日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.5 第2次世界大戦_終戦へ / 5.5.6 ベルリン陥落

5.5.6 ベルリン陥落

ドイツの首都ベルリンの占拠はこの戦争の勝利の象徴でもあり、スターリンはそれに大いにこだわったが、アメリカ軍は重要視せず、ソ連軍にまかせた。ソ連軍は多大な犠牲を出した末ベルリンに入城、4月30日ヒトラーは自決して5年半におよんだ戦争は終結した。

図表5.15(再掲) 第2次世界大戦_終戦へ

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(1) 米英連合軍、進軍中断註556-1

ライン川を渡ってまもない3月30日、アイゼンハワー最高司令官は、「ベルリンには向かわず、ドイツ中部・南部に向かう」という命令を出し、同じ内容の電報をスターリン宛てに打った。アイゼンハワーはこの方針決定をイギリス側に何の相談もなく行っており、チャーチルはじめイギリス軍幹部は激怒した。

イギリスからの突き上げを受けてアイゼンハワーは動揺し、4月8日、ハノーファーを確保したアメリカのある師団長にベルリンへの進撃を許可した。その師団はエルベ川を渡りベルリンに迫ったが、1週間後の4月15日、アイゼンハワーはまたまた気が変って進撃を中止させた。なお、4月12日にローズヴェルトが死去しており、それもアイゼンハワーの判断に影響した可能性がある。

首都ベルリンへの一番乗りは、市街戦で大量の人的損耗を強いられるにもかかわらず、戦後分割占領することが決まっており、実より名の方が大きかった。自国将兵の犠牲をできるだけ少なくしたいアメリカとしては、一番乗りに拘る理由はあまりなかった。さらに、この時点でベルリンを目指せば、一番乗りを目指すソ連軍から攻撃される可能性すらあったのである。

なお、ベルリン市内に突入したソ連軍の人的損耗は352,425人、うち3分の1近くが戦死している。

(2) ソ連軍、ベルリンを攻撃註556-2

スターリンがベルリン一番乗りにこだわる最大の理由は、祖国に大きな惨禍をもたらした「ファシストの巣窟」に勝利のシンボルとしてソ連の国旗をひるがえすことであった。加えて、スターリンはアメリカが開発していた原爆をドイツでも開発していることをスパイを通じて把握しており、技術情報やウランなどを入手しようとした。

すでにベルリンの東を流れるオーデル川を渡っていたソ連軍は4月16日、市内に向けて進撃を開始した。兵力250万人、戦車6300両の大部隊が、初日だけでも100万発を越える砲弾を撃ち込んだ。スターリンはジューコフ元帥とコーネフ元帥の先陣争いを煽り、無理な攻撃のために多数の無用な犠牲者を出したが、4月21日、ベルリンのほぼ全周をソ連軍は包囲した。

「南京事件」の安全区国際委員長だったジョン・ラーベは、このときベルリン北西端に住んでいたが、日記に次のように記している。

{ ロシア兵は「きわめて愛想がいい――いまのところは」、「われわれを悩ますこともなく、若干の食料さえ提供してくれるが、アルコールにかんしてはいかなるものにも目がなく、いったん鯨飲したあとは予測がつかない」。ラーベもほどなく、近所で起きた事件を記述するようになる。「ある17歳の少女は、5回強姦されたのち、射殺された。… 防空壕にいた女性たちは、夫の目の前で強姦された」}(ビーヴァー「第2次世界大戦(下巻)」,P433-P434)

ソ連軍の暴行を恐れた市民のなかには、娘ともども一家全員が自決したり、自決用の拳銃を娘や妻に渡す父親もいた。また、ベルリンから少し離れた小都市デミーンでは700~1000人の市民が集団自決している。
4月27日、ソ連軍はベルリン中心部のラントヴェーア運河を突破し、官庁街に侵入を開始した。

(3) ナチス体制の崩壊註556-3

4月20日は、ヒトラーの56歳の誕生日だった。総統官邸には、ゲッペルス宣伝相、ヒムラー親衛隊全国指導者、リッペントロップ外相、デーニッツ海軍元帥などが集まっていた。総統とともにベルリンに留まる意思を示したのはゲッペルスのみで、あとはそれぞれもっともらしい理由をつけてベルリンを去っていった。

4月22日の戦況会議の席上、ヒトラーは腹を立て、絶叫し、最後は椅子に崩れ落ちて涙を流し、この戦争は負けだ、と初めて口にした。ヒトラーは、首都ベルリンに暮らす市民たちは自分と自決を分かち合うべきだ、と感じていた。

わずかに残ったドイツ軍とともに抵抗を続けたのは、市民から募集した国民突撃隊やヒトラー・ユーゲントの団員、武装親衛隊などだった。彼らはバリケードやビルの屋根や窓から、ソ連軍の戦車を攻撃したが、時間稼ぎにしかならなかった。ベルリンでは、白旗がわりにシーツや枕カバーを掲げる家が増えていった。

ヒムラーが連合国と降伏交渉を試みつつあると、スウェーデンのラジオ放送が伝え、ゲーリングからは、「帝国指導の全権」を引き受けたい、との提案があるなど、ヒトラーから離反する動きは強まっていた。

(4) ヒトラー自決註556-4

4月28日、ヒトラーは愛人のエヴァ・ブラウンと結婚式をあげた。

4月29日、遺言の口述を行なった。ヒトラーはまず、自分は断じて戦争を望まなかったが、国際ユダヤ集団が戦争に追い込んだのだ、と述べ、次いで、自分の後継者として、デーニッツ海軍元帥を指名した。

4月30日午後3時頃、ヒトラーは側近たちに別れを告げ、エヴァと二人で居間に引き上げた。午後3時15分、従者らが居間に入ると、ヒトラーは拳銃で頭を撃ち抜いており、エヴァもシアン化合物をあおっていた。2人の遺体は毛布にくるまれて総統官邸の庭に運ばれ、ガソリンによって火葬に付された。ゲッペルスなど側近は、背筋を伸ばし、ナチ式の敬礼で総統閣下を見送った。

ヒトラーが自決する2日前、4月28日にムッソリーニは、パルチザンによって処刑され逆さ吊りにして晒しものにされた、という情報が届いていたのである。

ヒトラー自決の知らせを聞いたスターリンは、「生け捕りにできなかったのは残念だが… で、死体はどうした?」と言った。スターリンはヒトラーの死体を探し出すよう指示、5月5日にようやく発見され、厳重な秘密保持のもとモスクワに運ばれた。遺骨の一部は現在もモスクワに保管されているという。

ヒトラーが自決した日の夜、ゲッペルス夫妻は6人の子供に毒薬をのませた後、夫婦いっしょにシアン化合物を飲んで自決した。

(5) ドイツ降伏註556-5

ヒトラーの死が伝わると、個別に降伏する部隊も現れたが、デーニッツ新総統はソ連軍の報復を恐れ、できるだけ多くの部隊を米英連合軍に降伏させたかった。

5月4日、ドイツ海軍とオランダ、デンマーク、ドイツ北西部の陸軍部隊が、イギリスのモントゴメリ―司令部に投降を伝えてきた。モントゴメリー司令官は、ドイツ軍全体の無条件降伏を行なわせるため、このドイツ軍代表団を連合国派遣軍最高司令部が置かれているフランス北東部のランスに送った。ドイツ側は米英など西方列強のみとの交渉を望んだが、スターリンを刺激することを避けるためにソ連の代表も加えることになった。

5月6日、ドイツ代表との交渉が行われ、5月7日に降伏文書に署名、5月9日午前0時1分に発効することが決定した。できるだけ多くのドイツ軍を西側に移動する時間を確保したのである。

スターリンは調印式を5月9日にすべき、と主張し、結局、5月7日深夜と8日深夜(9日未明)の2回調印式が行われることになった。現在でも第2次大戦の戦勝記念日は、西側諸国が5月8日としているのに対してソ連が5月9日としているのは、ここに由来する。

(6) ポツダム会談註556-6

1945年7月17日からベルリン近郊のポツダムで始まった米英ソの首脳会談では、ドイツ分割占領の方針や賠償問題が決定され、対日無条件降伏を宣言した。

なお、会談が始まる前日にはトルーマン大統領のもとに原爆の実験が成功したという連絡が届いていた。また、会談の途中でイギリスの総選挙があり、チャーチルの保守党が敗れて、労働党のアトリーが新首相となった。

この会談を通じて、スターリンは戦前の領土復活どころか、イタリア領植民地への関心を示し、スペインのフランコ政権の排除についても提案するなど、帝国主義的欲望をあらわにした。また、スターリンはフランスやイタリアに侵攻する計画を策定させていたことも、のちに明らかになったという。この計画はアメリカが原爆開発に成功したという報告を聞いて中止された。

(7) 人々の戦後

ソ連軍兵士・元兵士註556-7

ドイツ人の高い生活水準を見たソ連兵たちのなかには、ソ連の政治に疑問を抱く者が現れた。当局は、こうした将兵たちを「組織的な反ソ言説をもてあそび、テロ行為を企図した」との罪状で摘発した。その数は1945年だけで、135,056人にも及んだ。

また、1941年のドイツ侵攻時に無能な上官に見捨てられたソ連兵は、ドイツの収容所で筆舌に尽くしがたい恐怖を味わった。終戦により帰国したものの、今度は敵に協力したとか、降伏したということだけで有罪とされ、集中収容所や強制労働大隊に放り込まれた。

ドイツに連行された人々註556-8

ドイツには、ソ連、フランス、ベネルクス3国などから強制労働のために連れてこられた人々が何百万もいた。かれらは終戦とともに徒歩で祖国への道を歩み始めた。彼らのなかには、掠奪や強盗に走る者もいた。殺人犯、強姦犯と特定されたものは即刻銃殺された。ただ、ドイツの民間人が占領当局に強制労働者が食べ物を盗んでいった、と訴えても、ほとんど相手にされなかった。

ドイツ人移住者註556-9

ドイツが占領したポーランド、チェコスロヴァキア、バルカン諸国に移民した、もしくはそれ以前から住んでいたドイツ系住民は、進駐したソ連軍や戦後に成立した新政権によって追放されたり、強制労働に徴用された。

追放された人々は財産を没収され、飢餓や伝染病に悩まされながら、多くは徒歩でドイツに向った。その総数は1200~1600万人にのぼり、うち100~200万人が命を落としたと推定されている。

ポーランド領内では、およそ20万のドイツ人が労働キャンプに入れられて、約3万人が命を落とし、60万人がソ連に送られ、強制労働に就かされた。

最後に、ビーヴァー氏が引用しているポーランドの詩人が指摘する戦争の実態を紹介したい。

{ こんな信じられない野蛮な戦争が、野蛮な復讐なしに終わると考えることは、むしろ難しかった。ポーランドの詩人、チェスワフ・ミウォシュが指摘するように、集団的暴力は、万人が持っている人間的感情やごく自然な遵法精神を破壊してしまうのだ。「戦時中、人殺しは日常茶飯事となり、… 抵抗のために為されるならば、合法だとさえみなされる。盗みもごく普通のこととなり、… 人々は、かつてなら近隣一帯を起こしてしまうような大音響の下でも眠りにつく術を学んでいく。機関銃の発射音、苦しむ男の絶叫、警官に連行される隣人が発する呪いの言葉」。そうした諸々のせいなのだ… 「東側の人間は、アメリカ人あるいは西側の人間の言うことを真に受けないのである」。なぜなら、かれらはそうした体験を理解できず、自分が言った言葉の意味を深く考えられず、同じことが自分たちの身の上にも起こり得ると、想像すらできないからであると。}(ビーヴァー「第2次世界大戦(下巻)」,P468-P469<要約>)


5.5.6項の主要参考文献

5.5.6項の註釈

註556-1 米英連合軍、進軍中断

ビーヴァー「第2次世界大戦(下巻)」,P388-P391,P396-P399、P444 太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P113-P114

{ チャーチルは身震いを覚えた。ヤルタ精神はすでに有名無実化しているのに、アメリカ軍のトップはワシントンのマーシャルも現地を束ねるアイクも、スターリンの懐柔策にいまだ汲々としているとは!}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P389)

{ アイクはまたしても動揺し、ブラッドリー将軍に相談してみると、ベルリン攻略の犠牲者は10万人に達するかもしれない、と答えた。首都ベルリンは、戦争が終ればいずれ明け渡すものであり、そこに大量の人的損耗を出すことは到底受け入れがたい、という点で両者は一致した。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P398<要約>)

{ アイクの判断は結果的に正しかった。… スターリンはアメリカ軍のベルリン一番乗りなど断じて許すまじと決意していた。赤色空軍のパイロットがベルリンに向け進撃するアメリカ軍部隊を発見したら、スターリンが即座に空爆を命じたことはほぼ間違いない。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P398-P399<要約>)

註556-2 ソ連軍、ベルリンを攻撃

ビーヴァー「同上(下巻)」,P386-P388,P411-P435 太平洋戦争研究会「同上」,P118 大木「独ソ戦」,P217

{ スターリンは依然、猜疑心から抜け切れずにいた。アイゼンハワーのあの開けっ広げな態度、まずもってあれが怪しい。何かわなをしかけているのではないか。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P391)

{ (4月16日、)ソ連のベルリン攻勢にかんして、アメリカ側から照会があった。アントノフ参謀総長にスターリンから指示が飛んだ。「ソ連軍は現在、ドイツの防衛態勢の細部を探るため、敵戦線の中央戦区に対し大がかりな偵察行動を実施中」と答えておけと。…250万もの大軍をもって「偵察」をやる馬鹿がどこにいようか。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P415)

{ ベルリンはほぼ全周をソ連軍に囲まれたが、スターリンの根拠のない不安感はいっこうに収まらなかった。… ソ連軍に捕らえられたドイツの上級将校には一人残らず同じ質問がぶつけられた。ドイツ国防軍がアメリカ軍と協同してソ連軍を押し返す計画なのはわかっているのだ。さぁ、知っていることを洗いざらい話してもらおうかと。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P424)

註556-3 ナチス体制の崩壊

ビーヴァー「同上(下巻)」,P421-P438

{ この日56歳を迎えたヒトラーは、実年齢より少なくとも20歳は老けて見えた。背が曲がり、顔には血の気がなく、左手が震えていた。… 総統はもはや理性的判断を下せる状況にないことは明らかだった。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P421)

註556-4 ヒトラー自決

ビーヴァー「同上(下巻)」,P438-P445

註556-5 ドイツ降伏

ビーヴァー「同上(下巻)」,P448-P453 太平洋戦争研究会「同上」,P119

{ 5月5日、… ドイツ軍部隊のうち、負傷兵については、エルベ川を渡ることが認められた。ただ、民間人については渡河は許されなかった。ソ連側との合意により、民間人はドイツ国内に留め置くことになっていたからだ。だがほどなく、負傷していない兵士や、ドイツ国防軍の外套にヘルメットといういでたちの若い女性までが、エルベ川に架かる半分壊れた橋を渡り始めた。アメリカ兵は人の流れをふるいにかけ、民間人は通行禁止に、親衛隊員は逮捕した。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P449<要約>)

*エルベ川はベルリン西部を流れる大河。のちに東西ドイツの境界線となる。

註556-6 ポツダム会談

ビーヴァー「同上(下巻)」,P460-P465 大木「同上」,P217-P218

{ (ソ連軍参謀本部の)シュテメンコ将軍がのちにベリヤ(内務人民委員<NKVD>)の息子に語ったところによると、… 1944年、ソ連政治局はとある会議で、フランスおよびイタリアへの侵攻計画を立案するようスタフカ(大本営)に指示したという。このソ連赤軍の攻勢は、地元共産党の権力奪取と相連動する形で進められることになっていた。… これらの計画を実施すべく、かなりの予算も割り当てられていた。… 全作戦は1か月程度で終了すると見込まれた。だがしかし、これら諸々の計画はアメリカはすでに原子爆弾を保有し、その大量生産に着手しつつあるとのベリヤからの報告がスターリンに届き、すべて中止となったそうだ。}(ビーヴァー「同上(下巻)」、P462)

註556-7 人々の戦後_ソ連軍兵士・元兵士

ビーヴァー「同上(下巻)」,P453-P454

{ 赤軍の内部で、政治的変化を求める空気が生まれたことは、ソ連指導部に強い懸念を抱かせた。共産党がすべてを支配する現状に、いまや兵士も将校も、公然と批判の言葉を口にするようになっていた。}(ビーヴァー「同上(下巻)」、P453)

註556-8 人々の戦後_強制労働者、抑留者

ビーヴァー「同上(下巻)」,P454-P456

{ オーストラリア人ジャーナリスト、ブランデンは取材の途中、半ば飢えた若いアメリカ人捕虜の一団と行き会った。「木琴のような肋骨」をし、頬はくぼみ、頸は細く、ひょろ長い腕が目を引いた。 … かれらは、昨年12月、ヨーロッパに到着すると、すぐさま前線に送られ、その月のうちに、アルデンヌで起きたドイツ軍の大反乱と真正面からぶつかった。捕虜となったあとはあちこち移動させられた。… 列を乱したという理由で監視役のドイツ兵に棍棒で死ぬまで殴られた戦友の話をしてくれた。その憐れさはひとしおだった。}(ビーヴァー「同上(下巻)」、P455)

註556-9 人々の戦後_ドイツ人移住者

大木「同上」,P217 ビーヴァー「同上(下巻)」,P467-P468

{ スターリンが意図したとおり、「民族浄化」はただその地域の特定民族を追放することに留まらず、報復行為もあわせて実施された。… かつてドイツ系が220万を数えた東プロイセンの地に、結局残ったドイツ人は僅か193千人だった。}(ビーヴァー「同上(下巻)」、P467-P468)