日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.6 ホロコースト / 5.6.1 ホロコーストの始まり

5.6 ホロコースト

ホロコースト(英: Holocaust)は、ナチ・ドイツによるユダヤ人大虐殺を表す言葉である。正確な犠牲者数は分っていないが、ナチ時代に虐殺されたユダヤ人は少なくとも560万人に上ると推計されている註561-1。この節では、なぜそのような大虐殺が起きたのか、それはどのように行われたのか、について述べる。

図表5.19 ホロコースト

Efg519.webp を表示できません。Webpに対応したブラウザをご使用ください。

5.6.1 ホロコーストのはじまり

ユダヤ人を排斥する人種主義はナチ党の基盤思想であり、政権獲得以来、関連する施策を進めていた。第2次世界大戦が始まると、ユダヤ人をまとめて移住させようという計画も検討されたが実現に至らず、ユダヤ人と関連が深いと信じていたボリシェヴィズム(ソ連の共産主義)と戦い、ドイツ人の生空間を確保しようとする独ソ戦が始まると、大量虐殺がはじまった。

(1) ホロコーストの思想的背景註561-2

石田勇治氏は、ホロコーストを引き起こした思想的背景には以下の3点があったという。

極端なレイシズム(人種主義)

レイシズムとは、人間を生物学的特徴や遺伝学的特性によって、複数の種に区分けし、それら種の間に生来的な優劣の差があるとする考え方である。レイシズムは欧州列強の海外進出と歩調をあわせて生成され、19世紀後半から20世紀にかけて発展した排除と統合の思考原理である。この思想は、自己とは異なる文化的・宗教的背景や身体的特徴を持つ異質な民族集団に対して、自己中心的な尺度で見下す態度を裏付ける思想となった。

ドイツの優生思想=人種衛生学

ドイツの優生学はアルフレート・プレッツ(1860生-1940没)らを中心に「人種衛生学」という名称で成立した。プレッツは、外見上は区別のつかない常習犯罪者や精神障害者を劣等遺伝子の保有者、あるいは突然変異とみなし、劣等遺伝子を増やさないよう、国家による断種政策の断行を求めた。

人種的反ユダヤ主義

ヨーロッパでユダヤ教を信じる人たちはユダヤ人と呼ばれ、長い間キリスト教徒から迫害と差別を受けてきたが、18世紀の啓蒙思想の普及にともない、ユダヤ人への差別を撤廃する動きが出てきた。ドイツでもユダヤ人の解放が進み、ドイツ帝国の成立(1871年)ととも法的平等が実現した。自由を得たユダヤ人のなかには、デパートや工場の経営で成功を収める者も多く、それがキリスト教徒の反感を買うようになっていた。

この頃、ユダヤ人とは宗派集団ではなく人種だ、ユダヤ教から改宗してもユダヤ人はユダヤ人だ、と主張する人々が出てきた。ヒトラーはこのユダヤ人=人種論を信じ、さらにロシア革命はユダヤ人が牛耳って起こしたものだとして、反ユダヤ主義と反ボリシェヴィズムを結びつけた。

(2) 反ユダヤ立法註561-3

ナチ政権は次の2つの反ユダヤ法を制定し、ユダヤ人を迫害した。

・職業官吏再建法(1933年4月7日制定); 政治的に「信用のおけない者」と並んで、非アーリア人、つまりユダヤ人を公職から追放した。政府が掲げる目標とそれに向けての職務に献身するのは官吏の当然の務めとされ、すべての官吏はヒトラーに忠誠を誓った。やがて民間企業も同じ原則を適用したため、ユダヤ人はほとんどの企業から追い出された。

・ニュルンベルグ人種法(1935年9月制定); これは2つの法から成り、一つはユダヤ人から公民権を剥奪する「ドイツ国公民法」、もう一つはユダヤ人と非ユダヤ人との婚姻・性交を禁止した「ドイツ人の血と名誉を守る法」である。

なお、これらの法でいう「ユダヤ人」を人種的観点から決めることはできず、ユダヤ教徒かどうかで決められるという論理矛盾をはらむ定義となった。

(3) 共同体異分子の排除註561-4

親衛隊はユダヤ人以外にも、流浪の民ロマ(ジプシー)、「エホバの証人」の信者、犯罪常習者、同性愛者、精神薄弱や身体的障害を持つ者、労働忌避者など、民族共同体の発展に支障をきたすとみなした異分子を隔離し、生きる価値がないと判断した者は、安楽死させるようになった。最初に安楽死が実行されたのは、1935年7月25日で、はじめは銃殺だったが、まもなくガス室が使用されるようになった。こうした安楽死政策による犠牲者数は、ドイツ国内だけで終戦までに216千人にのぼると見積もられている。

{ ナチの安楽死計画は、(ユダヤ人撲滅の)「最終的解決」の予行演習という意味合いのほかに、人種的、遺伝的に純血な社会を実現するというナチ的理想をかなえるひとつの基盤でもあった。}(ビーヴァー「第2次世界大戦(上巻)」,P438)

(4) きっかけは独ソ戦註561-5

1941年6月に始まった独ソ戦をきっかけに、ホロコーストは本格的に行われるようになった。その理由は3つある。

第1に、ボリシェヴィズムをユダヤ人と同一視するヒトラーにとって、対ソ戦は通常の戦争ではなく、相手を絶滅対象とする人種戦争であった。

第2に、この戦争はヨーロッパ・ロシア平原にドイツ民族が生きる空間(生空間=レーベン・スラウム)を確保するためのものであり、そこにユダヤ人が存在してはならなかった。

第3に、軍が攻略した地域に入って治安対策を担っていた親衛隊が、殺害するのは指導的立場にあるユダヤ人だけ、という当初の命令を無視して、女性やこどもを含むすべてのユダヤ人を殺害し始めた。

ソ連領内に進軍したドイツ兵たちは、ソ連のNKVD(内務人民委員部…のちのKGB)による捕虜の大量虐殺や、集団農場の原始的な衣食住を見るに至り、それまでゲッペルス宣伝相から叩き込まれてきたソ連に対する偏見が心に刻みこまれていった。

(5) ホロコーストに至る道註561-6

ナチ政権は最初からガス室で多数の人々を一挙に殺害しようと考えたわけではなかった。1939年9月までは、社会的な冷遇や侮辱、財産の没収などにより、ドイツ、オーストリア、チェコなどにいたユダヤ人を他地域に移民させる方法だった。

しかし、ポーランドに侵攻したことにより170万人ものユダヤ人を抱え込むことになり、移民政策は困難になった。そこで、下記のように別の場所に大量に移送する案が出てきたが、それが遅々として進まぬまま、機関銃などを使って大量に虐殺する方法が採用された。ホロコーストに至る道を2段階に分け、第1段階を「銃弾によるショア(大量虐殺)」、第2段階を「ガスによるショア」と呼ぶこともある。

(6) 移送計画註561-7

移送先の候補として最初にあげられたのはマダガスカル島(当時はフランスの植民地)だった。1940年5月、親衛隊全国指導者ヒムラーは、「東方の異邦人の取り扱いに関する若干の考察」と題する文書をヒトラーに提示し、「アフリカその他の植民地に大規模移住させる」ことによりユダヤ人の一掃をはかる」と述べている。この時点でユダヤ人を「物理的に絶滅させる」ことは「非ドイツ的で不可能」と考えていたのである。マダガスカル島移住案は、制海権をイギリスに握られている状態で実現の目途はたたず、保留とされた。

次に候補とされたのはソ連東部だった。1941年春、ソ連侵攻の「バルバロッサ作戦」構想が本格化すると、この作戦が成功した暁には、スラヴ人だけでなくユダヤ人も丸ごと、ソ連深奥部に押し込めてしまうという案が有力視されるようになった。

(7) ホロコースト開始註561-8

1941年6月22日、ドイツ軍がソ連領内に侵入するとすぐに、ユダヤ人成人男性に対する大量殺戮が始まった。殺戮を行なったのはリトアニア人とウクライナ人の反ユダヤ主義者たちで、リトアニア中部のカウナスで3.8千人、ウクライナ西部で24千人のユダヤ人が殺された。ドイツ側は、これをソ連軍が撤退前に行った大量虐殺に対する仇討ちだ、とする考え方を広めていった。

{ 親衛隊特別行動部隊と警察大隊もユダヤ人を駆り立て、射殺するようになった。その数は数百、時に数千人に達した。犠牲者たちはみずからの埋葬場所を自分で準備しなければならなかった。地面にすばやく穴を掘れない者は、その場で撃たれた。その後、かれらは全裸になるよう強制された。そうすれば、脱いだ服をその後再利用できるし、服のなかに貴重品や現金を隠し持っている者もいたからだ。
ユダヤ人は堀った穴のふちに跪くように言われた。しかるのち、後頭部を一発撃たれた。こうすれば、重力により自然と前方に転げ落ちるのだ。別の方法を考案した親衛隊や警察部隊もあった。大きな塹壕の底にユダヤ人を一直線に寝かせ軽機関銃でまとめて撃ったほうが作業が整然と進むというわけだ。一列分が終ったら、その死体の上に、頭とつま先をくっつけて、きちんと詰めて横たわれと命令し、次の一列にまた銃弾を浴びせる。イワシの缶詰を連想させることから、このやり方は「サーディン方式」と呼ばれた。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P430)


5.6.1項の主要参考文献

5.6.1項の註釈

註561-1 ホロコーストとは…

{ ホロコーストは、ナチ・ドイツによるユダヤ人大虐殺を表す言葉である。もともとは火事や惨事を意味する普通名詞として英語圏で使われていたが、1978年に女優メリル・ストリープが主演をつとめた9時間半のテレビ・ドラマ「ホロコースト」が全米で反響を呼び、西ドイツでも好評を博したことから、この言葉が右記の意味で人口に膾炙し、今では世界中で使われるようになった。ただこの言葉には旧約聖書の「神への供物」の含意があることから、イスラエルでは好まれず、ヘブライ語で破局、破滅を意味する「ショアー」が用いられている。
ナチ時代、ドイツが殺害したユダヤ人は、ヨーロッパ全体で少なくとも約559万6000人にのぼる。}(石田「ヒトラーとナチ・ドイツ」,P254)

註561-2 ホロコーストの思想的背景

石田「同上」,P256-P268

{ ユダヤ人は多様な集団だ。ドイツ、フランス、スイスのような西欧のユダヤ人には、それほど戒律を厳格に守らない改革派が多かったが、ロシア、東欧では伝統的な生活様式、戒律を厳格に守る正統派が多数を占めた。後者は「東方ユダヤ人」とも呼ばれ、その大半がロシア西部の黒海からバルト海にいたる地域に住んでいた。…
ドイツでは、第1次大戦の敗戦で帝政が崩壊すると、ユダヤ人は左翼運動家とともに敗北の責任を負わされ、共和国が発足すると、新憲法のもとで過度に優遇され、不当な利益を得ているとして右翼の攻撃の的となった。
ちょうどこの頃、ロシア革命の勃発と帝政ロシアの崩壊で混乱する東ヨーロッパから、貧しい東方ユダヤ人がドイツに数多く移り住んできた。そのためにベルリンではユダヤ人口が急増し、再びユダヤ人街が生まれるなど、社会的緊張が高まった。
ドイツに住むユダヤ人はヒトラー政権が誕生した1933年の時点で約503千人(人口比0.76%)であった。}(石田「同上」,P264-P266,P255<要約>)

註561-3 反ユダヤ立法

石田「同上」,P269-P277

註561-4 共同体異分子の排除

石田「同上」,P255-P256,P300、P308 ビーヴァー「第2次世界大戦(上巻)」,P436-P437

{ 障害児の安楽死は、ドイツ本国でも行われた。親たちには「障害をかかえたおたくのお子さん(単なる学習障害の子もいた)を別の施設に転院させませんか、そうすればもっとよい治療が受けられますよ」と。そして後日、親たちは告げられた。「残念ながらお子さんは肺炎で亡くなりました」と。ドイツ人の成人・児童およそ7万人が、1941年8月までにガス室で殺された。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P437)

註561-5 きっかけは独ソ戦

石田「同上」,P319-P320 ビーヴァー「同上(上巻)」,P418

{ 独ソ開戦後半年で50万人以上のユダヤ人が殺された。この残虐きわまりない蛮行が事実上のホロコーストのはじまりとなった。}(石田「同上」、P320)

{ 大半とまでは言わないまでも、多くのドイツ人は、自国の東方に暮らすスラヴ系民族に対し、先祖伝来の禍々しい記憶をかかえていた。… ナチの宣伝工作は、ドイツの秩序と、ボリシェヴィキの無秩序やかれらの不潔さ、神の否定などを殊更に対比させ、そうした文化的特質が衝突を生んでいるのだと強調した。}(ビーヴァー「同上(上巻)」、P419)

註561-6 ホロコーストに至る道

石田「同上」,P319-P320 ビーヴァー「同上(上巻)」,P418

{ ホロコーストに至る道は、実際には2段階に分かれていた。ヴァシリー・グロースマンはのちにそれを「銃弾によるショア(大量虐殺)」と「ガスによるショア」と呼んでいる。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P425)

註561-7 移送計画

ビーヴァー「同上(上巻)」,P425-P427 石田「同上」,P317-P319

{ ナチ党の幹部は、より喫緊の課題、特に「占領地の平定」問題に神経を集中させていた。ヒトラーの考える平定という概念はきわめて明瞭だった。… われわれに睨まれて「つい視線を逸らすような輩はすべて射殺してしまうのだ。それが最善の策だ」というわけで、軍の規律維持が絶対要件である場合を除いて、民間人相手に犯罪を犯しても、兵の罪は問われなくなった。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P427)

註561-8 独ソ戦でホロコースト開始

ビーヴァー「同上(上巻)」,P429-P430