日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.5 第2次世界大戦_終戦へ / 5.5.5 東からドイツへ

5.5.5 東からドイツへ

ソ連は1945年1月、ポーランドからドイツ東部東プロイセンに侵攻し、途中、強制収容所を解放しながら、3月中にはベルリンに肉迫した。
同年2月にはクリミア半島のヤルタで米英ソ3首脳による「ヤルタ会談」が開かれ、戦後処理や対日戦などについて協議された。

図表5.15(再掲) 第2次世界大戦_終戦へ

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(1) ワルシャワ註555-1

ソ連軍のベルリンに向けた進撃は、現在のポーランドの東の国境線に沿った線から西に向かって、1945年1月12日に開始された。まずは1月17日ワルシャワを占領し、ドイツ軍を追い出したあと、ソ連の息のかかった共産党政権を擁立した。

(2) 東プロイセン註555-2

続いて、ソ連軍は東プロイセンに入り、1月23日、ドイツ中央部に至る交通路を遮断して東プロイセンを孤立させ、東プロイセンの住民に略奪、放火、強姦などの暴虐行為を行った(5.5.3項のコラムに事例あり)。その要因の一つには、ソ連兵が遭遇した生活水準の高さがあった。ごく普通の農場労働者でさえ、ソ連では考えられないほど豊かだったのである。

東プロイセンの中心都市ケーニヒスブルク(現カリーニングラード)は、堡塁や堀などを利用して籠城したが、ソ連軍の力攻めにより4月10日、降伏に追い込まれた。籠城していた兵士や住民はソ連兵から激しい暴行を受け、自ら命を絶つ者たちも多く、籠城開始時に12万人いた民間人は半分に減り、残った人たちも強制労働のために徴発された。

図表5.18 ドイツ東部地図

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出典)ビーヴァー「第2次世界大戦(下巻)」,P307 などをもとに作成。

(3) ダンツィヒ註555-3

1月12日の侵攻開始後、ジューコフ元帥率いるソ連軍の先鋒は、アメリカから提供されたトラックを駆って猛スピードで西進し、1月末にはオーデル川を渡ってドイツに入ってベルリンまであと60kmというところまで迫った。そこでスターリンの指示を受け、北のダンツィヒ(現グダニスク)からシュテティ-ン(現シチュチン)に至るバルト海沿岸のドイツ軍を一掃することになった。

2月上旬から3月にかけて、ダンツィヒなどこの地域で起きたことは、東プロイセンで起きたことと同じかそれ以上に激しかった。ドイツ海軍は海上から避難民の救助にあたったが、残った避難民に対する略奪や暴力行為はソ連当局ですら動揺するほど激しいものだった。

(4) 強制収容所註555-4

ポーランドにはユダヤ人などの強制収容所がたくさんあり、連合軍の進駐によりそれらが暴き出された。以下は、その代表的な事例である。

アウシュビッツ強制収容所

アウシュビッツ強制収容所はポーランド南部を進軍していたソ連軍の偵察隊が、古都クラクフの西で1945年1月27日に発見した。ソ連軍の接近を受けて、58千人の被収容者が徒歩で西方へと移動させられており、8千人だけが残っていた。親衛隊は収容所を離れるにあたって、ガス室や火葬場などは爆破し、記録文書などを破棄していったが、十分すぎる証拠が残っていた。例えば、男性用スーツ36万着、女性用コートとドレス83万着、人の頭髪7トンなどである。ソ連軍は、医療スタッフを派遣して生存者の治療に当たらせた。

ダンツィヒ解剖医学研究所

この研究所では、東プロイセンにあったシュトゥットホーフ強制収容所から入手した死体を、皮革や石鹸に変える実験を続けてきた。ソ連の公式報告書によれば、「石鹸を製造する目的で148点の死体が保管されていた。それらの国籍は大半がポーランド人で、ロシア人、ウズベク人もいた。石鹸製造が成功した1944年にはドイツの教育省や保健局長官などが訪問している」とある。この研究を行っていた教授らは、裁判にかけられなかった。人間の死体を加工処理する行為を犯罪として定義する法律がなかったためである。

(5) ヤルタ会談(1945年2月4日~11日)註555-5

戦後世界について米英ソの首脳が会談する場として、クリミア半島の保養地ヤルタが選ばれたのは、スターリンがここを希望したからであった。スターリンはテヘラン会談と同様に、米英の首脳の意向をスパイを通して事前に調査し、どの程度まで要求を呑む気があるのか掴んでいた。この会談の主たるテーマは、ポーランドなど東欧諸国の戦後処理、国際連合の設立、ソ連の対日参戦、ドイツの分割問題、などであったが、なかでもポーランド問題には多くの時間が割かれた。

ポーランド問題

この会談が始まる半月ほど前、ソ連はワルシャワを占領し、傀儡の共産政権を擁立してポーランド全土を支配下においていた。スターリンはこの会談でポーランド問題について譲歩するつもりはまったくなかった。ソ連にとってポーランドは安全保障の緩衝地帯としても重要だったのである。

チャーチルは真に自由な独立国になる保証を取り付けようとし、ローズヴェルトは最も関心のあった国際連合の設立を進めるためにスターリンの協力を得たいと考えていた。最終的には、条件付き自由選挙を実施することになったが、①米英が主張していた第三者による選挙の監視は行わない、②候補者は「反ファシスト及び非ファシスト」に限定する※1、という条件により事実上、傀儡政権が新政府となることになった。

こうした条件であれば、ローズヴェルトは母国に帰って国民に胸を張って説明をできるのであった。こうして、連合軍側に立ってドイツと戦ってきた「ポーランド亡命政府」は大国の思惑に押しつぶされることになった。

なお、新しいポーランドの領土については、1939年の侵攻でソ連が獲得したポーランド西部はソ連の領土となり、かわりに東側のドイツ領土だった部分をポーランドの領土とし、結果的にポーランド全体が西に動くようなかたちになった。

※1 傀儡政権の対立候補は、独ソの侵攻によりイギリスに亡命していた「ポーランド亡命政府」だったが、ソ連はこの政権を事実上のファシストと位置付けていた。

国際連合設立

ローズヴェルトの悲願であった国際連合設立については、スターリンも合意したが、ソ連が孤立することを恐れ、ウクライナと白ロシア(ベラルーシ)に各1票を与えることによってソ連陣営が3票持つことを要求、アメリカもしぶしぶ認めざるを得なかった。

対日参戦

ソ連が対日参戦する代価として、南樺太と千島の領有、及びモンゴルの支配権などを認めることが合意された。ただし、モンゴル支配権などについては、蒋介石との調整ができていないため、これらの合意内容は秘密とされた。ポーランドにしろ、モンゴル支配権にしろ、民族自決をうたった大西洋憲章(1941年8月、5.4.2項(2)参照)の精神とは相容れないものであった。

ドイツ分割、賠償問題

ドイツは西側陣営と東側陣営で分割占領すること、賠償金とその配分(ソ連が50%)などが決定した。

米英とソ連の機微の違い

ドイツ軍が収容した連合軍の捕虜を本国に送還することは、米英はごく当然のように考えていたが、ソ連はドイツ側として戦った者やドイツ軍の雑役についた者などはそれなりの報復が必要であるかのような発言をした。また、ベルリン攻撃などを行うに際して米英側とソ連側の現地司令官同士が直接連絡をとりあうことを確認したが、ソ連側の司令官はスターリンの事前承認を得ずに西側の司令官と接触することはなかった。


5.5.5項の主要参考文献

5.5.5項の註釈

註555-1 ワルシャワ

太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P114 ビーヴァー「第2次世界大戦(下巻)」,P305-P307

註555-2 東プロイセン

ビーヴァー「同上(下巻)」,P308-P314、P378-P379

{ 多くの市民はケーニヒスベルクが街ごと降伏し、この苦しみが早く終わるよう必死に願っていたけれど、司令官のオットー・ラッシュ大将は、最後のひとりまで戦い尽くせという苛酷な指示をヒトラー総統から受けていた。… ラッシュ司令官は4月10日に降伏した。ヒトラーの命令により、本人不在のまま、即刻死刑が宣告され、ナチの血族連座法に従い、ゲシュタポが将軍の家族を拘束した。親衛隊と警察部隊からなる一団が、城にこもってなおも戦い続けたが、ほどなく燃え盛る炎によって焼き殺された。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P278-P279<要約>)

註555-3 ダンツィヒ

ビーヴァー「同上(下巻)」,P318-P321、P372-P374

{ ナチ党は今回もまた、一般の民間人が逃げられるタイミングで脱出することを許さなかった。このため、人々は … 農業用の荷車に手近な布切れで覆いをつけると、身を切るような寒風の中、苦しい脱出行に出発した。ドイツ軍部隊が撤退していったルートは「絞首刑の径」によってたどることができた。親衛隊や野戦憲兵が逃亡兵を道々吊していったからだ。…}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P373-P374)

註555-4 強制収容所

ビーヴァー「同上(下巻)」,P315-P316、P375

註555-5 ヤルタ会談

ビーヴァー「同上(下巻)」,P354-P367

{ スターリンにとって、ヤルタ会談は中部ヨーロッパとバルカン半島に対するソ連の支配権を英米に呑ませることであった。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P355)

{ ローズヴェルトの老齢による衰えは、もはや如何ともしがたく、口をぽかんとあけていることが多かった。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P357)

{ スターリンはいきなり立ち上がり、演説を始めた。ロシアが過去においてポーランド人に多くの犯罪的行為を働いたとされる件は認めつつも、ポーランドはソヴィエトの安全保障にとって死活的な重要なのだと改めて力説した。我が国はこの1世紀ほどの間に2度も、ポーランドを経由した攻勢により、侵略を受けており、そのことだけをとっても、「力強く、自由で独立した」ポーランドが何より必要なのだと。… スターリンがもちいる自由とか独立という概念はイギリス人やアメリカ人の定義とは全く異なっていた。スターリンにとってそれは「友好的」でなければならなかった。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P359-P360<要約>)