日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.8 冷戦 / 5.8.2 冷戦体制の形成

5.8.2 冷戦体制の形成

1940年代末になると、西側諸国は軍事と経済の両面から同盟を形成し、これに対抗して東側陣営も同様の体制を構築していく。これらの体制はアメリカとソ連という超大国を頂点とするものであった。

図表5.23(再掲) 冷戦

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(1) 北大西洋条約機構(NATO)註582-1 (1949年4月~)

戦後、イギリスは広大な植民地を持つ世界大国として、米ソに伍する第三勢力を作る構想をもっていた。東欧諸国のソ連化=共産化が急速に進んでいることへの不安もそれを後押しした。イギリスは1948年、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクとの間で軍事同盟(ブリュッセル条約)を締結したが、イギリスの軍事力に不安をもつフランスやオランダはアメリカの関与を求め、イギリスもそれを認めざるをえなかった。

アメリカも東側陣営の共産化の動きには脅威をもっており、最終的にイタリアや北欧諸国も加えた12か国が、1949年4月4日、北大西洋条約に調印した。この条約により、加盟国間での相互防衛が約された軍事同盟が誕生し、外相理事会や防衛委員会が制度化されて、北大西洋条約機構(NATO)となった。

アメリカはマーシャル・プランの実施にあたって、東側陣営に対する輸出制限を加入国に課したが、1949年末には「対共産圏輸出統制委員会(ココム)」が設立され、禁輸対象として300品目超がリストアップされたため、東西陣営間の貿易は縮小することになった。

(2) ECSCから、EC、EUへ註582-2

欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC) (1951年4月)

ヨーロッパを統合すべきという思想や運動は戦前から存在したが、それが具体化するのは1950年、フランス外相シューマンが提案した石炭・鉄鋼の共同市場を創設し、それを超国家的な機関が管理するという構想である。これはルール地方の炭田をかかえる西ドイツからも支持され、1951年4月、仏、西独、伊、蘭など6か国でスタートした。

欧州共同体(EC)から欧州連合(EU)へ (~1967年~1993年~)

ECSCに加えて、1958年には関税統一や資本の移動の自由化などを可能にした欧州経済共同体(EEC)およびECSCの原子力版ともいえる欧州原子力共同体(ユーラトム)がECSCと同じ6か国(仏、独、伊、ベネルクス3国)によって設立された。

さらに、この3つは1967年に欧州共同体(EC)として統合され、加盟国も増加していった。ECは警察・司法の協力など経済以外の分野も加えて、1993年に欧州連合(EU)としてさらに発展し、現在では東欧諸国も含めてヨーロッパのほとんどの国が加盟している。

(3) ワルシャワ条約機構とコメコン註582-3 (1954年、1949年)

スターリンは多くの国が網の目のようにN対Nで連携する形ではなく、ソ連と東欧各国が個別に1対1で2国間関係を構築する方法を好んだ。そのため、NATOが成立してもそれと同様の多国間同盟を作る必要を感じなかった。

1953年3月にスターリンが死去し、6月に東ベルリンで起きた賃金引上げや物価引下げを求める暴動をソ連軍が鎮圧すると、西独のアデナウアーはドイツ統一と西側への組み込みを主張するようになった。これに対してソ連は欧州全体を対象とした安全保障体制の構築を提案したが西側は認めず、西独はNATOへの加盟が認められた。ソ連は1954年5月、ワルシャワに東欧諸国を集めて「欧州安全保障会議」を開催し、「ワルシャワ条約機構」を発足させた。ただ、初期のワルシャワ条約機構は軍事的内実の乏しいもので、政治的な性格が強かった。それが軍事同盟として機能するようになるのは1960年代になってからである。

なお、東側の経済同盟については、マーシャル・プランへの対抗として、経済相互援助会議(コメコン)を1949年1月に設立したが、これもソ連を頂点とする2国間関係の集合体であり、ECのような統合はおろか、経済協力も十分に発展させられなかった。

(4) フルシチョフのスターリン批判註582-4

1956年2月、第20回ソ連共産党大会最終日の秘密会議において、当時党第一書記だったフルシチョフは「スターリン批判」と呼ばれる演説を行った。スターリン個人への批判であり、ソ連の体制自体を問題にしたものではなかったが、ソ連国内のみならず国外にも大きな衝撃を与えた。その主な内容は次のとおり。

・スターリンは自身の個人崇拝を奨励し、その結果、数々の誤りを生んだ。

・1934年の大テロル(5.2.6項(2))では多くの人々が無辜の罪をきせられて処刑された。

・ヒトラーが攻めてくる情報があったにもかかわらず、しかるべき準備をしなかった。

フルシチョフの演説内容は、各国共産党にも伝えられ、それを入手した米国CIAはメディアにリークし、東欧諸国の一般人の間にも流布された。

(5) 東欧諸国の動揺註582-5

1950~60年代、東欧諸国では豊かな生活や自由を求めて民衆のデモや暴動が起きた。

東ベルリン (1953年6月)

東ドイツは社会主義化(計画経済や農業の集団化など)により、1952年暮れから53年にかけて食糧不足が深刻化し、物価は急上昇した。東ドイツの指導者ウルブリヒトは、5月末に工業労働者のノルマを10%引き上げる指令を出した。6月16日の朝、東ベルリンの労働者はデモを始め、翌17日には50万人がデモに参加、一部が暴徒化した。ソ連軍は戒厳令を出して暴徒の鎮圧にあたり、約50人が死亡、数百人が逮捕されて暴動は鎮圧された。

この事件はソ連指導部内の権力闘争と結びつき、ソ連が「2つのドイツ」政策をとる転換点になった。

ポーランド (1956年6月)

1956年6月28日、ポーランド西部の都市ボズナンの労働者は、東ベルリンと同様、食料品価格の上昇などに抗議してデモをはじめた。暴徒化したデモ隊を鎮圧したのは、ポーランド軍であった。ポーランド政府は法治主義の強化、文化・報道の自由などの民主化政策を採択し、民衆に人気のあったゴムウカを党第一書記に選出した。

フルシチョフはソ連軍を待機させた上で、ポーランドを訪問しゴムウカと会談、ゴムウカはソ連に忠誠を誓い、社会主義体制を維持してワルシャワ条約機構にもとどまる、と約束しフルシチョフもそれを受け入れた。

ハンガリー (1956年10月)

ポーランドの動きに刺激されて、ハンガリーでは1956年10月23日、30万人ともいわれる人々が国会議事堂へ向かった。ポーランドのゴムウカと同様に国民に人気のあるナジが首相に復帰し、混乱はおさまるかにみえたが、10月31日、ソ連軍は首都ブダペストに侵攻し死者2700人、負傷者1万人超を出した末に暴動は制圧された。ナジは誘拐され、後任の首相にはソ連指導部と内通していたカーダールが就任し、暴動に関与した者たちを処刑した。

チェコスロヴァキア_プラハの春 (1968年8月)

1968年1月、共産党書記長に就任したドゥプチェクは改革派を登用し、当時、落ち込んでいた経済だけでなく、言論の自由、秘密警察の権限制限など、政治改革も進めようとした。6月に共産党を批判し改革と民主化を訴えた記事が主要各紙に掲載されると、それを支持する国民の手紙が新聞社に殺到した。

こうした「プラハの春」に懸念を示したのは、ソ連よりもポーランドや東ドイツであった。ソ連もドゥプチェクを呼びつけて難詰めし、ドゥプチェクもワルシャワ条約機構に留まることを約束したが、同年8月20日、ソ連軍はチェコスロヴァキアに侵攻、チェコスロヴァキア国民は非暴力的な抵抗で対応したため、死傷者は少なかったが、ドゥプチェクはじめ改革派は拘束され、それまで進められた「改革」はすべて撤回させられた。

ソ連はこの軍事介入を正当化するため、「社会主義国の主権と自決権は、社会主義世界の大勢の利益に従属する」と反論した。つまり、社会主義体制の維持のために主権や自決権を侵害することは認められる、と強弁したのである。これはその時のソ連首相の名前をとって「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれる。

(6) ベルリンの壁建設註582-6 (1961年8月~)

東ドイツ当局は東ドイツと西ドイツならびに西ベルリンの間の移動は厳しく管理していたが、東西ベルリン間は自由に往来できていた。自由と豊かな生活を求めて西ベルリン経由で西ドイツに流出していった東ドイツ人は、ベルリンの壁ができるまでに300万人、東ドイツ全人口の6分の一が西ドイツへ逃れたという。

1958年11月10日、フルシチョフは「平和条約によりベルリンの占領状態を終わらせ、西ベルリンを非武装の自由都市にすべき」と提案した。それは西ベルリンにおける西側三国の権利を保証しないということであり、これまでのように西ベルリンと西ドイツの間を自由に通行できなくなることを意味した。これに対して西側はイギリスがソ連に譲歩の姿勢を見せたが、アメリカとフランスは反対し、膠着状態が続いた。1961年にアメリカの大統領はアイゼンハワーからケネディに代わったが、ソ連への姿勢は変わらなかった。

西ベルリンを経由して東ドイツを脱出する人たちは増加し、1961年7,8月には毎日1000人(うち半部近くは25歳以下の若者)に達していた。東ドイツは我慢できずに、西ベルリンの境界を鉄条網などで封鎖する計画を作り、フルシチョフもそれを承認した。

1961年8月13日、深夜1時、警察や工兵などによる徹夜の作業によりベルリンを東と西に分ける48キロの境界が鉄条網で分断された。西ベルリンに向かう、バスや地下鉄、トラム、道路や水路もすべて遮断された。鉄条網はやがてコンクリートの壁になっていった。

ベルリンの壁と監視塔(左) ベルリン市内の「ベルリンの壁記録センター」にて筆者撮影


5.8.2項の主要参考文献

5.8.2項の註釈

註582-1 北大西洋条約機構(NATO)

山本「ヨーロッパ冷戦史」,P70-P79,P84-P85

{ ソ連化には一定のパターンがあった。共産党(労働者党、社会主義統一党など呼び名は様々)は、東欧各国で内務省や法務省のポストを握り、警察権力を動員して反ソ・反共主義的な人々を逮捕し、強制収容所に送り、あるいは処刑した。ソ連軍とともに東欧諸国に来たソ連の政治警察がその手法を伝授していた。形式的に複数政党制が存続していた国でも、共産党は他のライバル政党を徐々に弱体化させていった。他方で共産党は、不正選挙も駆使した。それにより共産党はあり得ないほどの圧倒的な得票率で第一党となり、共産党独裁体制を固めていった。}(山本「同上」、P72-P73)

註582-2 ECSCから、EC、EUへ

山本「同上」,P85-P87,P322-P323

{ 戦時中、ドイツによって占領された経験をもつフランス人は仏独和解を求めるのではなく、ドイツの弱体化を目指す政策を支持していた。だが、アメリカがドイツの復興を重視し、ドイツ西部をマーシャルプランに含めなければならないと要求すると、フランスはしかたなく「ヨーロッパ統合の中のドイツ」という方向性を模索するようになった。西欧の統合が進めば、仏独の歴史的対立を乗り越えて、西欧が一致団結してソ連に対抗できるようになる、それはアメリカにとっても望ましいことであった。
フランスが提案したECSCの構想は、ドイツのルール地方の良質な石炭を西ドイツが独立したあとも、フランスが利用できるようにするためのものでもあった。}(山本「同上」、P86-P87<要約>)

註582-3 ワルシャワ条約機構とコメコン

山本「同上」,P79,P125-P143、P322

{ ワルシャワ条約の第11条は、次のように述べている。「この条約は締約国が終始一貫して追求する欧州集団安全保障体制の結成、及びその目的のための集団安全保障に関する全ヨーロッパ条約の締結が行われたときは、その全ヨーロッパ条約が効力を生ずる日に効力を失う」。ワルシャワ条約が締結された時点では、ソ連の政策目標は、依然として欧州集団安全保障体制を実現することであった。(山本「同上」、P142-P143)

註582-4 フルシチョフのスターリン批判

松尾「ヨーロッパ現代史」,P78-P80、山本「同上」,P164、栗生沢「ロシアの歴史」,P153

{ フルシチョフの回想録から引用しておこう。第20回党大会の前「私はいぜんスターリンをまれに見る強力な指導者として愛惜していた。彼の権力が恣意的にふるわれ、必ずしも適切な方向に行使されなかったことを知ってはいたが、だいたいにおいてやはりスターリンの力は、社会主義の強化と、10月革命の取得物を強化するために使われたと、私は信じていた。…だが、いくつかの疑問が提起されるようになり、…私は逮捕された者のうちだれひとりとして無罪放免になった者がいないのはなぜか、監禁された者のうち釈放された人間がひとりもいないのはなぜかという疑惑を抱き始めていた」(ストローブ・タルボット編「フルシチョフ回想録」タイムライフインターナショナル、1972年、347~348頁)。}(松尾「同上」、P78-P79)

註582-5 東欧諸国の動揺

下記いずれも、山本「ヨーロッパ冷戦史」の参照ページ。
東ベルリン; P125-P127 ポーランド; P163-P167 ハンガリー; P167-P172 チェコスロヴァキア; P282-P288

註582-6 ベルリンの壁建設

山本「同上」,P204-P216