日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.8 冷戦 / 5.8.1 ドイツ分断と冷戦の始まり

5.8 冷戦

冷戦(Cold War)とは、米ソ両超大国がそれぞれ東西陣営を率いて、核兵器による威力を背景ににらみ合いを続けた状態、すなわち超大国が直接干戈を交えることはなかったが平和でもなかった、という状態をいう。期間について定説はないようだが、一般には1947年3月にトルーマン大統領が、「世界は自由主義体制と全体主義体制に分かれている」と演説したときから、1991年にソ連が崩壊するまでを示すことが多い。

この節では、冷戦における主要なテーマについて、時系列順、テーマごとにくくって述べる。

図表5.23 冷戦

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5.8.1 ドイツ分断と冷戦のはじまり

第2次大戦後、ドイツは東西に分断されるとともに、米ソ両超大国を頂点とする東西両陣営が「冷戦」を繰り広げたことは周知の事実である。このドイツ分断とヨーロッパにおける冷戦は密接な関係をもちながら、歴史が刻まれていくことになる。
この項では、第2次大戦終了直後のドイツ分断と冷戦のはじまりについて述べる。

(1) ドイツ占領政策の方針註581-1

ドイツ降伏後の占領政策については、ヤルタ会談(1945年2月)とポツダム会談(1945年7-8月)において、次のように決められていた。

図表5.24 ドイツの分割占領

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出典)若尾・井上「近代ドイツの歴史」,P261 をもとに作画

注){ ヒトラーの侵略以前のドイツ領はポツダム宣言の終った時点で、6つに分割されていた。ただ、ポーランド領となったオーデル・西ナイセ川より東部、およびソ連領となったケーニヒスブルク(現カリーニングラード)を含む東プロイセン北部は、ドイツ占領管理体制が始動する前に事実上ドイツから切り離されていた。}(若尾・井上「同上」、P260)

(2) 各国の占領政策註581-2

各国はドイツ占領にあたってそれぞれの思惑を持っており、それが占領政策の違いになってあらわれた。

アメリカ

アメリカ占領地区では連邦主義の復活が重視され、早くも1945年9月には3つの州が設置された。州政府も任命され、1946年末には州憲法が制定され州首相が選出されるようになった。こうして、アメリカの占領地区ではドイツ側への権限移譲が他地区より早く進んでいった。

イギリス

イギリスは占領地区内での中央集権的な官僚機構の設置を優先した。早期に占領を終わらせるために、ドイツの中央政府の樹立やドイツ経済の復興を目指したが、ソ連やフランスは反対した。

フランス

フランスは強いドイツが復活することを恐れ、ドイツの弱体化を意図した分離主義的な占領政策をとった。ドイツへの権限委譲は米英にくらべて低かった。ヤルタ会談にもポツダム会談にも招待されなかったフランスは、米英ソ三国のこれまでの合意には縛られないと主張し、連合国管理理事会で拒否権を連発した。

ソ連

ソ連が最も重視したのは賠償の取り立てであった。ドイツ占領が始まるとソ連軍によるすさまじい略奪が行われ、多数の女性がソ連兵に強姦された。賠償の一環として、解体された工場や機械、線路などがソ連に運び去られた。中央集権的な占領体制が組織化され、大地主の土地の没収、基幹産業の国有化などが、マルクス・レーニン主義の理論に基づいて行われた。このようにソ連占領地区の経済復興が軽視されたことは、この地区の社会経済を脆弱なものにすることになった。

(3) ドイツ分断と冷戦の始まり註581-3

イギリスとアメリカは、1945年末頃からドイツ経済の再建を加速すべきだと考える一方、ソ連の膨張政策などに対する不信感が高まっていった。1946年3月のチャーチルの有名な演説「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで『鉄のカーテン』が大陸を横切って降ろされている」はその不信感を象徴するものだった。

米英は、ドイツ分断を覚悟の上でドイツ経済復興のために、米英仏の占領地区を統合するとの提案を行ったが、ソ連とフランスは拒否した。(フランスは後日参加することになる)1946年12月に米英占領地区経済統合協定が調印され、1947年1月に発足した。2つの地区が統合されたことからバイゾーンと呼ばれ、これがのちの東西ドイツの原型になる。

1947年3月にはアメリカのトルーマン大統領が、「自由主義体制」と「全体主義体制」という2つの体制で世界を2分する見方(トルーマン・ドクトリン)を示し、これが冷戦の開始宣言と言われている。

(4) マーシャル・プラン註581-4

1946年暮れから47年にかけてヨーロッパは大寒波に襲われ、交通機関が止まり、工場も停止して、ヨーロッパの復興に急ブレーキがかかった。アメリカ国務省は、この危機に乗じて共産主義勢力が拡大することを恐れ、総額120億ドルに上る大規模な復興支援計画を策定した。この計画はそのときの国務長官ジョージ・マーシャルにちなんでマーシャル・プランと呼ばれている。

戦前のヨーロッパ経済はネットワークでつながっており、その中心にドイツがあった。そのため、ヨーロッパの復興にはドイツ経済の活性化が欠かせなかった。そこでアメリカはマーシャル・プランの具体化にあたり、ヨーロッパ諸国にドイツを含めてヨーロッパ全体の復興計画を策定するよう要求した。

アメリカは東欧諸国の参加を拒むつもりはなかったが、ソ連の参加には否定的だった。ソ連は援助計画にドイツを含めないことや経済的自立性を保持することを求めたが認められないまま不参加を決め、東欧諸国にも参加しないよう通告した。チェコスロヴァキアは参加を希望したが、ソ連からの圧力で参加をとりやめた。
1947年7月、西欧諸国を中心に16か国の代表が参加する会議がパリで開催され、欧州経済協力委員会(CEEC)が発足することとなった。他方、東側陣営は47年9月にコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)を発足させ、ここに東西両陣営の分断が制度化されることになった。

なお、マーシャルプランは多くがアメリカ製品の購入に充てられることになったものの、西側陣営の戦後復興に大きく貢献することになった。

(5) ロンドン会議とベルリン封鎖註581-5

ロンドン会議

1947年初頭に米英の占領地区はバイゾーンとして経済統合していたが、47年末までにフランスも自国の占領地区をバイゾーンに統合させる方向に傾いていた。1948年2月、米英仏にベルギー、オランダ、ルクセンブルク3か国を加えた6か国でドイツ問題に関するロンドン会議が開催されることになった。本来、米英仏ソ4か国で協議すべきところを、ソ連を無視して西側諸国だけで公然と開催したのである。ソ連はこれをポツダム協定違反だと非難し、1948年3月、連合国管理理事会から脱退した。

この会議では、米英仏の占領地区を統合し憲法を制定して西ドイツの連邦政府を作ることや、その地域で通貨改革を実施することなどが決められた。無価値になっていたナチ時代の通貨ライヒス・マルクに代わって信頼できるドイツマルクが導入されたことにより、ドイツの経済は活性化していった。

ベルリン封鎖

この通貨改革に反発したスターリンは、1948年6月24日、西ベルリンへの出入り口を全面的に封鎖した。封鎖により人も貨物も陸上ルートからは持ち込めなくなった。米英は6月26日から大量の物資を輸送機で運ぶ大空輸作戦を開始した。封鎖が解除されるまでのあいだ、およそ11カ月にわたって1日平均800回以上、総計277,500回もの空輸が行われた。

ソ連は輸送機を打ち落とすことはできたが、それをやったら何が起きるかを知っていた。1949年5月12日、米英仏ソ外相会議の再開という名目でメンツを保ちつつ、封鎖を解除した。

ベルリン封鎖の時に使った輸送機

西ベルリンに荷物を運んだ輸送機C-47_ドイツ技術博物館(ベルリン)にて筆者撮影

(6) 東西ドイツの成立註581-6

西ドイツ成立

米英仏の占領地区では、ロンドン会議の結果にもとづいて1948年9月に憲法制定会議が招集され、翌年5月に「基本法」が採択された。「基本法」は実質的な憲法であるが、西ドイツが暫定的な国家であることからこう呼ばれた。

基本法の策定に当たっては、連合国から「連邦主義的で民主主義的であること」というありきたりの条件が付けられただけで、ドイツ人自身によって作り上げられた。ナチ独裁を許した苦い経験を二度と繰り返さないため、「自由で民主主義的基本秩序」を否定する政党の解散命令、大統領権限の制限、首相の解散権の制約などが盛り込まれていた。

1949年8月、第1回連邦議会選挙が行われ、9月7日、暫定的な首都ボンに議会が召集され、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立した。初代首相はキリスト教民主同盟(CDU)のアデナウアーであった。アデナウアーは1876年ケルンの軍人の家に生まれ、1894年にフライブルク大学に進学、1903年に司法試験に合格し、1917年ケルン市長となった。彼は1963年まで首相をつとめ、ドイツの再統一よりもドイツを西側寄りに位置付けて国際社会に復帰させることを優先させた。

東ドイツ成立

西ドイツ成立に向けた動きが活発になる中、スターリンはひとつのドイツにこだわった。しかし、西ドイツ成立が明確になった1949年9月末、ドイツ社会主義統一党(SED)に対して国家設立に同意する旨、通達した。10月7日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が設立されたが、東ドイツ創設は将来の全ドイツ統一のためであった。

東ドイツはSEDの一党独裁体制で、1950年2月には秘密警察も設置され、企業の「人民所有」化、農業の集団化等が進み、苛酷なノルマが課せられた。

東西ドイツともに暫定国家として建国された。ソ連は東ドイツを他の衛星国とは異なり、「人民民主主義」の国と遇しておらず、国家主権も認めていなかった。西ドイツは占領軍の軍政は廃止されたが、外交権などはなく国家主権は制約下におかれた。両ドイツともに国際連合には加盟できなかったが、西ドイツは世界保健機構(WHO)や国際労働機関(ILO)などの国際組織に加盟できたのに対し、東ドイツはこうした国際組織にも参加できなかった。


5.8.1項の主要参考文献

5.8.1項の註釈

註581-1 ドイツ占領政策の方針

山本「ヨーロッパ冷戦史」,P26-P31 若尾・井上「近代ドイツの歴史」、P260-P264

{ (戦前の)ドイツは「危険な国」であった。ドイツは西欧とは異質な政治文化を主張して民主主義を定着させず、屈折したナショナリズムを抱えて自国中心主義で国民国家の拡大を目指し、ヨーロッパの平和と安定に脅威を与えてきた。このような危険を取り除き、安定した民主主義国としてヨ―ロッパの一員となることができるか否かが、1945年のドイツ問題であった。}(若尾・井上「同上」、P260)

{ ポツダム協定において「ドイツは単一の経済単位として扱わなけれなばならない」とされ、統一ドイツが建前とされた。その一方で、各占領地区の最高司令官にはそれぞれの占領地区に関して最終的な執行の権限が与えられた。連合国管理理事会の決定は全会一致制であったため、各国が事実上の拒否権を行使し、各占領地区では独自の占領政策が進められることになり、統一ドイツの建前は形骸化していく。}(山本「同上」、P30-P31<要約>)

註581-2 各国の占領政策

 <引用、参照元文献>

      山本  若尾・井上

アメリカ --  P262-P263

イギリス  P40   P263

フランス  P38   P263

ソ連  P38-P39,P55 P263

註581-3 ドイツ分断と冷戦の始まり

山本「同上」,P35-P45 若尾・井上「同上」、P263-P264

{ イギリスを驚愕させたのは、1945年にソ連がリビアのトリポリタニアを要求したことだった。… さらにイランに進駐していたソ連軍を期限までに撤退させなかったことも不信を増大させた。}(山本「同上」,P36<要約>)

{ 連合国管理理事会における仏ソの非妥協的な態度は占領コスト軽減の妨げとなり、とりわけイギリスを苛立たせた。イギリスとしては早期に占領を終わらせるためにも、ドイツの中央政府樹立が望ましかった。}(山本「同上」,P40)

{ アメリカは当初、4大国によるドイツ問題の解決を目指した。しかし米国務省内でもソ連に対する不信感がますます強まっていた。46年1月、トルーマン大統領は「私はソ連を甘やかすのに飽きた」と述べるほどだった。}(山本「同上」,P41)

{ 4占領地区はどれも自給自足では経済的に立ちゆけなかった。… ドイツの経済状況は悪化の一途をたどり、1946年から47年にかけての冬は破局的状況に陥った。ドイツ人を餓死させるわけにはいかなかったが、納税者の負担増を避けたかったアメリカは「納税者の論理」によってドイツ経済復興重視に占領政策を転換し、1947年1月、米英占領地区の経済統合が行われた。}(若尾他「同上」,P263-P264)

註581-4 マーシャル・プラン

山本「同上」,P46-P52 松尾「ヨーロッパ現代史」、P57

{ コミンフォルムの実現に尽力したアンドレ・ジダーノフは、有名な「2つの陣営」演説を行った。彼は戦後世界政治が、一方で帝国主義・反民主主義陣営、他方で反帝国主義・民主主義陣営へと2つの陣営に分裂する方向性がはっきりしたとし、帝国主義陣営の指導国はアメリカであり、イギリスとフランスはそのアメリカと同盟していると名指しした。米ソ双方において、世界が2つに分かれているとの認識が公然と語られらるようになった。}(山本「同上」,P52)

ここで東側陣営は、西側を「帝国主義・反民主主義」、東側を「反帝国主義・民主主義」と呼んでいるが、1947年3月の演説でトルーマンは西側を「自由主義体制」、東側を「全体主義的体制」と呼んでいる。言葉は使いようである。

註581-5 ロンドン会議とベルリン封鎖

山本「同上」,P55-P60 松尾「同上」、P60-P61

{ ベルリン封鎖はソ連のイメージを大きく損なわせ、他方で大空輸作戦はアメリカのイメージを大幅にアップさせた。ソ連はドイツ人を飢え死にさせようとした。対してアメリカはドイツ人の救世主と見なされた。
西ベルリンを守ることは、冷戦の戦いのシンボルとなった。ベルリン封鎖を経験したことで、ドイツの分断に反対していた西側占領地区のドイツ人たちも、西ドイツ国家の創設を受け入れるようになった。}(山本「同上」,P59-P60)

註581-6 東西ドイツの成立

山本「同上」,P60-P65 松尾「同上」、P62-P65 若尾・井上「同上」、P266-P267

{ ドイツが分断国家になったことで、一つのドイツか、二つのドイツかという問題が冷戦時代の問題として生み出されることになった。成立当初、東西ドイツはいずれも自国だけが正統な「ドイツ」である、と主張した。
米英仏や英連邦、中南米諸国などは西ドイツを承認し、東欧諸国などは東ドイツを承認した。その結果、1954年までに西ドイツを承認したのは53カ国に達したのに対して、東ドイツを承認したのは11カ国であった。
ドイツが分断国家になった結果、第2次大戦を正式に終わらせるための平和条約は締結できなくなった。}(山本「同上」,P64-P65)