日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.8 冷戦 / 5.8.5 冷戦の終焉

5.8.5 冷戦の終焉

1980年代になると、東西の経済格差が顕著になってくる。戦後、マーシャルプランの支援を受けた西側諸国は高度経済成長を成し遂げて豊かな生活を享受する一方で、東側陣営の国々は多額の債務を抱え、民衆は貧しい生活を強いられた。東側の政府はペレストロイカ(改革)に取り組むが、成果が出ないまま1989年のベルリンの壁崩壊を迎える。東側は市場経済の導入や民主化などの改革を試みるも、うまくいかず、1991年には総本山のソ連が解体するにいたった。

図表5.23(再掲) 冷戦

Efg523.webp を表示できません。Webpに対応したブラウザをご使用ください。

(1) ポーランドの民主化註585-1 (1980-89年)

自主管理労組「連帯」の結成

1980年7月、ポーランド政府は膨れ上がった累積債務の返済のために食肉価格を大幅に値上げし、それに抗議する労働者のストライキが全国に広がっていった。労働者側はグダニスクの造船所の電気工だったワレサをストライキ委員長にかついで政府との交渉にあたった。この頃、ポーランドの労働組合は政府・共産党の支配下にあったが、ワレサらはその支配から独立した労働組合の結成のほか、スト権の補償、表現・出版の自由などを要求し、8月末に「グダニスク協定」と呼ばれる合意が成立した。

同年9月17日に自主管理労組「連帯」が結成され、ワレサがその委員長になった。政府から独立した労働組合は東側陣営では初めてのことであり、労働者の80~90%が元の組合を脱退して「連帯」に加入し、その数は1000万人以上になった。こうした組合ができた背景には、「ヘルシンキ宣言」(1975年) で人権の尊重が掲げられたことや、78年に即位したポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の応援もあった。

戒厳令による弾圧

「連帯」はグダニスク協定の履行を政府に要求したが、政府は実施しようとせず、ソ連もその協定を認めなかった。「連帯」によるストライキが続く中、1981年12月、ポーランド政府は戒厳令を発し、憲法の停止、集会やデモの禁止などを行った上で、「連帯」の幹部らを多数逮捕し、「連帯」を非合法化した。「連帯」は分解し、地下に潜行するしかなかった。

その後、ポーランドは債務不履行(デフォルト)状態になり、大規模な輸入抑制策を取らざるをえなくなったため、ポーランド経済と国民生活は困窮を極めた。

「連帯」復活

ポーランドの債務状況は悪化し、西側の支援なしに債務を返済することはできなくなっていた。1986年秋、政府は全政治犯の釈放を発表し、まもなく「連帯」は復活した。

ポーランド政府は経済改革の名の下に食料品などの値上げを断行し、それに対してストライキやデモが活発になったが、西側の圧力で再び戒厳令を発することはできず、ワレサに呼びかけて1989年2月から、政府と「連帯」の他、反体制派知識人やカトリック教会などが参加する円卓会議が行われた。

「連帯」が選挙で圧勝

円卓会議の結果、ポーランド議会を2院制とし、その議会のための選挙を6月に実施することが決まった。ただし、100議席の上院は完全自由選挙とするものの、460議席の下院の65%は共産党の議席とし、残りが在野勢力に割り当てられることになった。

1989年6月に実施された選挙では「連帯」が圧勝し、上院100議席中99議席、下院は割り当てられていた161議席(35%)のうち160議席を獲得した。その結果、大統領は共産党になったものの、首相の座は「連帯」が獲得することになった。

このポーランドの選挙結果に対して、ルーマニアの指導者チャウシェスクはソ連に軍事介入を呼びかけたが、ゴルバチョフは応じなかった。

(2) ゴルバチョフとペレストロイカ註585-2 (1985-90年)

1980年代、ソ連は深刻な経済不振にあえいでいた。60年代後半に7.4%だった経済成長率は、しだいに低下し80年代初めには3.5%、半ばにはマイナス成長に落ち込み、店に長い行列ができる姿は日常的になっていた。国家支出の40%を占める軍事費、硬直した計画経済、技術面での遅れ、などがその原因とみられていた。

1985年3月、ゴルバチョフは54歳というソ連の指導者としては異例の若さでソ連共産党書記長に抜擢された。彼は冷戦を終わらせる上で重要な役割を果たすことになるが、最初から社会主義を放棄しようとしていたわけではなかった。むしろ、社会主義を復活させるために、ペレストロイカ(建て直し)を進めようとしていた。

1986年4月、チェルノブイリ原発で大事故が起こり、多数の死者と大量の放射性物質をまき散らした。この事故はソ連の危機管理体制の脆弱さや事故処理の杜撰さを明らかにすることになった。ゴルバチョフはグラスノスチ(情報公開)を改革の方針として打ち出し、軍部や官僚の秘密主義を打破しようとした。その具体的な成果として表れてきたのが、INF条約(中距離核戦力全廃_5.8.4項(2))の締結である。

また、1987年には経済活性化のために、外資との企業合併やサービス業での個人経営が認められ、国営企業に対しても市場原理による競争と企業の自主性が認められた。政治的には、1988年に立法機関として人民代議員大会が発足、90年には共産党独裁が排除されて複数政党制が認められ、同時に大統領制が導入されゴルバチョフが初代大統領に選ばれた。

(3) ハンガリーの国境解放註585-3 (1989年)

ハンガリーは東側陣営の中では相対的に最もリベラルな国であった。経済改革にも取り組んでいたが、国民一人当たりの対外債務はヨーロッパで最大になっていた。
ポーランドで円卓会議が開催される直前、ハンガリーでは1989年1月に共産党以外の政党や政治組織が合法化され、複数政党制が認められた。続いてハンガリーとオーストリア国境にあった鉄条網と電気監視装置を撤去することが決められた。この2件ともゴルバチョフは黙認した。

もともとハンガリーは夏季休暇の人気旅行先で、東ドイツやオーストリアから多くの観光客が訪問していた。1989年5月、ハンガリー国境の鉄条網が撤去されたことが報じられると、多くの東ドイツ人がハンガリーを訪れ、西ドイツに渡る機会を待ったり、オーストリアに不法入国してオーストリアの西ドイツ大使館に亡命を申請するケースが増加していた。東ドイツ政府はハンガリー政府に対して、「不法滞在者」を東ドイツに強制送還するよう求めたが、ハンガリー政府はこれらの東ドイツ人を「難民」とみなしてその要求を拒否した。背後には、駐ハンガリー米国大使からの圧力があった。

同年8月21日、国境を越えてオーストリアに逃れようとした東ドイツ人をハンガリー国境警備隊が射殺するという事件が起こった。ハンガリー政府はこのようなことが続けば、西側との関係が悪化することを心配し、「難民」問題を解決するためにオーストリアとの国境を開放することを決めた。国境は9月から開かれ、数万人の東ドイツ人がそこを通り抜けていった。

東ドイツ政府はワルシャワ条約機構外相会議の開催を要求したが、拒否された。ゴルバチョフも国境開放を容認した。一方、西ドイツはハンガリーに5億マルクの緊急融資を行った。

(4) ベルリンの壁崩壊註585-4 (1989年11月)

1989年10月、東ドイツでは建国40周年を祝う記念式典が催された。東ドイツの指導者ホーネッカーは同年1月「ベルリンの壁はあと50年でも100年でも存続するだろう」と豪語していた。しかし、記念式典に出席したゴルバチョフは「ゴルビー、助けてくれ」と叫ぶ声を聞き、ホーネッカーに改革を勧める警告を発したという。

東ドイツから多くの人々が出国する一方、国内では大規模なデモが全国的に行われ、10月の末にホーネッカーは辞任に追い込まれた。人々が求めたのは、旅行の自由、集会や報道の自由、などで、その後も、11月4日に東ベルリンで50万人、6日にライプツィヒで100万人など大規模なデモが続いた。

東ドイツの新指導部は国民の支持を得るために、旅行を自由化する規則を作成し、11月9日に発表した。その発表の場で、記者の「いつから?」の質問に対し「ただちに」と答えてしまった。(正しくは翌日から)
人々はその直後、「ベルリンの壁」に続々と押し寄せ、大混乱の中、国境警備隊は午後11時半、検問所を解放した。門をくぐった市民たちは西ベルリンの人々と抱き合い、現場はお祭り騒ぎとなった。

(5) ドイツ統一

コールの10項目提案註585-5 (1989年11月)

ベルリンの壁崩壊後、ドイツ統一に向けて最初のメッセージを発したのは西ドイツのコール首相だった。1989年11月28日、「ドイツとヨーロッパの分断を克服するための10項目プログラム」を発表し、ドイツ統一に向けてイニシアティブをとる姿勢を明確にしたが、それは統一というより「国家連合」構想であり、しかも5年以上先の実現を想定していた。

東ドイツの議会選挙註585-6 (1990年3月)

東ドイツでは、民主主義を求める市民グループが次々と設立され、ポーランドを手本にした円卓会議が中央のみならず地域ごとにも開催された。円卓会議は1990年3月18日に人民議会選挙を行うことを決定した。選挙には東ドイツの政党PDSに加えて、西ドイツのCDU、SPDなどの政党も参加して行われ、コールのもとで早期統一を主張したCDUを中心とした保守同盟「ドイツ連合」が48.1%を獲得して大勝、段階的統一を主張したSPDは21.8%、統一に批判的な立場をとった東ドイツのPDSは16.3%にとどまった。

※PDS;ドイツ社会主義統一党(SED)から名称変更した東ドイツの民主社会党(PDS) CDU(キリスト教民主同盟)とSPD(社会民主党)は西ドイツの政党

米英仏ソの姿勢註585-7 (1990年)

ドイツ統一に対して、アメリカ(ブッシュ大統領)は統一ドイツがNATOとECに加盟し続けることを条件に支持した。一方、サッチャー(英)とミッテラン(仏)はドイツの強大化を恐れ、早期のドイツ統一を望んでいなかった。しかし、東ドイツ国民が統一を望む姿勢を明確にし、ゴルバチョフもそれを受け入れることを表明したため、統一を容認する姿勢にかわっていった。

ゴルバチョフは東ドイツの状況から、ドイツ統一は不可避と判断したが、NATOへの非加盟などドイツを中立化することを望んでいた。しかし、アメリカも西ドイツも統一ドイツがNATOに加盟することは譲れない一線だった。このジレンマを解決したのは、西ドイツがソ連に数百億マルクに及ぶ経済支援を提供することであった。

ドイツ統一註585-8 (1990年10月)

東ドイツの議会選挙でキリスト民主同盟(CDU)が勝利したことは、東西ドイツが対等合併するのではなく、迅速な統一が可能な東ドイツの各州を西ドイツに併合する方式が選ばれたことを意味した。東西ドイツ間で具体的な内容の交渉が行われ、1990年8月31日、両ドイツ間で統一条約が調印された。9月12日には、東西両ドイツと米英仏ソ4か国の間でドイツ統一に関する条約が締結され、ドイツの主権が完全に回復された。ベルリンに関して米英仏ソが保有していた権利がすべて消滅することになったのである。

1990年10月3日、新たな首都となったベルリンで統一式典が挙行された。東ドイツを構成していた5州は統一ドイツの州となり、軍や外務省は西ドイツ側に統合された。通貨も西ドイツのドイツマルクに統一された。東ドイツに駐留していた38万人のソ連軍が完全撤退するのは94年9月になる。

(6) 東欧革命註585-9 (1989年)

1989年から始まった東欧諸国における民主化の動きを東欧革命という。ポーランド、ハンガリーと東ドイツについてはすでに上記で述べているので、ここではそれ以外の国の動きをごく簡単に紹介する。

ブルガリア; ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日、35年間にわたって独裁政治を続けてきたトドル・ジフコフが、党指導部の一部による宮廷クーデターで失脚した。

ルーマニア; 独裁者チャウシェスクは、西側への債務返済のために苛酷な緊縮財政を敷いていた。国民の不満が爆発し、1989年12月21日、宮殿前で演説中に襲われ、人民裁判にかけられて翌22日、夫人とともに処刑された。

チェコスロヴァキア; 1989年11月の大規模なデモにより共産党政権は崩壊した。1992年に行われたチェコ派とスロヴァキア派に分裂し、それまでの連邦制を解消して、2つの独立国家になった。

(7) ソ連崩壊註585-10 (1991年)

バルト3国などでは1988年から民族独立への機運が高まり、1990年になるとリトアニア、エストニア、ラトヴィアのバルト3国が一方的に独立を宣言、グルジア、アルメニア、モルドヴァが独立を目ざす立場を鮮明にした。

1990年3月には、共産党による一党独裁が廃止されて大統領制が導入され、市場経済への移行も始まった。90年5月にエリツィンがロシア共和国の最高会議議長に選出されると、翌6月にはソ連に対して主権宣言を発した。主権宣言は連邦の存在は否定せずに、ロシア共和国の権限の拡大を目指すものだった。ロシアに続いてウクライナ、カザフ、ウズベクなども同様の主権宣言を行った。91年8月、共産党保守派はクーデターを起こしてゴルバチョフの追い落としを図ったが失敗、共産党は解散を余儀なくされた。

1991年12月8日、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ3国首脳が独立国家共同体(CIS)設立協定に調印した。ソ連は消滅し、それぞれが主権を保持する国家の連合体となった。


5.8.5項の主要参考文献

5.8.5項の註釈

註585-1 ポーランドの民主化

山本「同上」,P349-P357、P402-P407

{ (戒厳令が発せられたとき)西側諸国が最も恐れたのはソ連の軍事介入であった。しかし、西側のこの懸念は杞憂だったことがすでに明らかになっている。ソ連指導部は、早くも1981年6月の段階でポーランドに軍事介入しないことを内々決定していた。そのようなことをすれば西側による経済制裁は免れない。すでに急速に悪化し始めていたソ連及び東側陣営の経済に深刻な影響を与えることになる、と判断されていた。}(山本「同上」、P354)

註585-2 ゴルバチョフのペレストロイカ

松尾「同上」,P225-P231 山本「同上」,P383-P401 栗生沢「ロシアの歴史」,P160-P162

{ いくら市場原理を導入して経済を活性化しようとしても、結局企業は国家に発注するので、なんの意味もなかった。価格も固定化されたままで、自由化は進まず、国民生活をいっそう圧迫するだけだった。また、資本主義システムの導入は、労働強化を招き、意欲のない者は給与を引き下げられたので批判を招いた。結局、党と国家がおいしいところを手放さない中途半端な自由化は、国民生活を余計に圧迫するだけだった。
さらに痛手だったのは、ソ連経済の頼みの綱だった原油価格が86年に暴落し、経済はマイナス成長に陥って、商品不足も深刻になった。}(松尾「同上」,P231-P232<要約>)

註585-3 ハンガリーの国境解放

山本「同上」,P407-P416

{ 【ハンガリーの指導者】ネーメトは、東側陣営を崩壊させようとして国境開放の決定を行ったわけではなかった。この国境開放はベルリンの壁崩壊への導火線に火をつけ、ひいてはワルシャワ条約機構の解体につながることになる。だが、その展開の早さはネーメトの想像をはるかに超えるものだった。ハンガリーが改革の先頭を走ることで、より多くの支援を西側から得ようとするネーメトの目論見は崩れることになる。}(山本「同上」、P416)

註585-4 ベルリンの壁崩壊

山本「同上」,P435-P438 若尾・井上「同上」、P305-P306

{ ベルリンの壁が開いた、とのニュースは西側諸国を驚かせた。ブッシュ大統領はソ連を刺激しないよう喜んだ姿を見せないようにし、サッチャ―首相は事態の進展の早さに戸惑い、ミッテラン大統領は公式には「喜ばしい出来事だ」と歓迎しつつも事態の不安定化を大いに懸念した。
冷静だったのがゴルバチョフで、彼が知らせを受取ったのは翌朝で、「彼らは正しいことをした」と述べたという。}(山本「同上」、P440-P441 <要約>)

註585-5 コールの10項目提案

山本「同上」,P445-P446 若尾・井上「同上」、P308

註585-6 東ドイツの議会選挙

若尾・井上「同上」、P307-P308 山本「同上」,P455-P456

註585-7 米英仏ソの姿勢

山本「同上」,P447-P463 若尾・井上「同上」、P318

{ ブッシュ政権は、統一ドイツがNATOに帰属したとしても、ソ連の安全保障に脅威とはならないことをゴルバチョフに受け入れさせようとした。ブッシュはその具体的内容として、全欧安全保障協力会議(CSCE)を強化し、ヨーロッパの東西分断を克服する場とする、通常戦力の軍縮交渉の加速、短距離核戦力の近代化計画の放棄、を提案した。
さらに7月初頭に開催されたNATO首脳会議では、防衛的な同盟であることを強調し、すべての紛争は平和的に解決すること、武力の先制使用はしないこと、などを宣言した。}(山本「同上」、P459-P462 <要約>)

註585-8 ドイツ統一

若尾・井上「同上」、P317-P319 山本「同上」,P463-P465

{ 予想を超えるテンポでドイツ統一は進行した。この過程では統一についての国民の意思表示が欠けていた。その意味で統一の実現に伴い、事後的に統一の是非を国民に問うべく、戦後初めての全ドイツ規模の選挙が必要になった。(90年)12月2日に実施された連邦議会選挙の結果は、予想通り「統一宰相」コールを擁するCDU/CSUの勝利に終わり、統一は追認された。}(若尾・井上「同上」、P319)

註585-9 東欧革命

山本「同上」,P441-P444 松尾「同上」,P284-P291

註585-10 ソ連崩壊

栗生沢「ロシアの歴史」,P163-P164 和田編「ロシア史」,P411-P419