日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.5 第2次世界大戦_終戦へ / 5.5.3 ソ連軍、東欧へ

5.5.3 ソ連軍、東欧へ

1944年夏、ソ連軍はノルマンディ上陸作戦と同期して、北はバルト三国から南は黒海沿岸までの広い地域で、ドイツ軍を撃滅する作戦を発動した。この戦闘でドイツ軍は壊滅的な打撃を受けた。他方、ソ連は開戦前の領土をすべて回復しただけでなく、終戦後ソ連の影響下となる国々を大幅に拡大した。

図表5.15(再掲) 第2次世界大戦_終戦へ

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(1) バグラチオン作戦註553-1

バグラチオンとは、スターリンの故国グルジア出身で1812年のナポレオン侵攻時のロシア帝国軍司令官の名前である。この作戦は白ロシア(ベラルーシ)の首都ミンスクを占領し、ポーランドに侵攻することを目標にしており、1944年夏の攻勢の中心になる作戦であった。

作戦開始に先立ち、ソ連軍は6月10日、レニングラード北方のフィンランドを攻めたが、これはドイツ軍の注意を北方に向けるための欺瞞戦術だった。なお、フィンランドに救援を差しのべる余裕はドイツにはなく、フィンランドは9月19日に単独でソ連を講和を結んだ。

図表5.17 バグラチオン作戦地図

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出典)Wikipedia「パグラチオン作戦」 ビーヴァー「第2次世界大戦(下巻)」、P127 大木毅「独ソ戦」、P205 などをもとに作成。

(2) ミンスク陥落註553-2

1944年6月22日、奇しくもドイツ軍がソ連に侵攻したバルバロッサ作戦の開始と同じ日、ソ連軍は西に向かって進撃を開始した。これまでの戦闘でドイツ空軍は壊滅的打撃を受けており、空からの支援は期待できなかった。また大砲や戦車および兵員の数でもソ連軍が圧倒的優位にたっていた。

ソ連軍はドイツ軍を蹴散らしつつ、沼沢地や森林帯で足を取られながらも進軍を続け、6月末にはミンスクを包囲した。ミンスクにはドイツ軍司令部が置かれていたが、しぶるヒトラーを説得して脱出、7月3日、ミンスクは解放された。解放後、ドイツ軍の走狗となった元ソ連軍兵士は復讐の対象とされ、私的制裁に走る者もいた。また、逃げるドイツ兵も燃料不足で車輛は利用できず、飲料水も十分にないまま脱水症状と闘いながら、ソ連軍の砲爆撃やパルチザンの待ち伏せ攻撃の恐怖に耐えながらの厳しい撤退になった。

(3) ルーマニアとブルガリア註553-3

ソ連軍は南方でも攻勢をかけた。ウクライナ西部ポーランド国境付近にあるリヴォフ(現リヴィウ)を1944年7月13日に攻撃し、7月末までにはドイツ軍を追い出してリヴォフを解放した。

8月20日、リヴォフのさらに南にあり、ドイツと同盟を組んでいるルーマニアにソ連軍は侵攻したが、ドイツ軍は僅かな支援部隊しか派遣できず、9月2日、ルーマニアの首都ブカレストは陥落した。ルーマニアはドイツを見限り、ソ連と講和条約を結んだ。

これを見ていたブルガリアも枢軸国側を離脱して連合軍側に立って参戦した。

(4) ハンガリー註553-4

枢軸国の一員だったハンガリー王国の執政ホルティは、ルーマニアとブルガリアの動きを見て密かにソ連に接触し、ドイツへの即時宣戦布告を条件にソ連との和平交渉が1944年10月11日に成立した。この動きを察知したドイツは、ハンガリーのファシスト組織「矢十字党」の党首サーラン・フェレンツを担ぎ出した。ホルティは10月15日、ソ連との和平をラジオ放送で発表したがその直後、サーランはクーデターを起こして政権を掌握し、ホルティの発表を否定する放送を行った。ホルティは拘束されドイツに連行された。

まもなく、ソ連軍はハンガリーの首都ブダペストに迫り、12月26日にブダペストは包囲された。12月30日、ソ連は守備するハンガリー軍とドイツ軍に降伏勧告を出したが拒絶され、猛烈な砲爆撃を加えた後、圧倒的に優勢な兵力をもって包囲網を狭めていった。内側から強行脱出する作戦も策定され、ローマ教皇からも脱出を認めるようヒトラーに請願があったが、ヒトラーは認めず、2月に入ると各所で個別に白旗が上がり、2月13日までに抵抗は完全に終了した。

(5) ポーランド註553-5

ミンスクを攻略した後、ソ連軍はポーランドに侵攻し1944年7月下旬にはワルシャワの東に到達したが、ここで進撃を中断した。8月1日、ワルシャワではイギリス寄りの「ポーランド亡命政府」の指揮下にある「ポーランド国内軍」が蜂起し、旧市街と市中心部をおさえた。しかし、ドイツ軍もまもなく態勢を整え、国内軍との間で激しい戦闘が始まった。

英米連合軍は「ポ-ランド国内軍」に空から支援物資を投下したが、十分な成果はあげられなかった。一方、スターリンは8月4日、「ポーランド亡命政府」の代表団と渋々面談したが、(ソ連の息がかかった)「ポーランド国民解放委員会」と話すべきである、の一点張りであった。その後、8月9日に「ポーランド亡命政府」に対して、支援する旨を連絡したものの、実際は英米軍の航空機がソ連領内に着陸することは許さず、ソ連軍の武器投下も役に立たなかった。{ スターリンが望んだのは、後日非難を浴びないで済むよう、支援したとのアリバイ作りを2,3度おこなうことだけだった。}(ビーヴァー「第2次世界大戦(下巻)」,P172)

10月2日、蜂起開始から63日後、「ポーランド国内軍」はドイツ軍に降伏した。ソ連軍は翌1945年1月17日ワルシャワを占領し、ソ連側の「ポーランド国民解放委員会」による政権が樹立された。

この時のソ連の行動について大木毅氏は次のように述べている。

{ なぜ、スターリンはソ連軍を前進させ、ポーランド国内軍と手をつないで、ワルシャワを解放しなかったのか。しばしばなされる説明は、戦後、ポーランドに共産主義政権を立てて、衛星国とすることをもくろんでいた … というものである。しかし、近年ではソ連軍はたしかにワルシャワ前面にまで進んだものの、兵站の限界に達しており、ようやく態勢を立て直したドイツ軍の反撃をうけていたため、国内軍を支援することは出来なかったという説も唱えられている。この問題をめぐる論争は今なお継続中であり、決着はついていない。}(大木毅「独ソ戦」,P207-P208)

(6) ギリシア註553-6

ルーマニアとハンガリーがソ連の手に落ちると、北への通路を塞がれたドイツ軍は1944年10月、ギリシアから撤退をはじめた。後に残ったのは、ドイツが占領した時にエジプトに逃れていた亡命政府(王政)、共産党系の民族解放戦線、非共産系の民族共和同盟などで、これに亡命政府を支援するイギリスが介入してきた。チャーチルはギリシアに共産党政権ができるのを何としても防ぎたかったのである。ソ連は、地理的に離れていることや下記(8)に記した「パーセンテージ合意」により、共産党系組織の支援は行わなかった。

ドイツ軍撤退後、内戦が起こり、いったん国王を担いだ亡命政府が成立するが、内戦はその後も延々と続き、共産党系の敗北により1949年になってようやく終結した。

(7) ローズヴェルトとチャーチルの戦後観註553-7

1944年9月に行われた第2回ケベック会談で、英米首脳は顔を合わせ、ドイツ降伏後の占領統治などについて議論したが、ポーランド問題を含めた対ソ問題についてはほとんど取り上げられなかった。

チャーチルは、中部および南部ヨーロッパをソ連軍が占領している状態は、戦後の平和にとって主要な脅威になると考えていた。だが、ローズヴェルトは戦後のソ連の脅威について全く心配していなかった。多様な民族を抱え込んだソ連はドイツという共通の敵がいなくなれば、分裂は必至だろうと確信していた。

なお、この会談でローズヴェルトは、いわゆる「モーゲンソー・プラン」を提示した。このプランは、戦後ドイツを分割して農業と牧畜業を主体とする国家に作り変える、というもので、チャーチルは不快感を覚えたがしぶしぶ合意した。のちにローズヴェルトはこれを引っ込めた。

(8) パーセンテージ協定註553-8

1944年10月、チャーチルはクレムリンのスターリンの部屋で通訳だけを挟んで会談した。チャーチルは戦後のポーランドの東部国境は、1943年11月のテヘラン会談で決着していると語った。この決定に対してポーランド亡命政府が蚊帳の外に置かれたのは、1944年11月の大統領選挙の結果が明らかになるまで、米国のポーランド系有権者による攪乱をローズヴェルトが望まなかったからである。のちにこの事実を知ったポーランド亡命政府のミコワイチク首相は体の芯まで震えるような衝撃を味わったと、チャーチルは主張している。

次にチャーチルは、当人のいうところの「下品な」文書を提示した。それは、後年「パーセンテージ合意」と呼ばれる戦後の勢力分配を示す紙片で、次のように書かれていた。

スターリンはその紙片を凝視し、ブルガリアの取り分を90%に修正してチャーチルに戻した。

会議後、チャーチルはスターリンをイギリス大使館の夕食会に招き、そこで次のように演説した。

「イギリス国民はポーランド国民およびその精神的価値観に道徳的責任を負っています。… ポーランドの国内情勢ゆえに、我々はヴァチカンとの関係が複雑化することを、看過できないのであります」

「それで、ローマ教皇はいった何個師団持っているのかね」とスターリンが茶々をいれた。

スターリンはこの一言で自分が確保した領土の広大さを誇示したのだった。


コラム ソ連軍の掠奪・強姦

ブダペスト占領後のソ連軍は、司令官が「勝利の褒美」として、兵たちに無礼講を許したため、掠奪や強姦が公然と行われた。

掠奪は大規模に行われた。美術品は持ち去られ、金庫の扉は爆薬で吹き飛ばされた。市民たちは通りでいきなり銃口を突きつけられ、時計や財布などを奪われた。兵士たちは乳母車を押しながら、戦利品探しに狂奔した。家探しの後には放火も行われた。

仮設病院の看護婦たちは強姦されたあと、ナイフで一突きにされた。女子大生もまっさきに犠牲となった。とりわけ目立つ美人たちは、2週間ほど拘禁され、強制売春の対象とされた。… 母親たちがその子供、夫の目の前で酔った兵士たちにより強姦された。

東プロイセンからドイツ本土に逃げる人々もソ連軍兵士の犠牲になった。あるソ連軍兵士はその模様を次のように記している。「道路はすべて、老人と女子供で埋まっていた。… わが軍の兵士は戦車兵も歩兵も砲兵も通信兵も彼らに追いつき、道路を空けるため、かれらを押しのけた。馬も荷車も家財道具一式も、路肩の溝に追いやられた。しかるのち、数千人の男たちが、老婆と子どもをはじいた。…母親やその娘が街道の左右両脇に寝かされ、各人の前には哄笑する男たちがズボンを下ろして立っていた。母親を何とか救おうとして、まとわりつく子供たちが撃たれた。… 笑っている将校もいたけれど、なかにはこの事態を自ら仕切り、部下の兵士が残らず“行事”に参加できるようにした幹部もいた。それは仲間に加わるための通過儀礼とか復讐とかではなく、単なる極悪非道の、不快きわまる集団暴行にすぎなかった」。

当時のドイツ領内で強姦された女性は200万人にのぼり、被害が最も多かったのは東プロイセンだと考えられている。

ビーヴァーは次のように述べている。「この無慈悲な一連の行動をたんなる性欲や復讐心で片付けるのは、いささか大雑把すぎる。まず第一に、強姦に参加せず、戦友たちの行動に恐怖心をいだいた将兵が極めて多かった事実が挙げられよう。きわめて苛酷な最前線の生活は、別種の社会を形成し、多くのものが集団農場に対する憎悪や、日々の生活を支配していた抑圧について驚くほど率直に語るようになっていた。…

スターリンの統治時代、愛や性をめぐる想いは、「個人の非個人化」を目指す政治環境のもと、容赦なく抑え込まれた。… 兵士たちはこれまで耐えてきたこうした非人間的な扱いだけでなく、あまりに多くの、しかも何らの成果にもつながらなかった、吶喊(とっかん)攻撃による無意味な犠牲にも強い憤りの感情を覚えていた。… 自分たちがじっと耐えてきた過去の侮辱や苦しみを一気に解放したいという誘惑は圧倒的で、それがいま、最も弱い立場にある敵国の女に向けて噴き出したのである」。
筆者は、これとほぼ同様なことが日本軍についてもいえると思う。

(参考文献:ビーヴァー「第2次世界大戦(下巻)」,P302-P303、P310-P311、P434)


5.5.3項の主要参考文献

5.5.3項の註釈

註553-1 バグラチオン作戦

ビーヴァー「第2次世界大戦(下巻)」,P123-P125 大木「独ソ戦」,P204- 太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P107-P109

{ ドイツの総統大本営は、ソ連の夏季攻勢の目的がドイツの中央軍集団の撃滅だとは考えていなかった。せいぜいレニングラードから打って出て、フィンランド軍に襲いかかり、さらにプリビャチ沼沢地に新たな猛攻を加え、ポーランド南部とバルカン半島をうかがう程度だと思っていた。
だが、スターリンは、復讐より実益を優先すべきだと考えており、この局面でフィンランド軍を粉砕する考えはなかった。スターリンの思惑通り、北方に向けた一連の作戦行動により、ヒトラーの注意は白ロシアから逸れてしまったのである。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P124<要約>)

註553-2 ミンスク陥落

ビーヴァー「同上(下巻)」,P125-P133 大木「同上」,P206-P207

{ ミンスクでは復讐は容赦なく実行された。グロ-スマンは書いている。「ひとりのパルチザン、その小柄な男は二人のドイツ兵を棍棒で撲殺した。護送隊の見張り役にかけあって、その二人を手に入れた。娘のオーリャと二人の息子を殺したのは、こいつらに間違いないと彼は思った。そこでまずかれはすべての骨を折り、次いで頭蓋骨を砕き、打擲しながら泣き叫んでいたという。『くらえ、こいつはオーリャの分だ。くらえ、こいつはコーリャの分だ』と。二人のドイツ兵が息絶えると、その男は死体を木の幹に立てかけて、さらに殴り続けた」}(ビーヴァー「同上(下巻)」、P133<要約>)

註553-3 ルーマニアとブルガリア

ビーヴァー「同上(下巻)」,P134,P220 大木「同上」,P209

註553-4 ハンガリー

ビーヴァー「同上(下巻)」,P237-P240,P293-P304 大木「同上」,P209

{ 1月末、ソ連軍は火炎放射戦車や強襲部隊を繰り出し、その攻撃は激しさを増していった。ドイツ・ハンガリー両軍の人的損耗は上昇の一途で、負傷者は各所の仮設病院に詰め込まれたが、どこも身震いするほど劣悪な環境だった。… 内側から結界を破り、ブダペストを強行脱出する計画が起案されたが、ヒトラーによってすべて却下された。ヒトラーはとことん死守せよの一点張りだった。}(ビーヴァー「同上(下巻)」、P299)

註553-5 ポーランド

ビーヴァー「同上(下巻)」,P136,P165-P173,P179-P182 大木「同上」,P207-P209 太平洋戦争研究会「同上」,P108-P109,P114

{ 親衛隊の別動隊が展開する野蛮で、意味もなく残酷な殺害行為はいまだ終わらず、ポーランド国内軍は必至の抵抗を見せていた … ドイツ軍砲兵と急降下爆撃機による砲爆撃を頭上に受けつつ、ポーランド人は地下室や地下水道にこもって、なおも奮戦を続けた。…}(ビーヴァー「同上(下巻)」、P179)

{ ポーランド軍の総司令官…シミグウィ元帥が言うように、「相手がドイツ人だと、われわれは自由を失う恐れがあるが、相手がロシア人だと、魂までも失いかねない」というのが同国の基本認識なのだ…}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P44)

註553-6 ギリシア

ビーヴァー「同上(下巻)」,P278-P284

註553-7 ローズヴェルトとチャーチルの戦後観

ビーヴァー「同上(下巻)」,P224

註553-8 パーセンテージ協定

ビーヴァー「同上(下巻)」,P224-P227