日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 第2次世界大戦 / 5.9 まとめ

5.9 まとめ

第1次世界大戦から、第2次世界大戦、冷戦に至る時期は近代から現代の転換期とみられている。(ヨーロッパでは冷戦後から現代、日本では第2次大戦後から現代とすることが多い。)
近世以前と比べてはるかに複雑度が増したこの時代をまとめるのは、専門の歴史家にゆずり、これまで書くタイミングが見つけられなかったトピック的なことを書くことで、「まとめ」とさせていただく。

(1) 第2次世界大戦の犠牲者数

第2次世界大戦の犠牲者(死者)数は、諸説あり確定できないが、第1次大戦の3倍以上になることは間違いないであろう。また、民間人の犠牲者が大幅に増加している。

その原因としてまず考えられるのは、軍備・兵器の発展があろう。すでに第1次大戦で登場した戦車や潜水艦、航空機などがより高性能化し、殺傷能力は飛躍的に向上した。特に航空機は、軍需工場や戦略拠点としての都市を戦争に巻き込み、加えて焼夷弾や原爆など爆弾の進歩によって、多数の民間人を一挙に殺戮することになった。

国民全体を戦争に巻き込む“総力戦”は、第1次大戦から本格的に導入されたが、第2次大戦では全体主義のもとでさらに強化された。独ソ戦では民族主義と結びついて「絶滅戦争」の様相を呈し、日本でも「1億火の玉」のスローガンのもと、多数の民間人が犠牲になった。

図表5.26 世界大戦の死者数 (単位:万人)

世界大戦の死者数

出典)Wikipedia「第1次世界大戦の犠牲者」、同「第2次世界大戦の犠牲者」をもとに作成。

(2) 持てる国と持たざる国の戦争

第2次大戦をしかけたドイツと日本は、19世紀末になって帝国主義国家の仲間入りを果たしたが、第1次大戦後、ドイツは多額の賠償金に苦しみ、日本は世界恐慌などによって深刻な経済不況に見舞われるなかで、それ以前に広大な領土を確保していた国々へのあこがれとも不満ともつかぬ気持がうずまくようになった。それは、自民族への不公平感や帝国主義的欲望を正当化し、戦争を肯定する運動につながり、軍国主義的ナショナリズムを全体主義(ファシズム)註590-1に昇華させて戦争に突入していった。

開戦当初は両国ともに、相手の準備不足もあって電撃戦を成功させていったが、やがて息切れした。下表のように、日独ともに開戦後は軍需生産を大きく増やしたものの、「持てる国」特にアメリカの生産能力は圧倒的だった。

長期化した戦争においては、軍事力だけでなく、資源力や経済力ならびに多数の支援国家を巻き込むための政治力が必要不可欠であることを思い知らされたのである。

図表5.27 列強の軍需生産額

列強の軍需生産額

出典)若尾・井上「近代ドイツの歴史」,P246
 原典は、Ebeling/Birkenfeld,op,cit,S.165

注)数字は1944年の価格を基準とする10億ドルの単位数

(3) 冷戦終結への道註590-2

冷戦のはじまり

第2次世界大戦後、ソ連を頂点とする東側陣営と米国を頂点とする西側陣営は、相互不信の高まりの中で軍事的な緊張が高まり、軍拡競争、プロパガンダ合戦のほか、それぞれのイデオロギーに基づく社会・経済システムの優位性をめぐる競争が続いた。

緊張緩和(デタント)のはじまり

スターリンの死後、軍事や政治面だけでなく、経済・文化面でも緊張緩和のための様々な活動がはじまったが、その際、障害になったのはドイツ問題だった。西独は東独の存在を認めず、他の西側諸国が単独で東独と接触することはできなかった。また、2国間でのデタントは相手側陣営の結束を乱す結果にもなるため、陣営内部の対立がデタントの推進を抑制した。それでも、経済面では2国間ベースの貿易が進められ徐々に拡大していった。

緊張緩和(デタント)の進展

1970年、西独のブラント政権が東独の存在を認めると、陣営間での交流が進めやすくなった。1975年のヘルシンキ宣言では、西側が東側の既得権を認める一方、東側は人権や自由の尊重を公式に認めた。東西で軍縮が成立するまでには至らないものの、経済交流は進展し、東側陣営は次第に西側への依存度を高めていった。

東側諸国は国際レベルでの安定を国内体制の安定・維持へとつなげたかったが、経済は改善せず、西側への債務だけが増殖していった。

冷戦の終焉

ゴルバチョフは、社会主義を維持するために大胆な改革を行ったが、東側諸国に対して従来のような強力な支援を行うことは不可能な状況の中で、各国が独自の改革を行うことを奨励するのが精一杯だった。従来は武力によって東側陣営から離脱を抑え込んだが、今やそれを行なえば西側から受けるであろう経済制裁に耐えることはできなくなっていた。

ポーランドやハンガリーでの民主化はベルリンの壁崩壊を呼び、東ドイツが西ドイツに統合されると、もはや東側陣営を維持することは不可能になった。まもなく、ソ連も社会主義を捨て解体せざるをえなくなった。

冷戦後のヨーロッパ

冷戦後、東欧諸国はNATOやEUに加盟し、ヨーロッパは一つに統合された。しかし、冷戦後に訪れた新自由主義の嵐にもまれ、東欧諸国内では貧富の格差が拡大、ユーゴスラヴィアでは内戦に突入していった。

(4) 米ソ中の帝国主義註590-3

米国もソ連も第1次大戦後、民族自決を叫んで植民地独立の背中を押した。しかし、両国がとった行動は実際は帝国主義的な性格を帯びていた。

ソ連は終戦直前、東欧諸国を次々と占領したり、東アジアでは北朝鮮を勢力圏内においたりした。東側陣営からの離脱につながるような行動には武力でそれを抑えつけ、ブレジネフは「社会主義共同体の全体利益は各国の個別利益に優先する」というブレジネフ・ドクトリンを堂々と発表している。

米国は終戦直後、かねてからの約束に沿ってフィリピンの独立を承認したが、中南米諸国についてはその影響力を維持しようとした。また、米国は世界各地域に軍事基地を配備し、基地設置国への影響力を行使したり、国際通貨基金(IMF)や世界銀行、関税と貿易移管する一般協定(GATT)などは、米国の利害を反映したものであった。

中国も戦後、独立を図ろうとしていたチベットと新疆ウィグル地域を支配下に置く措置をとっており、それらの地域では今でも問題がくすぶり続けている。

(5) 新興国にとっての社会主義註590-4

戦後、アジアやアフリカ諸国が次々と独立を勝ち取っていた頃は、冷戦華やかなりし時代であり、社会主義・共産主義は輝きを失っていなかった。

宗主国に支配されていた新興国の人々にとって、平等で豊かな社会を実現する理念として社会主義による経済復興が魅力的に見えたのは無理もないだろう。ソ連は計画経済に成功しただけでなく、人工衛星や核開発でもアメリカと肩をならべる先進国であることを宣伝していた。

社会主義に未来を託そうという動きは、60年代に続々と独立を獲得したアフリカ諸国において顕著だった。代表的な国に、ガーナやタンザニアがあるが、いずれも失敗に終わった。

(6) 戦争の原因

図表5.28は、1648年から1989年までの177の戦争の原因を分析したものである。どの時代も領土問題が原因の戦争が多いが、17~18世紀には王位継承や通商(貿易)の問題が多かったのに対して、20世紀になると民族・国家に関連する問題が増加してくる。

また、ケンブリッジ大学のリチャード・ネッド・レボー教授(国際政治学)は、戦争を始める動機には「恐怖」「欲望」「威信」の3つが関係している、という註590-5

図表5.28 戦争の原因(年代別推移)

戦争の原因(年代別推移)

出典) 田所昌幸「国際政治経済学」,P61 をもとに作表・作画。 原表は、カナダの国際政治学者カル・ホルスティが、1648年から1989年までの177の戦争の原因を分析したもの。一つの戦争には2つ以上の原因が考えられるため、%の合計は100%を超える。


5.9節の主要参考文献

5.9節の註釈

註590-1 軍国主義とファシズム

{ 大戦の経験は多くの国々で戦前の軍国主義に対する深く広い反作用を生み出したが、この反作用は普遍的ではなかった。民族的価値と伝統的価値から裏切られたと感じた者、スケープゴートを求めた者、暴力の行使の中に権力への道を見た者などが大勢いた。「ファシズム」を得た急進的右翼の運動にとって戦争は、国策の実行可能な手段だったばかりでなく、人類の正当な活動だった。
戦前のナショナリズムは、自由、平等、友愛というフランス革命の理想と非常によく両立し、民族はそれらの名において市民の忠誠を要求したが、ファシズムは露骨にそれらに反対した。それは自由の美徳ではなく指導と従順の美徳を、平等の美徳ではなく支配と服従の美徳を、友愛の美徳ではなく人種的優越の美徳を宣言した。}(M・ハワード「ヨーロッパにおける戦争」,P192-P193<要約>)

註590-2 冷戦終結への道

 山本「同上」,P466-P481

註590-3 米ソ中の帝国主義

木畑「20世紀の歴史」,P211-P215

註590-4 新興国にとっての共産主義

木畑「同上」,P221-P224

註590-5 戦争の原因

レボー教授の出典は、NHK「ロシア衝突の源流」(2023年4月8日放送)