日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.7 ニュルンベルク裁判 / 5.7.1 ニュルンベルク裁判

5.7 ニュルンベルク裁判

5.7.1 ニュルンベルク裁判

ナチス・ドイツの戦争責任と戦争犯罪について連合国が裁いた国際軍事裁判が、ドイツ南部の都市ニュルンベルクで1945年11月から1946年10月まで開かれ、ナチや軍の幹部など24人が起訴されて、うち12人が死刑となった。

(1) 戦犯政策の構想註571-1

米英ソによる戦争犯罪人の処罰については、ポーランドなどドイツに侵略された国々からの要望があり、1942年の秋ごろから検討が始められた。1943年10月に米英ソがモスクワで開催した外相会議の結果、局地的な戦争犯罪については被害国で裁くものの、国家や軍のトップレベルの戦犯については、連合国共同の決定に基づいて処罰することが決められた。この頃、スターリンはテヘラン会議後の酒宴の席で「ドイツの参謀本部員5万人を抹殺してしまえ」と述べ、チャーチルは「主要戦犯は即決で処刑すべし」と考えていたし、ローズヴェルトもそうした方法に反対の姿勢は示さなかった。

検討が本格化したのは、1944年秋以降のアメリカである。ユダヤ系の財務長官モーゲンソーは、「最高級の犯罪者のリストを作成し、裁判抜きで即銃殺せよ」と主張したが、陸軍長官スティムソンは第1次大戦でドイツに無理を押しつけた経験をふまえ、法治国家的な方法すなわち裁判を前提にした構想を陸軍省に勤務する弁護士にまとめさせた。その結果できたバーネイズ案と呼ばれるものでは、侵略戦争のための共同謀議を処罰対象とし、組織への所属のみで可罰性を根拠づけたり、遡及的な刑事立法の禁止(法なくして刑罰なし)という原則を無視するなど大胆な原則を取り込み、ローズヴェルトもこれを支持した。これが、ニュルンベルグ裁判の法的基盤となっていく。

(2) 開廷準備註571-2

ローズヴェルトのあとを継いだトルーマン大統領は、1945年5月2日、戦争犯罪人に対する国際軍事法廷の設置を宣言、翌5月3日に英ソの外相にその構想を説明し、了解を得た。そして、1945年6月26日から8月8日までロンドンで米英仏ソ4か国の代表団が協議し、法廷の具体的な進め方が決定した。協議をリードしたのは、アメリカの元司法長官だったジャクソン首席検察官であった。

ジャクソンは、アメリカの政治的・軍事的な強さと法制度の優越性を自負し、法と正義に基づく国際平和秩序を形成する主体になるべきだと考えていた。それはソ連の反発を招いたが、イギリスのとりなしで前に進めることができた。

場所

裁判を行う場所は、ナチ党が毎年「全国党大会」を開催していた場所というシンボリックな意図とともに、アメリカ占領地区で治安が良好と判断されたニュルンベルクで開催されることになった。

国際軍事裁判所憲章

国際軍事裁判所憲章は、法廷の目的を定義し、訴訟手続きを確立し、個々の訴因を規定したものである。
訴因は、侵略戦争の計画、実行及びそれらの共同謀議を含む「平和に対する罪」、「戦争犯罪」、非戦闘員に対する非人道的な行為に適用される「人道に対する罪」、が挙げられていた。
訴訟手続きは英米法に沿うものになった。

被告人

アメリカはナチの最高幹部に加えて、犯罪的と推定された組織の代表者もすべて起訴すべきと考えており、ロンドンでの4国会議の時点で被告候補は70人を超えていた。これに対してイギリスは司法的解決への懐疑から被告候補として挙げたのは数人であった。
起訴すべきものたちの組織の代表性と起訴の有用性を考慮して、被告人は24名に絞られた。

弁護士

国際軍事法廷は自前の行政機構を持っていなかったため、アメリカの副主席検察官ケンプナーが弁護士の捜索と斡旋に奔走した。弁護士費用は国際軍事法廷が負担した。

判事

判事団は英米仏ソから各2名ずつ、合計8名で構成され、イギリス人が裁判長となった。

(3) 開廷註571-3

1945年11月20日、国際軍事法廷の第1回公判が始まった。起訴された24人のうち3人は自殺その他により出席せず、21人の被告が出席した。彼らは罪状認否で例外なく「起訴状の意味においては無罪」と表明し、審理を通して自分たちの責任や罪を判断しようとすることを拒否した。

法廷には膨大な量の証拠資料が提示され、記録フィルムを編集した「ナチ強制収容所」という記録映画も上映された。こうした証拠を通して、ホロコーストの規模が桁外れに大きいことが明らかになったが、それは判事たちの想像力をはるかに超えるものであった。

1946年8月31日、被告人たちは最後の弁明の機会を与えられた。多くの被告人たちが表明したのは、「自分たちはヒトラーやヒムラーにそそのかされ、利用された犠牲者だった」という、言い逃れであった。

(4) 判決註571-4

218日間にわたっての審理で、5000を超える証拠文書が提示され、240人の証人が聴取された裁判は、1946年9月30日と10月1日に判決が言い渡された。犯罪的な組織とみなされたのは、ゲシュタポ・保安部、親衛隊、ナチ党政治指導者団、の3つで、陸軍参謀本部と国防軍最高司令部は犯罪組織とは判定されなかった。

欠席となったボルマンを含む22人の被告うち、12人に死刑が宣告され、3人は終身刑、4人は10~20年の禁固刑、3人は無罪だった。(下表参照)

図表5.21 ニュルンベルグ裁判の被告と判決

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※訴因 共同謀議: 侵略戦争の共同謀議、平和: 平和に対する罪、戦争犯罪: 通例の戦争犯罪、人道: 人道に対する罪 ●=起訴され有罪 〇=起訴されたが無罪

出典)若尾・井上「近代ドイツの歴史」、P282-P283 A.ヴァインケ「ニュルンベルグ裁判」,P37-P48、Wikipedia「ニュルンベルク裁判」

{ 恩赦の請願と控訴の申請がすべて棄却されたのち、1946年10月15日、8人のジャーナリストと2人のドイツ人裁判所職員、そして数名の医者の眼前で、10人※1の死刑囚が絞首刑に処された。}(A.ヴァインケ「ニュルンベルク裁判」,P83)

※1 死刑判決を受けた12人のうち、次の2人を除く。ゲーリングは死刑執行前に自殺、欠席裁判となったボルマンは、のちに死去していたことが判明。

(5) 評価註571-5

弁護団は「勝者の裁き」という非難をもって裁判の正当性を否認しようとした。実際、連合国側の独ソ不可侵条約やソ連が起こした「カティンの森事件※2」などは裁判の対象外とされた。そのため、国際刑事法を自国の人権侵害に対して適用することを拒絶し続ける大国の態度は、その後の犯罪抑制にほとんど効果を与えなかった。

一方、遡及的な処罰(事後法による処罰)については、人道に対する罪はすでに一般に承認されている戦争犯罪と結びつけられるものであり、侵略戦争の可罰性はハーグ陸戦法規や1928年のパリ不戦条約から導き出されるものだ、としたが、現在でも賛否両論があるようだ。

※2 1939年にソ連がポーランドに侵攻した際、ポーランド軍将校など約15千人を捕虜にし、1940年春にスモレンスク近郊にある「カティンの森」でソ連内務人民委員部(NKVD)が殺害した、とされる事件。(コトバンク〔ブリタニカ国際大百科事典〕)


5.7.1項の主要参考文献

5.7.1項の註釈

註571-1 戦犯政策の構想

A.ヴァインケ「ニュルンベルク裁判」,P8、P17

{ スターリンは、1943年夏からソ連で進行中の世論受けをねらった戦犯裁判をみて、司法的な解決を好むようになり、ナチ指導部に対する国際法廷という考えを支持するようになっていた。}(A. ヴァインケ「同上」、P11)

{ それまで戦後の対ドイツ占領政策についてほとんど考えてこなかったローズヴェルトは1944年7月にモーゲンソー・プランを支持する。しかし、その直後、この機密メモランダムの一部が新聞にリークされてしまう。これが秋に迫った大統領選のマイナス材料となると知ると、ローズヴェルトはモーゲンソー・プランから距離を置くようになった。}(A. ヴァインケ「同上」、P14)

註571-2 開廷準備

A・ヴァインケ「同上」,P20-P56

{ ジャクソンをはじめ、アメリカの政治・司法・メディア各界の裁判支持者たちは、アメリカ合衆国が、その政治的・軍事的な強さと法制度の優越性ゆえに、戦争なき理想の世界国家という人類念願の夢を実現する使命を授かっていると確信していた。…
ジャクソンは早くも2回目の会議でソ連代表団長ニキチェンコと衝突する。ニキチェンコの意見は、裁判の目的はただすべての主要戦争犯罪人に判決を言い渡すことであり、彼らの罪については3巨頭がすでにモスクワやヤルタの声明で確定しているというものだった。…
1945年8月1日、… 最後の米英ソ3巨頭会談が行われた時、国際軍事法廷の運命はまだどちらに転ぶかわからなかった。計画全体の救済者となったのはイギリスだった。
英外務省のイニシアティブにより、トルーマン、アトリー、スターリンは、可及的速やかに主要戦争犯罪人を国際軍事法廷にかけるという共同の意志を再び確認するコミュニケに署名する。加えてスターリンの圧力で、9月1日までに被告人の第一リストを作成することが定められた。これにより、… ロンドンのチャーチ・ハウスにいた【国際軍事法廷の】各代表団の法律家たちは、迅速に合意に達する必要に迫られた。}(A. ヴァインケ「同上」、P26-P27)

註571-3 開廷

A・ヴァインケ「同上」,P57-P58,P64-P79

註571-4 判決

A・ヴァインケ「同上」,P80-P86

註571-5 評価

A・ヴァインケ「同上」,P86-P88

{ 米陸軍長官スティムソンは、1945年春に連合国が抱えたジレンマを次のように明確に述べている。
われわれがナチスを拘留したとき、われわれには3つの可能性が開かれていた。釈放するか、即決処罰するか、裁判手続きをおこなうかである。捕虜の釈放は論外だった。というのも、犯罪がおこなわれなかったと理解されてしまう恐れが間違いなくあったからである。
即決処罰は多方面から推奨された。なぜなら、感情的な欲求が短期間で満たされるからである。… しかし、ナチの方法を用いたならば、戦勝国の道徳的な立場は損なわれてしまうだろう。それゆえ、われわれは第3の道を決断し、捕えた犯罪者たちを法廷で裁くことにした。これにより、われわれは彼らに、彼らが彼らの敵に拒否したものを認めてやるのだ――つまり法の保護というものを。}(A. ヴァインケ「同上」、P88)