日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.5 第2次世界大戦_終戦へ / 5.5.4 西からドイツへ

5.5.4 西からドイツへ

連合軍はパリを解放した後、ベルギーを経てドイツ本国に侵攻したが、それに先立ちドイツの諸都市には無差別爆撃が行われ、多数の一般市民が犠牲になった。
ライン川を渡ってドイツに入った連合軍はナチの強制収容所を解放しつつ、ベルリンを目指したが、最終的にベルリン攻略はソ連軍に譲ることになる。

図表5.15(再掲) 第2次世界大戦_終戦へ

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(1) ドイツ本土への戦略爆撃

ドイツ本土への空爆が始まったのは、ドイツがフランスを制覇した後、イギリス本土への爆撃を開始し、イギリスがそれに対抗してベルリンを爆撃した1940年8月からである(5.3.4項参照)。当時のイギリスには空爆以外にドイツに直接反撃する手段はなく、ソ連が爆撃にあまり力を入れなかったことから、ソ連の担当する東部戦線に対する「第2戦線」の役割を果たしているというチャーチルの自負心もあったし、ソ連もそれを認めていた註554-1

都市爆撃の本格化註554-2

ローズヴェルトの「交戦各国は都市爆撃を回避すべきである」とのメッセージを受けて、イギリスの空爆方針は、「民間人に対する意図的爆撃は違法」という前提で、船舶や港湾を標的とした爆弾投下に限定されていた。

それが変更されたのは1940年8月にドイツ空軍がロンドンに爆弾を落とし、その報復でベルリンを爆撃したときである。以降、特定の目標を狙う爆撃ではなく、ある地域全体を標的とする爆撃が増加していき、1942年2月には、イギリス内閣から"地域爆撃"のお墨付きを得た。翌3月3日の夜、ドイツ国防軍のための車輛を製造しているフランスのルノーの工場を爆撃し、フランスの民間人367人が死亡した。同年5月にはドイツのケルンを航空機1000機で爆撃した。

米軍の爆撃参加註554-3

1942年夏、アメリカ軍は「第8空軍」を編成し、空爆も行うことになった。このころ、イギリス空軍は敵戦闘機や対空砲火の危険の少ない夜間に爆撃を行うようになっていたが、アメリカ軍は目標を正確に狙った爆撃を行うために、昼間の爆撃を原則としていた。しかし、爆撃照準器を使った爆撃でもその精度はイギリス空軍とほとんど同じであり、結果的にイギリス空軍同様に地域全体を爆撃することになった。

米英両空軍の本格的な空爆は、ベルリン、ハンブルク、ドレスデンといった大都市や西部工業地帯の工業都市などを狙って1943年5,6月ごろから本格的に開始された。

こうした連合軍の戦略爆撃の犠牲になったドイツ民間人の推計値には諸説あるものの、およそ50万人前後とされている。一方、爆撃を行ったイギリス軍搭乗員は55,573人、アメリカ軍搭乗員は26,000人が戦死している。なお、ドイツ軍の戦略爆撃による犠牲者数は、ソ連の民間人だけでおよそ50万人前後に達する。

都市爆撃の惨状註554-4

ハンブルクに対する大規模爆撃は、1943年7月24日に始まり1週間ほど続いた。大量の焼夷弾が投下され、あちこちで発生した火災が繋がって火勢を強め、街を巨大な溶鉱炉へと変えた。煙突状の熱気が火山の噴火のように空に向けて吹き上がり、高度17千フィート(約5100m)でも、肉の焼ける臭いが分ったという。

地上では、強い熱風が人々の衣服を引き裂き、髪の毛を燃え上がらせた。道路の舗装面は高熱で溶け、人々はハエ取り紙に捕まった昆虫のように身動きが取れなくなった。地下室にいた人たちは煙を吸い込み、あるいは一酸化炭素中毒で命を落とした。

当局がのちにまとめた調査資料によると、亡くなったハンブルク市民は4万人にのぼり、死体の多くは炭化して回収することすらできなかった。親が、死んだ子のすっかり小さくなった亡骸を回収し、スーツケースに入れて持ち歩いていた例もいくつかあった。

司令官たちのジレンマ註554-5

民主主義国の司令官たちは、マスコミ報道や世論の圧力で、兵士の損耗を最小限に抑えることが求められる。それゆえ、高性能爆弾の使用など、民間人を含む敵側の損害を大きくするような手段に頼ることが増えてしまうのである。日本の広島、長崎への原爆投下はその最たる事例であろう。

(2) ベルギー解放註554-6

1944年8月25日、パリに入城(5.5.2項(7)参照)した連合軍は、9月3日にはドイツ軍のさしたる抵抗も受けずにベルギーの首都ブリュッセルに入り、翌9月4日にはアントウェルペンも確保した。

アントウェルペンは物資の補給に欠かせない重要な港だったが、ここの確保を担当したモンティ(モントゴメリー将軍)はライン川渡河を優先すべきと勝手に判断し、連合軍最高司令官アイゼンハワーへの反発もあって、沖に浮かぶドイツ軍の砲台や機雷の撤去をしなかった。そうこうしているうちにドイツ軍は守備を強化してしまったので、後始末を担当したカナダ軍は多大な犠牲を払わされ、11月26日になってようやく最初の船を入港させることができた。

(3) マーケット・ガーデン作戦註554-7

連合軍がドイツへ侵攻するには、大河ライン川を越える必要があった。アイゼンハワーは連合軍の各部隊をライン川一帯に進出させ、得意の物量作戦をもって、そのまま一斉にドイツに侵入するという作戦を考えていた。しかし、モンティはオランダからドイツ・ルール地方に入る案を主張していた。

アイゼンハワーはモンティ案を認め、9月17日「マーケット・ガーデン作戦」が発動された。この作戦は多数の空挺部隊をオランダ南部に降下させてマース川、ワール川、ライン川などに架かる橋を確保し、同時にそれを支援する機甲部隊を地上から派遣して空挺部隊に合流させる、というものであった。しかし、予想以上に激しかったドイツ軍の抵抗などにより、機甲部隊との合流ができず、9月27日に空挺部隊は降伏、もしくは撤退に追い込まれ、作戦は失敗した。

(4) ドイツ軍最後の反撃(アルデンヌの戦い=バルジの戦い)註554-8

ドイツの敗色が日に日に濃厚になるなかで、ヒトラーは1940年の怒涛の快進撃を再現し、連合軍に一泡吹かせてやりたい、と考えた。連合国のどこかの国に決定的な打撃を与えて離脱させ、それを梃子にして条件交渉に持ち込もうという腹積もりであった。ヒトラー自身が参謀を使って作戦を立案し、11月3日に国防軍の幹部に説明したが、彼らは当時のドイツ軍の実力からして、それが現実離れした作戦であることを知っていた。

12月16日午前5時半、ドイツ軍は兵力25万人、戦車1000輌をもってルクセンブルクの北から西へ侵攻した。最大の激戦地は、この付近の主要な道路が集中するバストーニュ付近で行われた。最初の1週間ほどは雲が低く垂れこめ、連合軍の飛行機の活動が思うに任せなかったこともあって、ドイツ軍が押し気味に戦いを進めたが、12月23日からは晴れ間が出て空からの支援が可能になるとともに、ドイツ軍は燃料不足でしだいに動きがにぶくなり、1月下旬、ドイツ軍の完敗で戦闘は終了した。

(5) ライン渡河註554-9

1945年2月初め、連合軍は現在のオランダ南部からフランス北東部に至るドイツとの国境線付近からライン川渡河を目指して進軍を始めた。ライン川はドイツにとって最後の防衛線であり、ほとんどの橋は破壊され、増水で川幅が500mにもなるところもあった。

3月7日、アメリカ軍はボンの南にあるレーマンゲンという町でたまたま破壊されずに残っていた橋を使ってライン川を渡り、これが一番乗りとなった。これを知ったヒトラーは激怒し、現地部隊の将校5人に死刑を命じ(執行は4人)、西欧軍総司令官を更迭してしまった。

3月23日、対岸のルール工業地帯への爆撃を行った後、レースからラインベルク(デュッセルドルフの北)に至る地域の10か所で渡河を開始した。翌24日には空挺部隊がドイツ軍の背後に降下して包囲したため、ドイツ軍は敗走していった。

(6) 強制収容所の解放註554-10

ドイツ国内に入ると、連合軍は強制収容所を発見し、死にかけた人々を救済した。その数は4月だけでも25万人になった。

例えば、イギリス軍がみつけたベルゼン村にある強制収容所※1は、悪臭と目を覆うような光景にそれを目にしたイギリス兵の大半が体調を崩すほどのひどさだった。およそ3万人が生死の境にあり、その周辺には1万をこえる腐乱死体があった。イギリス軍は、隣接する町から住民全員を駆り出し、死体を墓地に移送する作業にあたらせた。作業に動員されたドイツの民間人は、例外なく「ショックだ、自分たちは知らなかった」と言った。

※1 ベルゼンは、ドイツ中北部ハノーファーの北にあり、ユダヤ人だけでなく、政治犯や戦争捕虜なども収容されていた。アンネの日記の作者アンネ・フランクが殺害された場所とされている。(Wkipedia「ベルゲン・ベルゼン強制収容所」)

(7) オランダ救援註554-11

この頃、オランダはいまだにナチの「占領地オランダ国家弁務官」の管轄下にあり、飢餓の淵にあえいでいた。英米の航空部隊は救援作戦をナチ側に提案したが、ナチ側は「それを行なったら、オランダを水浸しにする」と返答してきた。それに対して連合軍最高司令部は「仮にそうした行為に及ぶなら、関係者を戦争犯罪人として扱うことになる」と脅した。

その後、オランダのレジスタンスを通じて交渉が重ねられ、ロッテルダム、ハーグを含む地域に食料品を空中投下することが決定された。イギリス空軍は3000回の出撃で、6000トンを超える食糧にパラシュートをつけて投下し、多数のオランダ人を救った。


コラム ドイツ軍はなぜ降伏しなかった?

1944年も後半になるとドイツ軍の敗色は濃厚になり、アメリカ兵は「どう見ても負けなのに… ドイツ人はわかってないんじゃないか」と、文句を言うようになった。パットン将軍は同じことを捕虜になったドイツ軍の大佐に聞いた。「ロシアに対する恐怖心さ」とその大佐は答えた。

一部の歴史家は、「連合国が無条件降伏というから、最後の一兵まで戦う決意を固めたのだ」と主張する。だが、ビーヴァー氏は「問題はそこではない」と言う。「降伏を厭うのは、降伏したら戦犯として処刑されることをナチ党の幹部たちは理解していたからだろう。彼らはヒトラーが生きている限りこの戦争は終わらないことを知っていた。ヒトラーは、降伏すれば自分は極悪非道の輩と認定されることは知っていたが、彼が怖れたのは処刑されることではなく、生きたまま捕らえられ、檻に入れられ、モスクワに送られることだった」。

一方、大木毅氏はドイツ国民の視点から次のように述べる。
第1次大戦では総力戦の負担に耐えかねた国民が、キールの水兵反乱に始まるドイツ革命を引き起こし、それが戦争継続を不可能にした。第2次大戦でこのような民衆の抵抗が起きなかったのは、ナチスが、「無条件降伏は全面的な屈服と奴隷化だ」と喧伝するとともに、秘密警察等により組織的な罷業や反抗を抑えつけたからだ、というのが古典的な回答になっている。

しかし、近年の研究ではより醜悪な実態を描き出している。ナチ体制は人種主義などを前面に打ち出し、ドイツ人は優秀だというフィクションと軍備拡張により国民の統合をはかったが、それは高い生活水準の保証と社会的勢威の上昇の可能性で裏打ちされていた。

これを実現するためには、他の国々からの収奪が必要だった。国民がそれを意識していたかどうかは明白でないが、国民もナチ政権の共犯者になっていた。抗戦を放棄することは軍事的敗北だけでなく、特権の停止、収奪への報復を覚悟することであり、ゆえに敗北必至の情勢でもナチス・ドイツの崩壊まで戦い続けた、というのが今日の一般的解釈であろう。

(参考文献:ビーヴァー「第2次世界大戦(下巻)」,P382-P383、大木毅「独ソ戦」,P211-P212)


5.5.4項の主要参考文献

5.5.4項の註釈

註554-1 イギリスによる空爆

ビーヴァー「第2次世界大戦(中巻)」,P354-P355、P364-P365

{ 1942年8月、チャーチル首相はモスクワへ飛んだ。北フランスへの侵攻はいまだかなわずと言い訳するのが目的だった。… その弁明のための最大の切り札がドイツの都市を狙った空爆作戦というわけだ。わが爆撃機集団による空からの大攻勢はある種の第2戦線なのだという主張は、スターリンにも通りが良かった。ソ連の情報部門は、ドイツ人捕虜に対する尋問から、「故郷の家族がイギリスの爆撃にさらされることが心配で、東部戦線のドイツ兵に士気低下の徴候がみられつつある」と報告していた。また、ドイツ空軍の爆撃により、およそ50万人のソ連市民が亡くなったという推計もあり、スターリンの復讐心をくすぐるものでもあった。}(ビーヴァー「同上(中巻)」、P364-P365<要約>)

註554-2 都市爆撃の本格化

ビーヴァー「同上(中巻)」,P357-P364

註554-3 米軍の爆撃参加

ビーヴァー「同上(中巻)」,P366-P389、「同上(下巻)」,P371 太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P95-P97

{ わが戦略爆撃をもってすれば、この戦争にかかる時間を短縮させ、死ぬはずだった人間の命を結果的に救うはずである――これがイギリスの戦略爆撃の司令官ハリスの論理である。これはドイツ宣伝相ゲッペルスが掲げたスローガン「総力戦こそ最短期戦」と驚くほど似ている。だとすれば、英米両国がドイツの民間人相手に空から"総力戦"を行なうことは、ドイツ空軍がやってきたことと倫理的に同じではないかという疑問がわいてくる。この問いかけは事情が複雑なので、万人が納得できる答は見出せないが、数字の検討だけは可能である。ドイツ空軍が西ヨーロッパ、中部ヨーロッパ、バルカン半島およびソ連領内で殺した一般市民をすべて合計した数字と、英米両国が実施した「連合爆撃攻勢」はその残忍度において、僅差ではあるが、ドイツ側を下回っている。}(ビーヴァー「同上(中巻)」、P391<要約>)

註554-4 都市爆撃の惨状

ビーヴァー「同上(中巻)」,P380-382

以下は、14歳の少女が記録した1943年6月29日のケルン大空襲の模様である。

{ 人々は行方不明者の名前を大声で叫び、通りはどこも身元確認のため並べて寝かされた死者たちで覆いつくされていた。… その後戻った人々は、かつて自宅だったものの前で戸惑いの表情を浮かべている。われわれは死体の各部を拾い集め、亜鉛メッキのバスタブに入れなければならなかった。2週間がたっても、私はいまだ吐き気が収まらない。}(ビーヴァー「同上(中巻)」、P379)

註554-5 司令官たちのジレンマ

ビーヴァー「同上(下巻)」,P147、P244

{ 砲兵部隊による集中射撃と同様、空爆作戦は民主主義国家のかかえる悩ましい矛盾を露呈させる。マスコミ報道や世論調査という形で、本国から強い圧力がかかるため、現場の指揮官たちは兵士の損耗を最小限におさえるよう迫られる。となると榴弾や通常爆弾といった高性能爆薬の塊を最大限に叩き込むしかなく、それは不可避的に更に多くの民間人を殺すことにつながる。当然、多くのドイツ人が天に向かって報復を誓うことになる。}(ビーヴァー「同上(下巻)」、P244)

註554-6 ベルギー解放

ビーヴァー「同上(下巻)」,P214-P216 太平洋戦争研究会「同上」,P104

註554-7 マーケット・ガーデン作戦

ビーヴァー「同上(下巻)」,P218-P219 太平洋戦争研究会「同上」,P105-P106

{ モンティは誰よりも早く、ライン川を渡ってやると意気込んでいた。ドイツ本土攻略の一番手となる部隊は、この私が当然率いるべきなのだと。… モンティの計画はイギリス第30軍団(機甲師団主力)が、遅滞なく現場に駆けつけ、空挺隊員の負担を軽減することが鍵だった。だが、要所要所でみせたドイツ軍の抵抗のせいで、その勢いを維持できなかった。 … 9月27日、アルンヘム橋頭堡を押さえていた空挺隊員は、水と食糧、なかんずく弾薬の不足によって、降伏を余儀なくされた。残りの部隊は夜陰に紛れて撤収していった。ドイツは6000人近い捕虜を取り、その半数は負傷兵だった。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P218-P219<要約>)

註554-8 ドイツ軍最後の反撃

ビーヴァー「同上(下巻)」,P256-P278 太平洋戦争研究会「同上」,P110-P111

{ 連合軍はこの作戦で、最終的には7万人以上の損害を出す(戦死8千、行方不明21千、負傷48千) …
一方、ドイツ軍は12万が戦死、10万が捕虜となった。参加兵力の25万の9割近い損害である。}(太平洋戦争研究会「同上」、P111<要約>)

註554-9 ライン渡河

太平洋戦争研究会「同上」,P111-P113 ビーヴァー「同上(中巻)」,P385-P386

註554-10 強制収容所の解放

ビーヴァー「同上(下巻)」,P394-P395

{ ひとつの強制収容所から別の収容所へと、さしたる目的もないまま万単位の人間を移送する作業は、無益な殺生をくり返しながら、今も続いていた。ラーフェンスブリュック女性収容所や、ザクセンハウゼン強制収容所に抑留されていたおよそ57千人の男女は、いまだにヒツジの群れのごとく、西へ西へと追い立てられていた。こうした死の行進で殺された人々は、計20万ないし35万人に達すると推計されている。ドイツの民間人はかれらにいっさい憐れみを示さなかった。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P395)

註554-11 オランダ救援

ビーヴァー「同上(下巻)」,P395-P396