日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.6 ホロコースト / 5.6.2 絶滅政策の実行

5.6.2 絶滅政策の実行

戦争の進展とともに、ユダヤ人の移送構想は頓挫し、ヒトラーは絶滅政策への転換を決意した。多数のユダヤ人を効率よく殺害するための方法として、障害者などの安楽死で用いられていたガス室を利用することになり、ユダヤ人が多数いたポーランドに絶滅収容所が建設された。有名なアウシュビッツなど6か所の絶滅収容所で殺害されたユダヤ人は300万人近くにのぼった。

ホロコースト記念碑

「ホロコースト記念碑」(ベルリン市内)(筆者撮影)

(1) 大量殺戮方法の開発註562-1

大量のユダヤ人を効率よく殺害するための方法としてガス室を使う方法が考案された。ガス室は、障害者などを安楽死させるための方法として、1939年11月末までに一酸化炭素を使う固定式ガス室が開発され、トラックの荷台部分を密封構造にした移動式のものも評価された。

1941年9月3日、ドイツの総合化学企業IG.ファルベンが開発した殺虫剤ツィクロンBを使った実験が、アウシュヴィッツ強制収容所で行われ、ソ連人やポーランド人の捕虜600名が実験台となった。これ以降、ガス室による大量殺戮を前提にした強制収容所が次々と建設されていった。

(2) ヴァンゼー会議註562-2

1941年夏の時点でユダヤ人をどう「処理」するかについての統一的指針はなく、地元の保安要員や親衛隊の判断で虐殺を行なったりしていた。

親衛隊ナンバー2で国家保安本部(RSHA)の長官だったラインハルト・ハイドリヒは、部下のアイヒマンに命じて「ユダヤ人対策」の骨子をまとめ、1941年7月31日、ヒトラーの後継者とされていたベーリングの了承を得た。ここで策定された対策は、「移住もしくは疎開によって、ユダヤ人問題の解決をはかる」というものであったが、およそ1か月後、アイヒマンは「ヒトラー総統が親衛隊全国指導者のヒムラ―に対して、ユダヤ人の物理的絶滅を推進するよう指示された」、と告げられた。ナチ党上級幹部は政策推進のためにヒトラーの名前を使う傾向があったが、この問題についてはヒトラー自身が判断した可能性が高い。

ハイドリヒは、1941年11月29日、RSHA幹部と関係諸機関のあいだで認識を共有するための会議を企画し、関係者に招請状を送った。会議は最初、12月9日開催が予定されていたが、日本の真珠湾攻撃などで遅れ、1942年1月20日に開かれた。場所はベルリン南西郊外のヴァンゼーだった。

会議では、「地理的解決」が不可能になったことを確認し、今後のユダヤ人絶滅対策の細目を調整・協議した。対象となるのは、ヨーロッパ全域にいるユダヤ人約1100万人であった。この会議以降、ホロコーストは一気に加速していく。

(3) 絶滅収容所の建設註562-3

1941年秋から絶滅(大量殺害)を行なうための施設「絶滅収容所」が建設された。絶滅収容所は6か所あり、いずれも現在のポーランド領内で、ヘウムノ(ポーランド西部)、アウシュヴィッツ(同西南部)、以外の4か所は当時ユダヤ人を集積していた「ポーランド総督府」(同東部…5.3.1項(7)参照)に設置された。

絶滅収容所は主として1942年から43年にかけて稼働し、そのあいだに6か所合計で300万人近い人々が殺害された。

図表5.20 絶滅収容所別の犠牲者数(単位:千人)

絶滅収容所別の犠牲者数

出典)石田「ヒトラーとナチ・ドイツ」,P327-P336、ビーヴァー「第2次世界大戦(中巻)」,P503-P523
※ 犠牲者数はユダヤ人のみだが、ユダヤ人以外が混ざっている場合もある。

最大の規模を誇ったのが、アウシュヴィッツ絶滅収容所である。アウシュヴィッツは現在のポーランド西南部、チェコとスロヴァキアの国境に近いところにある。すぐ近くにあるビルケナウ収容所とあわせてアウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅収容所と呼ばれる。1940年夏、ポーランド人政治犯を収容するための施設が設置され、ポーランドの政治家、大学教授、ジャーナリスト、神父などをここで殺害した。41年春に化学企業のIG・ファルベンや重工業のクルップ、電機のジーメンスの工場が近くに建設され、収容者を労働力として利用するようになった。1942年になるとガス室を使った虐殺が始まったが、労働可能な者は工場労働へ、そうでない者はガス室へと振り分けられるようになった。

(4) トレブリンカ絶滅収容所註562-4

トレブリンカ絶滅収容所はワルシャワの北東にあり、1942年7月から1943年8月の間にユダヤ人など約80万人を虐殺し、最も「効率のよい」収容所といわれている。以下は、ソ連の特派員ヴァシリー・グロースマンが1944年夏に行った収容所の看守や生存者からのヒアリングを含む実地調査に基づくレポートをもとに、A.ビーヴァー氏がまとめたものを要約したものである。

トレブリンカの管理スタッフは親衛隊員が25人、ウクライナ人の補助員が100人程度だけだった。作業を円滑化するために重要なのは、秘密厳守と詐術だった。人々は、「諸君はこれからウクライナに運ばれ、そこで農作業にあたってもらう」と事前に告げられていた。

トレブリンカへと分岐する引き込み線は、本物の旅客駅のように切符売り場や、手荷物一時預かり所、食堂まで揃い、列車が到着すると楽団が演奏を行った。しかし、よく見ると変だぞと気がつく。やたら壁が高い、鉄道線路の向こうには何もない…、たまにこうした異常を察知して、逃げ出す者もいたが、すぐに機関銃がかれらをなぎ倒した。

仕分け

列車から降りた3~4000人の人々は、貴重品、文書類、シャワールームで必要な入浴用品以外の手荷物はすべて広場に置いていけ、と命じられ、不安を募らせるようになる。しかも、案内する看守たちは、武装しており、ゲートの両脇の壁は高さが6m以上もあって上部には鉄条網が張られ、ところどころに機関銃座もあった。

収容所の中心付近にある2番目の広場まで進んでいくと、老人と病人は「サナトリウム」と書かれた出口に誘導された。残った群衆のうち、女性とこどもは左の建物にむかい、そこで服を脱ぐようにと言われた。どの家族もこれが今生の別れになるのではと恐怖に駆られ、一斉に泣き出すのだった。親衛隊員は威圧の度合いを強め、「男はこの場に留まれ! 女子供は左の建物へ行き、服を脱ぐんだ!」と大声で怒鳴る。

ただ、手続きが済めば元通りになるから、という口添えも忘れない。建物に入ると、女性たちは衣服を脱ぎ、そのあと大きなハサミで髪の毛を切られた※1。シラミ対策だと言われた。親衛隊の別の下士官が仕切る小部屋では、裸のまま、書類や現金、宝石、時計を差し出さなければならなかった。(筆者註; ビーヴァー氏は明記していないが、ここで男性も同様に裸にされ、下記のようにガス室への道を歩かされたと思われる。)

※1 頭髪はウールより保温性が高いと考えられていたため、ドイツ空軍の航空機搭乗員やUボート乗員がはく靴下に加工されたりもしたが、大半はマットレスの詰め物に用いられた。(ビーヴァー「同上(中巻)」、P514-P515)

ガス室へ

自分たちはもうじき死ぬのだ――。犠牲者たちがそう思った瞬間、灰色の制服の親衛隊員と黒服の見張りたちがこれまで以上の大声で、「シュネラー(速足進め)!」と急かし、前へ前へと進ませた。背後にある鉄条網を隠すために植えられたモミの木のあいだを抜けていく小径へと、家畜の群れのように追い立てていく。警棒と鞭、軽機関銃の発砲音に脅されて、かれらは前に進むしかない。一面に砂が蒔かれたそのルートをドイツ人たちは「不帰(かえらず)の道」と呼んでいた。

そのまま3番目の広場まで追い立てられた犠牲者の前に、石と木でできた聖堂のような建物が出現した。背後にあるガス室を隠すための大道具だった。

最後の仕上げ、囚人たちをガス室に追い込むため、看守たちがイヌを放った。イヌたちが囚人たちに牙を立てると大きな悲鳴があがった。自分たちに死が迫っていることは否応なくわかった。
10部屋あるガス室の重い扉が閉じられると、あとは沈黙だけが支配した。

死体処理

すし詰めのガス室で、犠牲者たちは20~25分で息を引き取った。ガラスの嵌まったのぞき穴から看守長が検分し、頃合いを見計らって、裏の扉が開けられると、作業班が黄色く変色した死体の片付けに着手する。まだ息のあるものがいた場合は、親衛隊の下士官が自分の拳銃でとどめをさした。それが終ると、ユダヤ人の囚人からなる別の一団がやってきてペンチで金歯の被せものをはがしていく。最後に、別のユダヤ人作業班が死体を荷車や手押し車に載せ、集団墓地へと運んでいった。こうした作業を担当したユダヤ人たちは、殺されたユダヤ人より、わずかだけ長生きできた。

老人と病人

「サナトリウム」行きに分類された老人と病人は、後頭部に拳銃を撃ち込まれて終りだった。

(5) ヒトラーの予言者演説註562-5

これまで(5.6.1項(5)など)述べてきたように、ナチ・ドイツはユダヤ人を最初から虐殺するつもりはなく、国外追放が失敗したあと、ヒトラーの判断がきっかけとなって絶滅政策に転換していった。ヒトラーの判断の原点ともいうべき演説が、1939年1月30日にドイツ国会で行った「予言者演説」と呼ばれるものである。(以下の演説内容は石田勇治氏の著書からの引用である。)

「もしヨーロッパ内外の国際ユダヤ金融資本が、諸民族を再び世界戦争に突き落とすことに成功するようなことがあれば、その結末は世界のボリシェヴィキ化、つまりユダヤ人の勝利ではなく、ヨーロッパのユダヤ人種の絶滅となるだろう」

ヒトラー特有の言葉づかいをわかりやすく言い換えれば次のようになる。

「もしイギリスやアメリカなど欧米列強が世界のユダヤ人にそそのかされて、第1次世界大戦のときのように我々に戦争を仕かけるようなことがあれば、我々はユダヤ人の勝利、つまり彼らが望む世界の共産化を阻むだけでなく、ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させるだろう」

ヒトラーはその後、この演説を何度もとりあげて、「ユダヤの楽園」であるアメリカに警告し参戦を牽制した。にもかかわらずアメリカは、イギリスとソ連を支援してドイツを世界戦争に引きずり込んだ。ヨーロッパのユダヤ人がその報復として罰を受けるのは当然だ。おぞましい荒唐無稽な論理であるが、これがヒトラーの主張だった。

こうしてヒトラーはユダヤ人撲滅を決断したが、彼自身は大量殺戮の具体的なことについては聞きたがらなかった。ホロコーストに限らず、残虐行為を平気で遂行させた張本人が、戦場の悲惨さの実態を知ることには強い忌避感があった。

{ 暴力にからむものは総じて抽象的レベルにとどめておきたいと願うヒトラーの心性は、歴史上その右に出る者がほとんどないほどの暴力をもたらした当事者としては、なんとも度し難く、まさに矛盾の極みであった。}(ビーヴァー「第2次世界大戦(中巻)」,P63)


5.6.2項の主要参考文献

5.6.2項の註釈

註562-1 大量殺戮方法の開発

ビーヴァー「第2次世界大戦(上巻)」,P437、P440 大木「独ソ戦」,P109

註562-2 ヴァンゼー会議

ビーヴァー「同上(中巻)」,P60、P65 石田「同上」,P326

{ かなりの時間を割いて、いわゆるミッシュリング(雑種)――ユダヤ人の血を何分の1か受け継いでいるものたち――、ならびにアーリア人と現に婚姻しているユダヤ人という両グループをどう扱うべきかという極めて複雑な問題が議論された。… 参加者たちはそれぞれの課題を達成するため、どのような手法が可能かをめぐって議論を重ねた。そうしたやりとりの記録について、議事録は終始一貫「疎開」とか「再定住」といった婉曲語法をつかった。
「地理的解決」にまつわる手法はどのような形態のものも、もはや実現不可能になったという点で、出席者の見方は完全に一致した。モスクワの戦いのあと、ユダヤ人を送り込み、そこで飢えるに任せて放置できるような適地は存在しなくなった。唯一確実な解決策は、工業的手法による処理しかないように思われた。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P64-P65)

註562-3 絶滅収容所の建設

石田「同上」,P327-P336 ビーヴァー「同上(中巻)」,P504-P523

註562-4 トレブリンカ絶滅収容所

ビーヴァー「同上(中巻)」,P515-P520

註562-5 ヒトラーの予言者演説

石田「同上」,P324-P325 ビーヴァー「同上(中巻)」,P62-P63

{ 1941年12月11日には、ヒトラー総統自身がドイツ国会でアメリカに対する宣戦布告をおこない、さらに、翌日、ナチ党の幹部を総統官邸に招集し会議を開く … 同会議の席上、ヒトラーは1939年1月30日に自らおこなった予言について改めて言及し、もし仮に世界大戦が起こるとすれば、「この血まみれの抗争の扇動者たちは、みずからの命で、その結果を贖わなければならない」と強調した。… 問題の「最終的解決」をめぐって取り返しのつかない決断を行なったのは当のヒトラーなのだが、本人にはその自覚がまったく欠けていた。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P62-P63)