日本の歴史認識南京事件第3章 南京城攻略 / 3.5 中国軍崩壊

3.5 中国軍崩壊

図表3.8 南京城陥落、中国軍崩壊

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(1) 中国軍敗走

中国軍敗走のきっかけは、中華門の占拠だったようだ。板倉氏は次のように述べている。

{ 第6師団の猛攻は強烈を極め、さすが蒋介石直系の精強88師も恐怖感を抱いて浮足立つのを防ぐことができず、ついには12日夕刻となると師長・孫元良以下一部が城内北部に退却をはじめ、中山北路で憲兵に阻止されて元の守備位置に戻される、という醜態を演ずるに至っている。}(板倉由明「本当はこうだった南京事件」,P114)

シカゴ・デイリー・ニューズの記者A・T・スティールは、自らが目撃した中国軍崩壊の模様を次のように記している。

{ 午後四時半頃、崩壊がやってきた。初めは比較的秩序だった退却であったものが、日暮れ時には潰走と化した。逃走する軍隊は、日本軍が急追撃をしていると考え、余計な装備を投げ捨てだした。 … 兵士らが、退却の主要幹線道路である中山路からわずか数ヤードしか離れていない交通部の百万ドルの庁舎に放火したとき、地獄は激しく解き放たれた。そこは弾薬庫として使用されてきており、火が砲弾・爆弾倉庫に達したとき、恐ろしい爆音が夜空を貫いた。 … 燃える傷害を迂回して何とか下関門に達することのできたものは、ただ門が残骸や死体でふさがれているのを見いだすのだった。それからは、この巨大な城壁を越えようとする野蛮な突撃だった。脱いだ衣類を結んでロープが作られた。恐怖に駆られた兵士らは胸壁から小銃や機関銃を投げ捨て、続いて這い降りた。…
日本軍は全方向から包囲侵攻してきていたので、陸路で脱出できる見込みはなかった。川が唯一の出口であった。何百という人々が長江に飛び込み、死んでいったと言われる。…
一方、何千という人々が城外に脱出できなかった。彼らはまったくの混乱状態で、夜通し街路を当てもなくさまようのだった。日本軍は南門【中華門】を突破した後、夜明けまでに拠点を確保し、掃蕩作戦にとりかかった。それまでにすでにすべての抵抗が瓦解しており、日本軍はほとんど一発も銃火を発せずにも全市を占領できたであろう。
中国軍はすでに怯え混乱した群集と化しており、いくらかでも憐憫の情をたれれば、喜んで降伏したであろう。しかし日本軍は虐殺を決心していた。彼らは手を下しうるすべての将兵を殺戮するまでは、満足しないつもりだった。降伏した者にも容赦はなかった。彼らもまた同じように処刑場まで行進して行かされた。軍法会議も裁判もなしだった … }(「南京事件資料集Ⅰ」,P474-P475 <1938年2月3日 シカゴ・デイリー・ニューズ記事>)

(2) 唐生智司令官の逃走

唐生智逃走の経緯については、笠原氏が詳しい。以下は、笠原「南京事件」をもとにしている。
蒋介石からの撤退命令は11日に届いていた註35-1が、唐生智は13日早朝に撤退する計画をたてていた。しかし、12日朝から始まった日本軍の攻勢は激しく、指揮系統の混乱もあって、唐生智が中国軍の幹部を集めて会議を開き、撤退を指示したのは午後5時になってからだった。

{ 下令された撤退作戦そのものがもはや実行不可能なものだった。それは、司令長官部の直属部隊と第36師・憲兵部隊が午後6時より下関から汽船で渡江して撤退、その他の全部隊が夜11時を期して各方面でいっせいに日本軍の包囲を正面突破して撤退し、最終的に安徽(あんき)省の南端に集結するというものだった。… 唐生智は、この実施不可能な撤退計画を強行するために、撤退計画以外の部隊の下関からの渡江を厳禁し、第36師に他部隊が挹江門から撤退、退却するのを実力阻止するように命じたのである。司令長官部がまっさきに撤退するという作戦は、南京防衛軍にパニック的な崩壊をもたらした。 }(笠原「南京事件」,P132)

すでにパニック状態になっている中国軍は組織的な動きは不可能になっており、個別に包囲網を突破して退却するしかなかった。こうして唐生智は12日午後9時ごろ、用意しておいた汽船で揚子江を渡り逃亡した。

「証言による南京戦史」でも、次のように唐生智の行動を非難している。

{ 南京防衛作戦においては、「死守・全員玉砕」か、「全面降伏、無血開城」、あるいは「早期退却、住民保護」の何れか、明確な作戦指導が必要であった。唐生智の中途半端な作戦指導が、無益な被害、犠牲を増大したのである。}(「証言による南京戦史(3)」,P7)

(3) 督戦隊

中国軍には戦闘中に持ち場を離れて逃げようとする兵士を後方で監視して、戦場に復帰させたり、場合によっては射殺したりする部隊(督戦隊)があった。唐生智は撤退にあたり、直轄の第36師団に督戦隊として計画以外の部隊が下関(シァカン)から撤退するのを実力阻止するように命じていた。しかし、南京城は日本軍に囲まれて逃走路は北の揚子江しかなかったため、下関に通じる挹江門(ゆうこうもん)に向けて兵士たちは殺到したが、挹江門付近にいた督戦隊は重機関銃を発砲し、多くの兵士が殺害された。

(4) 中国軍の脱出ルート

中国軍の主な脱出ルートは次の6つになった。 ①の一部と②は脱出に成功したが、それ以外のルートでは、ほとんどが捕虜となったり、掃蕩戦で戦死したり、敗残兵狩りで殺されたりして、脱出できたのはわずかであったようだ。

①下関から揚子江を渡江; 
唐生智とその直属部隊はこのルートで脱出した。あとから続いた者たちは渡江する舟がなく、小舟や手製の筏などで脱出を図ったが、おぼれる者、日本軍に射殺されるものなど、脱出成功者はわずかだったとみられる。(4.1.2項参照)

②烏龍山から揚子江を渡江;
中国の第2軍はあらかじめ用意しておいた船を使い、日本海軍の眼前をすり抜けて13日朝にはほぼ全員が揚子江対岸に渡り脱出に成功した。

③揚子江南岸沿い;
揚子江沿いに東に向かって脱出を試みた部隊は日本の山田支隊の捕虜となった。その後のことは4.3節を参照。

④紫金山北側;
紫金山で日本軍と戦った残兵と思われる部隊は、12日夜から13日にかけて日本軍の後方部隊を攻撃したが、最終的にはその大部分が捕虜になったとみられる。(4.1.1項参照)

⑤南京城西側;
下関から揚子江南岸を上流に向かって進み、そのまま脱出しようとした部隊もいた。これらは途中で日本の第6師団(歩45連隊)に遭遇して戦闘になったが、下関に敗退して捕虜となった。(4.2.1項参照)

⑥安全区へ潜入;
武器を捨て、軍服を脱いで便衣(市民の服)に着がえて、安全区に潜入した者も少なくなかった。大半は日本軍の掃蕩で摘発され殺されたが、生き残った者もいた。(4.4節参照)

(5) 中国側の記録

「証言による南京戦史」から南京戦に関する中国側の記録を引用する(原典は中国の資料)。中国側から見たものなので、“わが”は中国軍、“敵”は日本軍である。

{ 12月7日、敵は全線をあげてわが陣地を包囲攻撃し、同時に海空軍機は猛烈な爆撃を加え、艦砲も大挙して射撃を加えた。わが守備隊は勇戦抵抗したが、犠牲者続出し、翌8日には秣陵関、淳化鎮、湯山が相次いで陥落した。敵は追尾してわが複郭陣地に迫り、わが軍は苦戦して激戦3昼夜に及んだ。わが第88師の262旅長・朱赤、364旅長・高致嵩は、雨花台において忠勇、国に殉じた。第87師の259旅長・易安華は、玄武湖において奮戦して陣没した。
 12日午後、雨花台、工兵学校、紫金山の各要地は次々に陥落し、城内は敵砲兵の火制下におかれた。そして、中華門には敵の一部が突入し市街戦が起こった。光華門、中山門も相次いで突破され、一部の敵は蕪湖を占領し、揚子江を渡江した敵の一部は浦口に進出し、わが軍は完全に包囲下に陥った。
 南京防衛軍唐生智は、戦局挽回の方策なしと判断し、かつ部隊の戦力を保持するため、南京を放棄して各部隊ごとに包囲を突破するように命令を下達した。わが憲兵副指令・蕭山令、第15師参謀長・姚中英、第160師参謀長・司捷非、第57師李副長らは、包囲突破にあたり戦死し、南京は遂に13日陥落したのである。(『抗戦簡史』,『抗日戦史』による)(「証言による南京戦史(5)」,P9-P10)


♪余話 ...  中国軍からみた日本軍

以下は、「証言による南京戦史」に掲載されていた中国軍から見た日本軍の“弱み”と“強み”である。

※ 「証言による南京戦史(8)」、P14 「日本軍による支那軍側の観察 「其の3 敵我優秀の比較」(筆者不詳)から現代語に要約して引用)

中国軍の強み、弱みも書かれているが、内容はそれぞれ日本軍の弱み、強みの裏返しになっている。例えば、日本軍の弱み「②機砲の協同なければ歩兵はその戦闘力を失う」に対応する中国軍の強みは「②歩兵はその他兵種の協力なしでも単独で抗戦する」である。
これを見ると、日本軍が自負していた「精神力」は中国軍の方が優れており、兵器の優秀さ、訓練、戦術や部隊間の組織的連携、などが中国軍より勝っていたことになる。これから数年後、日本軍はここで指摘された強みの多くが勝るアメリカ軍と戦って、負けることになる。

(1) 日本軍の弱み

①遠く郷土を離れ、侵略戦にして不必要の戦争であるために犠牲精神が欠け、死を畏れる

②機砲の協同なければ歩兵はその戦闘力を失い、夜襲を怖れる

③行軍力が弱く、毎日の行程は概ね約25キロ(中国軍は約50キロ行軍する)

④行軍駐軍間の警戒は厳しくない、空軍の偵察以外では騎兵による僅かな偵察で前進している

⑤鉄道公路外を除いて部隊の前進は遅滞する、山地においては特に遅れる

⑥作戦地後方は手薄になることが多い。重要拠点の防備兵力は少ない

(2) 日本軍の強み

①装備が完全

②戦術戦闘の原則にそって行動する

③下級幹部の動作が熟練している

④陣地攻撃時、捜索や偵察が確実敏捷

⑤歩砲空(歩兵、砲兵、空軍)の連携が確実

⑥歩兵の射撃沈著爛熟、乱射せず、空射せず

⑦戦場清掃、負傷者の救護、死者の後送が迅速

⑧構築工事を重視し工作力が強い

⑨戦場において部隊間での兵力転用が迅速

⑩潰退時に戦場外に逃れれば迅速に集合する、混乱状態でも上官の指揮はしっかりしている

「証言による南京戦史」には上記以外にも、中国側から見た日本軍の記事が2編あるが、これら3編の記事の冒頭で編集者の畝本正巳氏は次のように述べている。

{ … その叙述往々正鵠を失し又その監察は例により支那側の荒唐無稽多く、往々噴飯に値するもの少なからざるも、他山の小石としてしばらく原文の儘採録することにした。此の点読者にくれぐれも御諒察を乞う次第である。}

日本軍からすれば腹立たしい表現が多いのだろうが、相手からどう見えているか、素直に聞く姿勢に欠けるのは悲しい。


3.5節の註釈

註35-1 蒋介石の撤退命令

秦氏は蒋介石から撤退命令があったかどうかは不明確、としている。

{ この(撤退の)決定が唐の独断によるものか、蒋介石の指示によるものかは必ずしも明確でない。呉相湘の『第二次中日戦争史』は、「軍事委員会より、持久不能の状況なら、むしろ機を見て10万の守備兵を退却させ、反抗を策せよ、との電命が来た」と記述し、台湾国防部の『抗日戦史』も同じ主旨を述べているが、『蒋介石秘録』はこの点については触れていない。}(秦:「南京事件」,P94)