日本の歴史認識 ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.7 ニュルンベルク裁判 / 5.7.2 ニュルンベルク継続裁判

5.7.2 ニュルンベルク継続裁判

ニュルンベルグ裁判の後、財界人、軍人、官僚に対する「ニュルンベルク継続裁判」がアメリカ主宰で行われた。12件の裁判に分割して合計185人が起訴され、内25人が死刑判決を受けた。

ニュルンベルグ裁判及び継続裁判では、通常の戦争犯罪の他に、侵略戦争の共同謀議、平和に対する罪、人道に対する罪についても裁かれ、東京裁判にも同様の裁判憲章が適用された。さらに、2002年に設立された国際刑事裁判所へとつながっていった。

(1) ニュルンベルク継続裁判註572-1

ニュルンベルク裁判では、トップレベルの戦争指導者たちが裁かれたが、その後に行われた「継続裁判」では、職業エリート――医師、法律家、経営者、官僚、親衛隊や国防軍幹部など――を対象に、より幅の広い領域での裁判となった。

裁判の法的枠組みはニュルンベルク裁判とほぼ同じだったが、継続裁判はアメリカだけで開催・運営された。継続裁判の被告には、国際軍事法廷の被告と同ランクの元閣僚なども含まれており、{ ニュルンベルク裁判全体の被告数は199名(国際軍事法廷22名、継続裁判177名)であったと考えるのが裁判担当者の間では一般的である。このうち無罪は38名、絞首刑は36名であった。}(若尾・井上「近代ドイツの歴史」,P281―芝健介氏のコラムより)

図表5.22 ニュルンベルグ継続裁判

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*1 「分類」は、A.ヴァインケ「ニュルンベルグ裁判」による。

*2 免訴は、自殺又は重病により訴追を免れた人々

*3 「ミルヒ裁判」の分類はあやふやなので、⑦その他 に分類した。

出典)若尾・井上「近代ドイツの歴史」、P285 A.ヴァインケ「ニュルンベルグ裁判」,P97

(2) 西ドイツ発足と恩赦運動註572-2

西ドイツでニュルンベルク裁判に真っ先に反発したのはキリスト教会(カトリック&プロテスタント)だった。彼らは連合国による制裁を非建設的と批判し、ドイツ人が自発的に反省して贖罪するようにすべきだ、とした。この運動は次第に国民のあいだに広がり、戦犯刑務所に収容されている囚人は「勝者の裁き」の殉教者だ、という雰囲気が社会に醸成されていった。1949年9月に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が成立しアデナウアーが首相に選出されると、全判決の即時修正と全囚人の大赦を求める活動が活発化した。

1950年6月に始まった朝鮮戦争を契機に西ドイツの再軍備が課題となるなかで、アメリカは恩赦委員会を設立、1950年8月には19人を刑期満了を待たずに釈放した。以降も恩赦は続き、1950年代末までにはほとんどすべての囚人が釈放された。

西ドイツはこれで、ナチの犯罪をチャラにしたわけではなく、1958年末に「ナチ犯罪追求センター」を設立して犯罪実行者の捜索、裁判を21世紀に至るまで続けている。

(3) 東ドイツの戦犯裁判註572-3

東ドイツ地域を占領したソ連は、ポツダム協定やニュルンベルク裁判方式に表面的には準拠しつつ、スターリン主義的な経済・社会システムを構築するために利用した。1945年春から占領下にあった5年間に内務人民委員部(NKWD)などが、民間人を大量に逮捕していた。その中で強制労働のためにソ連に連行されなかった者――4万~5万とされている――はソ連の軍事法廷に立たされた。ソ連軍事法廷で有罪判決を受けた無数の人々のなかで、処罰されるべきではない人も多かったと見られるが、その割合はわかっていない。

1949年に東ドイツ(ドイツ民主共和国)が建国されると、ニュルンベルク原則は東ドイツ刑法典に継承され、多くの被告人に有罪判決が言い渡されたが、反体制派に「ファシスト」の烙印を押し、その口を封じるために利用される場合も少なくなかった。

(4) その他の国々の戦犯裁判註572-4

ポーランドでは戦後早い時期に、即決により約5000人前後を処刑し、その後も5000人以上の有罪判決を出した。ほかに、チェコスロヴァキアとハンガリーではあわせて5万人が有罪判決を受け、フランスでも占領期間中のナチ協力者への裁判・処刑が大量に行われ、イスラエル(1948年5月建国)では親衛隊でユダヤ人絶滅政策を実行したアイヒマンを1962年に処刑した。

ドイツではナチ関連の犯罪には時効を設けないことを宣言しており、他の国も含めて現代に至るまでナチの犯罪は追求され続けている。

(5) ニュルンベルクからハーグへ註572-5

ニュルンベルク裁判に対しては、「勝者の裁き」とか「事後法による処罰」といった批判があるものの、戦争法規・慣例に対する「戦争犯罪」のみならず、侵略戦争の計画や実行を処罰対象とした「平和に対する罪」、民間人の殺傷・奴隷化などを対象とする「人道に対する罪」を国際法として認めた上で、国際法の規定のもとに設置された裁判所で裁くことが認知されたことは歴史的成果といってよいであろう。

国際連合は1946年の第1回総会で、国際法委員会(ILC)を設置し、上記の「ニュルンベルク原則」を国際法化する動きを開始した。1948年にはジェノサイド条約(集団殺害の防止及び処罰に関する条約)を採択、欧州人権裁判所の設置などが実現したが、その後はアメリカがこうした動きに消極的になって停滞する。

転機は1990年代前半に起きたユーゴスラヴィア内戦とルワンダ共和国における残虐行為であった。1993年にオランダのハーグに旧ユーゴ国際刑事裁判所、タンザニアのアルーシャにルワンダ国際刑事裁判所が設置され、ニュルンベルク裁判にならって裁判が行われた。これがきっかけとなって、1998年7月に常設の国際刑事裁判所を設立するためのローマ規定が採択され、2002年7月1日、ハーグ国際刑事裁判所が始動した。国際刑事裁判所の断固たる支持者になったのがドイツであったのに対し、アメリカはこうした問題に距離をおき、ローマ規定にも加盟していない。なお、日本は2007年に批准している。


5.7.2項の主要参考文献

5.7.2項の註釈

註572-1 ニュルンベルク継続裁判

A・ヴァインケ「同上」,P94-P97 若尾・井上「近代ドイツの歴史」、P281-P285

註572-2 西ドイツ発足と恩赦運動

A・ヴァインケ「同上」,P162-P179

{ 1960年代初頭から実現したナチ裁判は、社会レベルでのナチの過去との対決につながっていく。その頂点は、1963年から65年にかけてフランクフルト・アム・マインでおこなわれたアウシュヴィッツ裁判である。これにより、ナチの殺害計画に占める絶滅収容所の特別な位置も、初めて公に広く知れ渡るものとなったのである。…
西ドイツにおける刑事訴追は、ナチ犯罪の実行者に対するものがほとんどであり、イデオロギー的な煽動者や諸官庁の共犯者たちへのものは少ない。…}(A. ヴァインケ「同上」、P178-P179)

註572-3 東ドイツの戦犯裁判

A・ヴァインケ「同上」,P179-P183

{ ソ連占領地区におけるスターリン主義的な刑事訴追の特徴は、たいていは拷問によって得られた諜報機関の情報に基づいて、判決が下されていたことである。こうした審理では、基本的に実態の解明や個々人の責任の検討は行われない。さらに、内政での路線闘争の先鋭化にともない、共産主義に基づく占領統治への敵も、ソ連軍事法廷に引きずり出されるようになった。}(A. ヴァインケ「同上」、P182)

註572-4 その他の国々の戦犯裁判

太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P136-P137 A・ヴァインケ「同上」,P190

註572-5 ニュルンベルクからハーグへ

A・ヴァインケ「ニュルンベルク裁判」,P186-P194

{ アメリカは、法による集団的な平和の確保という考えから離反していく。ジョージ・W・ブッシュ政権は、テロネットワークのアル=カーイダによる犯罪行為を司法的に検討する臨時法廷を設立しようという国連の申し出を拒否し、侵略戦争の処罰をいかにして規範化できるかという問題についても、解決に関与しようとはしなかった。
しかし、… 侵略戦争の処罰の規範化こそが、ニュルンベルク裁判におけるアメリカの起訴戦略の中心をなすものだった。さまざまなレベルにおける超大国アメリカの妨害、国連憲章の武力行使禁止を侵害しても依然として刑法的な制裁が欠けていること、これら2つの要素は、ローマ規定の成果を疑わせるものではないが、将来的に重荷としてのしかかるだろう。}(A. ヴァインケ「同上」、P194)