日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.8 冷戦 / 5.8.4 核の恐怖と緊張緩和

5.8.4 核の恐怖と緊張緩和

ソ連をはじめ英仏と中国は、アメリカのあとを追って核兵器の開発を進めた。1960年代末になり、米ソの核戦力が均衡に達すると、核軍縮の動きも加速した。
また、1970年になると西ドイツのブラント首相が、それまでの「一つのドイツ」政策を改めて「二つのドイツ」政策に転じると東西の緊張緩和が進むことになった。

図表5.23(再掲) 冷戦

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(1) 核開発競争と核軍縮

核開発競争註584-1 (1949年~)

ソ連では早くから核爆弾に関する研究を行っていたが、広島・長崎への原爆投下後、スターリンはそれを最優先課題のひとつとして開発の速度をあげ、1949年8月にカザフスタンで核実験を成功させた。続いて1952年にイギリス、1960年にフランス、1964年に中国がそれぞれ原爆の実験に成功した。アメリカは1952年10月に水爆実験に成功し、ソ連もそれに続いた。

部分的核実験禁止条約(PTBT)註584-2 (1964年8月)

1954年にアメリカが太平洋のビキニ環礁で実施した水爆実験で、周辺の島民や日本の第5福竜丸が被ばくしたことがきっかけになって、核実験禁止の運動が世界に広まった。1958年にはアインシュタインら科学者が反対の声をあげると、フルシチョフは核実験を一時的に停止すると宣言した。アメリカとイギリスも交渉開始に同意して交渉が始まったが、査察の問題などで行き詰った。

キューバ危機(1962年)後、ケネディ大統領は地上での核実験のみを禁止(地下での核実験は可能)とする案を提示、ようやく1963年4月になって米英ソの間で締結されることになった。ドイツや日本なども参加したが、核開発の最中にあったフランスと中国は参加しなかった。

核拡散防止条約(NPT)註584-3 (1968年7月)

核保有国をこれ以上増やさないための条約については、PTBT成立直後からフルシチョフが提案していたが、当時、西側はNATOに核戦力を持つ多国籍軍を設置する多角的核戦力(MLF)の検討を進めており、核拡散防止との両立は困難であった。

1964年10月に中国が核実験を成功させるとアメリカのジョンソン大統領は、MLFをあきらめ核拡散防止に舵を切った。1966年になると米ソ両国は核拡散防止条約(NPT)の内容について協議を開始した。1968年7月、NPTは米英ソのほか世界59か国の参加を得て成立した。NPTは、核保有国は核兵器の技術・情報を非核保有国に拡散しないこと、非核保有国は核兵器を保有しないこと、核保有国は核軍縮の協議を進めること、などを定めていた。

(2) 中距離核戦力全廃条約(INF)註584-4 (1976-87年)

1970年代、東西両陣営で新型核ミサイルの開発・配備が進められていたが、ソ連は西側に先行して1976年からSS-20と呼ばれる新型中距離核ミサイルの実戦配備を始めた。この最新鋭の核ミサイルは射程距離5000キロ、命中精度も従来の3倍と高性能なものであり、西欧諸国に脅威をもたらした。

これに対してNATOは、ソ連にSS-20の撤去を求める一方で、新型ミサイルを83年以降にヨーロッパに配備することを決めた。ソ連との軍縮交渉は81年から始められ、米国のレーガン政権は全ミサイルの撤去を要請したが、ソ連は一部撤去に合意しただけだったため、アメリカは1983年から中距離核ミサイル「パ-シング2」の配備を開始した。この頃、西欧諸国では反戦反核運動が活発になっていった。

その後も交渉は続き、ゴルバチョフ登場後の1987年12月に米ソ間で、中距離核戦力全廃条約(INF)が締結され、欧州に配備されていたSS-20やパーシング2などはすべて撤去されることになった。

(3) ブラントの東方外交註584-5 (1970-73年)

西ドイツでは1969年9月の選挙後、社会民主党(SPD)の党首ブラントを首相とする政権が発足した。かつて反ナチの闘士であったブラントは、「より多くの民主主義」をスローガンに掲げて、教育改革、社会福祉の拡充などに取り組んだ。

だが、より大きな成果をあげたのは外交政策である。西ドイツはそれまで、「一つのドイツ」政策により東ドイツの存在を認めてこなかったが、ブラントは「一つのドイツ民族の中の2つの国家」という言葉で東ドイツの存在を事実上認める立ち場を示した。ドイツ統一を実現するためには東ドイツ、ソ連を含む東側陣営との関係を改善していく必要がある、と判断したのである。

経済状況の悪化に苦しむソ連や東側諸国にとっても、西ドイツとの関係改善は歓迎すべきものであった。まず、西ドイツがシベリアの天然ガスをヨーロッパに供給するパイプラインの建設に協力し、ソ連は天然ガスを供給するという契約が1970年2月に成立した。続いて3月と5月には東西ドイツの首脳会談が行われ、8月には西独・ソ連間で東西ドイツ間の国境を含めたヨーロッパの現状の国境を尊重するモスクワ条約が締結された。

1970年12月には、ポーランドとの間で西独/ポーランドの国境を承認するワルシャワ条約を結んだ。この条約に調印するためにワルシャワを訪問したブラントは、ゲットー記念碑の前に跪いて黙とうを捧げた。その姿は「過去の克服」への象徴として評価されている。

1972年12月、東西ドイツ間で「基本条約」が締結されて両ドイツ間の国交が樹立され、1973年9月に両国は同時に国連に加盟した。西ドイツは1973年12月、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ブルガリアとも国交を樹立した。
華々しい成果をあげたブラント政権ではあったが、73年から始まった石油危機、ならびに私設秘書のスパイ疑惑により、1974年5月、ブラントは退陣した。

(4) ヘルシンキ宣言註584-6 (1975年)

1975年7月末、全欧安全保障協力会議(CSCE)がフィンランドの首都ヘルシンキで開催され、東西ドイツを含むヨーロッパ諸国とアメリカ、カナダの35か国の首脳が参加した。最終日にあたる8月1日に採択された「ヘルシンキ宣言」は以下の3つのセクションから構成されている。

ヘルシンキ宣言にはその履行状況をフォローアップする規定があり、冷戦終結までに3回フォローアップ会議が開かれている。


コラム 1968年5月革命

1968年2月にパリ大学で男女学生寮間の往来を禁止する規則の撤廃を求めて学生たちが騒ぎ出し、火炎瓶が投げられる事態となった。背景には、戦後のベビーブームに加えて大学の大衆化が進み、学生人口が大幅に増加したことがあった。学生たちは大学運営に関する問題だけでなく、ド・ゴールの独裁的な政治にも抗議し、5月13日に数十万人のデモが、17日には学生に共感した労働者1000万人がストライキに入った。

同様の学生運動はドイツでも起こり、アメリカや日本にも波及した。いずれの場合も大学内の問題だけでなく、ベトナム戦争への抗議や人種差別撤廃を訴えたアメリカのキング牧師の暗殺もこれらの運動を触発した。

日本では「全共闘運動」などと呼ばれ、一部の過激派が海外でテロを起こしたり、浅間山荘に籠って機動隊と闘ったという印象が焼き付けられたせいか、否定的に受け取られることが多いが、世界的にはこれらの運動は後の社会に大きな影響を与えた、と評価されることが多くなっている。

例えば、名著「近代世界システム」を著したI.ウォーラーステインは次のように、冷戦の終結にこの革命が無関係ではない、と述べている。

{ 「史的システムとしての資本主義」の分岐点として、1968年の世界革命の影響は、次の分岐点である1989年の共産主義の崩壊まで続いた。1968年の世界革命は、地域によって多様な形態をとって発現したが、そのなかには…アメリカ合衆国のへゲモニーに対する叛乱があった。他方で、旧来の社会民主主義なども拒否された。… 彼らがまとっていた対抗文化の衣装は個人主義の肯定ではなく、個人の資質を十分に発揮できる方向に向かう圧力を支持した。
こうした彼らの要求は、資本主義的世界経済の中核地域では比較的認められたが、社会主義諸国で認められることは少なかった。これらの政権には68年革命のような運動が政府の政策にかけるはずの圧力がなかった。}(I.ウォーラーステイン著川北稔訳「新版 史的システムとしての資本主義」,P221-P223<要約>)

実は、筆者の高校の卒業式(1969年3月)は、同級生の"活動家"たちが校内を占拠し、機動隊が出動する事態となったために中止となった。大学に入学すると構内にはあちこちにタテ看板がたち、時々活動家たちが講堂を占拠して集会を開いていた。私自身はいわゆる"ノンポリ”で活動家たちとは距離をおいていたが、彼らの心情に共感することは多々あった。多くの若者たちが過激な行動に眉をひそめつつも共感をよせていた。それは、そのころ残っていた古い習慣――年功序列、学歴偏重、見合結婚、家族制度、没個性・集団主義、等々――に対する若者らしい反発心に根付くものだった。

そうした若者たちをひきつけたのが、ビートルズやローリング・ストーンズといったロック・グループやボブ・ディラン、ジョーン・バエズといたフォークシンガーたちであり、1969年8月に行われたウッドストックに熱狂したのも1968年革命の延長線上にある行動といっていいのではないだろうか。ビートルズのジョン・レノンはこう言っている。「突然、僕らは選ばれた者となり、あらゆる自由への導火線に火をつけた。僕はその導火線に火をつけた張本人は、60年代という時代そのものであり、僕らはその一部に過ぎなかったと思っている」。

(参考文献: 松尾「ヨーロッパ現代史」,P21-P23、NHK映像の世紀「世界を変えたビートルズ」)


5.8.4項の主要参考文献

5.8.4項の註釈

註584-1 核開発競争

山本「同上」,P90,P187,P280

{ 1949年8月にソ連は核実験に成功した。しかし、当時まだソ連の原子爆弾は運搬手段を持たなかったため、アメリカ本土へ核攻撃する能力は持たなかった。… ソ連は1957年10月に人工衛星スプートニクの打ち上げに世界で初めて成功した。フルシチョフはソ連がこれで地球上のどの地点にでもミサイルを撃ち込めるようになったと公言し、アメリカに大きなショックを与えた。}(松尾「同上」,P129)

註584-2 部分的核実験禁止条約(PTBT)

山本「同上」,P233-P237

註584-3 核拡散防止条約(NPT)

山本「同上」,P237-P238, P279-P282

{ 西ドイツは、将来的な核保有の可能性を保持し続けるべき、とする保守派などの圧力の結果、NPTに調印することを留保した。約1年後、ブラントが首相となり、NPTに調印することになる。}(山本「同上」、P281-P282<要約>)

註584-4 中距離核戦力全廃条約(INF)

山本「同上」,P344-P349、P387-P390

註584-5 ブラントの東方外交

山本「ヨーロッパ冷戦史」,P298-P316 松尾「ヨーロッパ現代史」,P169-P171 若尾・井上「近代ドイツの歴史」,P291-P292

ブラントの「跪き」は現在でこそ、世界各国から評価されているが、当時の西ドイツでは評判がよくなかった。{ パフォーマンスとしてやり過ぎ、という批判や、基本法(憲法)に違反するのではないかという批判もあり、ワルシャワ条約の批准は一苦労だった。離党者もあらわれ、…不信任案も提出されたが、辛くも政権交代は免れた。}(松尾「同上」,P170)
またポーランドでは、{ (ポーランドの指導者)ゴムウカが予想外のパフォーマンスに慌て、ブラントが跪く姿を新聞やニュースなどでポーランド国民に見せるのを一切禁止した。}(山本「同上」、P307)

註584-6 ヘルシンキ宣言

山本「同上」,P316-P321 松尾「同上」,P182 若尾・井上「同上」、P296

{ なぜ東側陣営は人権及び基本的自由の尊重に関する原則…を受け入れたのか。…ブレジネフは何より安保会議の成功を求めた。そして、内政不干渉の原則を盾に西側からの干渉や批判をかわせると判断した。… しかしながら、ワルシャワ条約機構国は、このヘルシンキ宣言によってその内側から揺さぶられることとなる。}(山本「同上」、P321)