請願文書を持参した国際難民区委員会のラーベ委員長、フィッチら3人の外国人と出会い、難民の保護と武装解除した便衣兵の保護を請願された。}(秦:「南京事件」,P150)


4.2.4項の註釈

註424-1 第10軍の掃蕩に関する命令 … 「南京戦史資料集」,P554

丁集団命令 12月13日 午前8時30分 於.秣稜閣

1. 敵は南京城内に於て頑強に抵抗を続けつつあり

2. 集団は南京城内の敵を殲滅せんとす

3.丁集作命第56号第9項の制限を解く

4. 各兵団は城内に対し、砲撃は固よりあらゆる手段を尽し敵を殲滅すべし 之が為 要すれば城内を焼却し特に敗敵の欺瞞行為に乗ぜられざるを要す

5.集団の掃蕩区域は共和門ー公園路ー中正門ー中正路ー漢中路の線(含む)以南とし以北は上海派遣軍の担任とす

※丁集作命第56号第9項は、各師団の城内進入兵力を各1個連隊だけとし、主力は城外に待機させる命令であった。