日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.3 幕府山の捕虜 / 4.3.1 2つの説

4.3 幕府山の捕虜

幕府山(バクフサン)は、南京城の北東にある標高200メートルほどの山で、南京事件当時は中国軍の砲台があった。会津若松第13師団の山田支隊(歩103旅団長:山田栴二少将)が、幕府山付近で捕えた捕虜は1万5千とも2万ともいわれており、南京事件で最大の規模である。史料の発掘も進み、活発な議論が行われているが、いまだにはっきりしないところも多い。

図表4.3 幕府山の捕虜

幕府山の捕虜

※ 各派評価 それぞれの事件が不法な事件かどうかについての各派の評価
史: 史実派(笠原氏) 中: 中間派(秦、板倉、偕行社) 否: 否定派(東中野氏)
〇:不法又はそれに準じる
△:研究者により異なる
-:合法又は調査対象外

4.3.1 2つの説

事件の経緯及び認識には2つの説がある。一つは事件の当事者である歩65連隊長 両角業作大佐の手記にもとづく説で、「自衛発砲説」とも言う。もう一つは福島在住の自称「化学労働者」でこの惨劇にかかわった元日本兵たちのインタビューや史料蒐集を行った小野賢二氏とそれを支援した史実派の研究者たちの説である。ここでは、前者を「両角説」、後者を「小野説」と呼ぶことにする。

(1) 両角説(自衛発砲説)

両角手記は戦後になって書かれたもので、昭和37年1月中旬、福島民友新聞記者の阿部輝朗氏に貸し与えられたものを筆写し保存していたもの(「南京戦史資料集2」,P341)である。当初はこれが通説とされていた。以下は、「南京戦史資料集2」(P339-P341) にある両角手記からの要約引用である。

①民間人の釈放
捕虜の数は15,300余。この中には婦女子、老人など南京から落ちのびた市民が多数いたのでこれを解放した。残ったのは約8千人であった。

②火災により半数が逃亡
炊事の途中で火事が発生し、大きな混乱となった。この出火は捕虜による計画的なもので、混乱に乗じて半数が逃亡した。夜なのでよく見えなかったが、少なくとも4千人位は逃げ去ったと思われる。

③「捕虜は処置せよ」との命令に対し「解放せよ」と指示
軍は強引に命令をもって"処置"をせまり、山田少将は涙を飲んで私(両角大佐)に因果を含めた。私は、いろいろ考えたあげく、「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ!」と田山大隊長に「捕虜を夜陰に乗じて舟で対岸に送り解放せよ!」との指示を与えた。

④夕方捕虜の集結が終ったとの報告を受ける
(入城式から)夕刻もどったら、田山大隊長から「俘虜の集結が終った」との報告を受けたが、深夜12時ごろになって、にわかに銃声が起った。

⑤捕虜が騒いだのでやむなく銃殺
軽舟艇に2~300人の捕虜を乗せて長江の中流まで行ったところ、対岸にいた支那兵が日本軍の渡河攻撃と勘違いして発砲してきた。これを見た残りの捕虜は、この銃声を自分たちを銃殺するものと勘違いして騒ぎ出した。やむなく銃火をもって制止に努めたが、大部分は逃亡、銃火に倒れたのはわずかであった。

⑥山田少将も納得
ありのままを少将に報告したところ、少将も安堵し「我が意を得たり」の顔をしていた。

1988年に阿部輝朗氏は、{ 歩65参戦者約100人の証言をまとめた結果、16日に捕虜の一部(500~2000人)を中国海軍碼頭付近(上元門上流約3キロ)に釈放のため連行(目的は釈放のため)したところ、途中で騒乱状態となったので、暴動鎮圧のため機関銃により暴動集団の主力を射殺した。}(「南京戦史」,P325)と両角説を一部修正している。

(2) 小野説

小野氏は歩65の元兵士や下級将校に聞き取り調査をおこない、証言総数約200、陣中日記等24冊などを入手し分析した結果、両角説は誤り、としている。小野氏が蒐集した日記等は「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」に収録されている。以下は、「南京大虐殺否定論13のウソ」(P140-P156) からの要約引用である。

①非戦闘員の解放は行われなかった
14日時点の捕虜数は14,777名、その後も捕虜を獲得し1万7千~1万8千にのぼった。この時、非戦闘員を解放するのを見たという証言はひとつもなく、解放は行われていない。

②火災は発生したが、捕虜は逃亡していない
元兵士たちの日記や証言によれば、火災が発生したのは夜ではなく、16日の昼ごろで捕虜の逃亡もそれに対する銃撃もなかった。

③16日夜一部の捕虜が銃殺された
軍命令により、長江岸の魚雷営で2~3千人が(試験的に?)銃殺され、死体はその夜のうちに長江に流された。

④17日に残りの捕虜を銃殺
上元門から約2キロ下流の大湾子で銃殺が行われた。銃殺は18日の朝がたまで続き、死体処理には18,19日の2日間かかった。

⑤「自衛発砲説(=両角説)」は作り話
これまでの調査で、「捕虜を解放するために連行したが、捕虜が暴動を起こしたのでやむなく銃殺した」という「自衛発砲説」は作り話であり、殺害の意図をもって江岸に連行し「虐殺」したものである。

(3) 両角説に沿った証言

事件当時歩65の連隊砲中隊小隊長(少尉)だった平林貞治氏は、両角説に近い証言をしている。否定派の元祖とも言うべき鈴木明氏のヒアリングによる証言を以下に引用する。(「 」で囲んだ部分が平林氏の発言部分)

{ 「大量の捕虜を収容した。たしか2日目に火事がありました。その時、捕虜が逃げたかどうかは憶えていません。もっとも、逃げようと思えば簡単に逃げられそうな竹がこいでしたから … それより問題は給食でした。… 」
平林氏は「捕虜は揚子江を舟で鎮江の師団に送り返す」ときいていた」という。…
「 … 出発は昼間だったが、わずか数キロ(2キロくらい?)のところを歩くのに何時間もかかりました。とにかく、江岸に集結したのは夜でした。… 舟がなかなか来ない。考えてみればわずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのははじめから不可能だったかもしれません。捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。一挙にわれわれに向ってワッと押し寄せてきた感じでした。殺された者、逃げた者、水に飛び込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。なにしろ真っ暗闇です。機銃は気狂いのようにウナリ続けました。次の日、全員で死体の始末をしました。 … 我が軍の戦死者が少なかったのは、彼らの目的が、日本軍を"殺す"ことではなく、"逃げる"ことだったからでしょうね。向こうの死体の数ですか?さあ、千なんてものじゃなかったでしょうね。3千ぐらいあったんじゃないでしょうか … 」}(鈴木明:「南京大虐殺のまぼろし」,P220-P222)

この証言の4年後、否定派の研究者である田中正明氏のヒアリングで再び証言しているが、その内容は大きく変化し、ほとんど両角説と同じになっている。以下はその主な相違点であるが、本質的な部分が違っており、証言の信頼性が疑われる。田中ヒアリングの証言内容は 註431-1 を参照されたい。

(4) 史料の信頼性

「南京戦史資料集2」は、両角手記について、{ 「手記」は明らかに戦後書かれたもので(原本は阿部氏所蔵)、幕府山事件を意識しており、他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない。}(「南京戦史資料集2」,資料解説P12) として史料の信頼性に疑問を投げかげている。両角手記にある捕虜獲得後の民間人解放や火事による捕虜逃亡は現場にいた将兵の日記には記載されていない、など不審な点が多い。
 一方、小野氏が蒐集した日記等は事件現場で書いたものであり、現場で起きたことについては信頼性が高いが、下級将校以下のものなので、大局的な見方はできていない、うわさ話や憶測も多い、という点に注意が必要。「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」(以下、「皇軍兵士たち」と略す)には18件の日記と1件の手紙が掲載されているが、非難、中傷などを受ける恐れがあるため、本人の希望がある16件は仮名になっている。


4.3.1項の註釈

註431-1 田中ヒアリングによる平林貞治氏の証言  田中正明:「南京事件の総括」,P59-P61

田中氏は証言内容の概要を箇条書きにしている 。

① … 自分たちの10倍近い1万4千の捕虜をいかに食わせるか、その食器さがしにまず苦労した。

② 上元門の校舎のような建物に簡単な竹矢来をつくり収容したが、捕虜は無統制で服装もまちまち、指揮官もおらず、やはり疲れていた。山田旅団長命令で非戦闘員と思われる者約半数をその場で釈放した。

③ 2日目の夕刻火事があり、混乱に乗じてさらに半数が逃亡し、内心ほっとした。…

④ … 捕虜は約4千、監視兵は千人足らず、… 出発したのは正午すぎ、列の長さ約4キロ、私は最後尾にいた。

⑤ 騒動が起きたのは薄暮、左は揚子江支流、右は崖で、道は険阻となり、不吉な予感があった。突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引金に前方で叫喚とも喊声ともつかぬ異様な声が起きた。

⑥ 最後列まで一斉に狂乱となり、機銃は鳴り響き、捕虜は算を乱し、私は軍刀で、兵はゴボー剣を片手に振りまわし、逃げるのが精一杯であった。

⑦ 静寂にかえった5時半ころ、軽いスコールがあり、… "鬼哭愁々(きこくしゅうしゅう)"の形容詞のままの凄惨な光景はいまなお眼底に彷彿たるものがある。

⑧ 翌朝私は将校集会所で、先頭附近にいた一人の将校が捕虜に帯刀を奪われ、刺殺され、兵6名が死亡、10数名が重軽傷を負った旨を知らされた。

⑨ その翌日全員が使役に駆り出され、死体の始末をさせられた。作業は半日で終ったと記憶する。中国側の死者千~3千人ぐらいといわれ、葦の中に身を隠す者を多く見たが、だれ1人これをとがめたり射つ者はいなかった。