日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.5 第2次世界大戦_終戦へ / 5.5.2 ノルマンディ上陸作戦

5.5.2 ノルマンディ上陸作戦

映画「史上最大の作戦」で有名なノルマンディ上陸作戦は、ドイツ占領下の北フランス・ノルマンディ海岸に連合軍が大量の艦艇・航空機の支援を受けて上陸を敢行し、ドイツの敗北を決定的にした作戦である。

図表5.15(再掲) 第2次世界大戦_終戦へ

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(1) オーヴァーロード作戦註552-1

北フランスへの上陸作戦は、スターリンの「第2戦線」構築の依頼もあり、1942年から検討が進められてきたが、イギリスが地中海方面を重要な戦場と見なしたのに対して、アメリカは早くから北フランスへの侵攻を主張していた。1943年1月のカサブランカ会談(5.4.5項(7)参照)では、北アフリカ戦線の優先度をあげることになったが、1943年11月末のテヘラン会談(5.4.4項(6)参照)では、北フランスへの上陸作戦を1944年5月に決行することが決定した。

「オーヴァーロード作戦」と名づけられたこの作戦の詳細な策定作業が始まったのは、最高司令官にアイゼンハワー元帥が任命された後、1944年1月になってからだった。

(2) 上陸決行註552-2

計画では6月5日が上陸決行日であったが、6月4日は暴風雨で5日の決行は延期され、その後5日夜にはやや回復するとの天気予報が出たため、アイゼンハワーは6月6日の決行を決定した。
6月5日の夜、BBCのラジオ放送はヴェルレーヌの詩を朗読した。それはフランスのレジスタンスに、24時間以内に上陸作戦が開始されることを告げる暗号メッセージだった。

ドイツ軍はこのメッセージが上陸決行の暗号であることを知っており、関係方面の部隊に連絡するとともに、国防軍総司令部にも連絡したが、情報は無視された。ドイツ軍は連合軍の上陸拠点をカレーと推定しており、ノルマンディ方面の防衛力は手薄であった。

6月5日の夕刻から作戦は開始された。まず、パラシュート部隊が輸送機に乗り込み、6日午前零時過ぎから上陸地点の後方に降下をはじめた。海上では掃海艇が機雷の除去作業を行い、そのあと午前5時過ぎから戦艦、巡洋艦による艦砲射撃を開始、同じころ、イギリス本土を発進した爆撃機がドイツ軍基地を攻撃しはじめた。そして、午前6時半、歩兵17万人の上陸が開始された。

図表5.16 ノルマンディ上陸作戦地図

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出典)太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P101 をもとに作成。

(3) 上陸直後の戦闘註552-3

上陸は、連合軍がそれぞれコードネームをつけた5つの海岸から行われた。西側のユタとオマハの海岸はアメリカ軍が、東側のゴールド、ジュノー、ソードの各海岸はイギリス軍とカナダ軍が担当した。

西側の海岸

コタンタン半島の付け根にあたるユタ海岸は、比較的すんなりと上陸を果たし、人的損耗も少ないまま内陸部へ進むことができた。しかし、その東隣のオマハ海岸は剣呑な地形に加えて、支援爆撃でドイツ軍陣地にほとんどダメージを与えられなかったため、激しい抵抗により多大な損亡を被ったが、夕刻までになんとか橋頭堡を確保した。

東側の海岸

オマハ海岸の東隣にあるゴールド海岸を担当したイギリス軍は短期間で内陸部に進んだ。上陸した日の夜には、バイユーという町の手前まで行き、翌日この町を確保した。しかし、その東のジュノー海岸を担当したカナダ軍は、ドイツ軍が堅固な防衛陣地を築いていたため、厳しい戦いを強いられた。最も東のソード海岸のイギリス軍は、思わぬ高潮に襲われて戦車の陸揚げにもたついたり、上陸後は地雷に悩まされたりした。それでもこの軍はイギリス人らしく上陸後にティータイムをとる余裕を見せたが、その間に敵が防御態勢を作ってしまい、進軍を大幅に遅らせることになった。

連合軍はこの日以後も続々と部隊を上陸させ、10日間で約60万人、7月末までに150万の兵員と物資を揚陸させた。しかし、上陸後の拠点確保には時間がかかり、ノルマンディ地区からドイツやパリに向けて進軍するのは8月になってからであった。

なお、7月1日までの連合軍の死傷者、行方不明者62千人は予想を大きく下回ったとされている。

(4) ノルマンディ周辺での戦闘註552-4

西側の戦い

ユタ海岸とオマハ海岸から上陸したアメリカ軍がまず目指したのは、コタンタン半島先端にあるシェルブール軍港であった。上陸した部隊はすでにパラシュートで降下していた空挺部隊と合流して攻撃を開始し、6月26日、シェルブールを陥落させた。

次の目標は、コタンタン半島の付け根にある街サン・ローであった。ドイツ軍はこの地方独特の農地を区切る生垣(ポカージュ)を利用した掩蔽豪を使って頑強に抵抗した。7月25日、アメリカ軍は「コブラ作戦」と呼ばれる大攻勢を開始した。猛烈な絨毯爆撃に続いて、機甲師団と歩兵が進撃し、7月末までにサン・ロー一帯を確保した。

東側の戦い

ゴールド海岸など西側から上陸したイギリスおよびカナダ軍の目標は、海岸から少し入ったところにある街カーンであった。カーンにはロンメルが配置したドイツ西方装甲集団がおり、攻撃を担当したモントゴメリー将軍を苦しめた。サン・ローと同様に、カーンでも空爆との連携作戦が勝利の鍵となった。7月6日、イギリス空軍が古都カーンを爆撃、住民に犠牲者がでた。翌日、地上軍の攻撃によりカーンの北部と中央部を確保した。続いて7月18日にはカーン南部についても同様の攻撃を行った。

(5) ヒトラー暗殺未遂事件註552-5

ノルマンディ地区での連合軍勝利が確定しつつあり、東部戦線ではソ連軍がミンスクを解放しポーランドに迫っていた1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件が起きた。暗殺を企てたのはドイツ国防軍の反ナチス将校たちで、ヒトラーを暗殺して新政権を樹立し戦争を終わらせようと考えていた。

実行犯となった国内予備軍参謀長のシュタウフェンベルク大佐は、7月20日午後零時半から東プロイセンのドイツ大本営で開催された会議に出席し、ヒトラーの席の近くに時限爆弾を入れたブリーフケースを置いてその場を去った。まもなく爆弾は爆発し、何人かが死んだが、ヒトラーは軽い傷だけで生き残り、そのあとに行われたムッソリーニとの会談にも出席した。

事件後、ゲシュタポ(秘密警察)および親衛隊によって、ナチ政権への敵対者とその関係者5000人以上が逮捕・処刑され、軍の影響力は低下してナチスの影響力が強くなった。国民の大半は、総統の命が狙われたことに衝撃を受けていたが、東部戦線の兵士の一部には共感する兵士もいた。

(6) 連合軍、南フランスへ上陸註552-6

1944年8月15日、連合軍は南フランス地中海岸のマルセイユとニースのあいだのコートダジュールに総勢151千人を上陸させた。参加した部隊の大半は、イタリア遠征からの転戦組である。
チャーチル及びこの作戦を統括したアレグザンダー元帥は、バルカン半島方面への上陸を主張していたが、結果的にはこの作戦を行ったからこそ、ドイツ軍を早期撤退に追い込めた、と考えられている。

(7) 連合軍、パリ入城註552-7

ドイツ軍を包囲・撃滅

サン・ロー及びカーンを確保した連合軍は、カーンの南にある街ファレーズ周辺でドイツ軍の大包囲網を作り、8月15日頃からその包囲網を少しずつ閉じていった。ドイツ軍は総崩れとなり、8月20日過ぎまでに多くはセーヌ川を渡ってドイツに戻り、残りは連合軍の捕虜となった。

アイゼンハワーとド・ゴールの思惑

アイゼンハワーにとっては、ここでパリに寄り道せずに、そのままドイツ軍を追ってドイツ国境に迫るのが最優先の選択肢だった。しかし、ド・ゴールにとっては、自分たちが最初にパリに入城することが最重要であり、8月19日にアイゼンハワーを訪問して、パリへの進軍を要求した。ド・ゴールが恐れたのは、共産党系のレジスタンスが民衆の蜂起を煽り、革命政権を樹立することだった。

パリ市内の様子

このとき、パリを管轄していたのはドイツのコルティッツ大将で、彼はヒトラーからパリを死守し、最後には徹底的に破壊せよ、と命じられていた。

8月15日、パリの警察などがストライキに入った。共産党系レジスタンスは蜂起を呼びかけ、19日には平服姿の警官たちがパリ警視庁を占拠した。翌20日、ド・ゴール派も蜂起し、主要政府庁舎を支配下に置くという戦略のもと、まずはパリ市役所を占拠した。道路にバリケードが築かれたり、ドイツ兵が襲われたり、街は騒然とした状況になっていた。

パリ入城

こうした状況下でアイゼンハワーはパリ入城を認めざるをえないと判断した。24日にはパリ郊外で戦闘が行なわれたが、連合軍に参加していたド・ゴール派のルクレール将軍率いるフランス機甲師団の一部が市内に一番乗りした。翌8月25日、ルクレール将軍の本隊とアメリカ軍がパリに入城し、「暴動とみまごうような底抜けの大歓迎」を受けた。コルティッツ将軍はパリを破壊することもなく降伏に応じた。
パリの各官庁にはド・ゴールが派遣した人間がそのまま居座ったので、「フランス共和国臨時政府」は、ド・ゴール支配下となった。


コラム 独ソ軍兵士と英米軍兵士

アメリカ陸軍軍医総監によると、アメリカの前線部隊における戦争神経症などの精神疾患の発症率は10%だったという。一方、戦後にドイツ人捕虜を調査した結果によれば、戦争神経症の割合は極端に少ないことが判明しており、その要因は「1933年以来続けられたナチ政権の宣伝工作の結果、ドイツ兵の心理的気構えは別格になっていた」と考えられている。この伝で言えば、ソ連社会の生活そのものの厳しさが結果的に赤軍将兵を鍛え上げ、タフな兵士に変えたといっても過言ではないだろう。(筆者註 同様のことは旧日本軍兵士についても言えるのではないだろうか。) 
結局、西洋民主主義国の軍隊が、独ソ両軍と同等の逆境に耐えうると期待すること自体、相当無理があるということである。

この違いは戦闘方法にも表れてくる。ドイツ軍は火砲や航空機の数的劣位を克服するために、様々な工夫を施していた。サン・ロー北方の農村地帯では、農地を区割りする生垣(ポカージュ)の基盤部分は背の高い頑丈な土手でできており、そこにドイツ兵は掩蔽豪を作っていた。それを作るには恐ろしいほどの根気と労力が必要だったと思われるが、機関銃を設置した壕はきわめて頑丈だった。

ドイツ兵たちは砲弾があけたクレーターに地雷を埋めておき、身を隠そうと飛び込んだアメリカ兵の脚が吹き飛ばされるようにしていたし、小径にはアメリカ兵が去勢地雷と呼んでいる対人地雷を仕込んでいた。こちらは、空中にポンと上がって、股間辺りで爆発するようになっていた。

アメリカ軍は「マーチング・ファイア」と呼ばれる戦術――歩兵部隊が前進するとき、敵が隠れていそうな場所に絶えず銃弾を浴びせながら進む――に頼るようになった。この戦術は弾薬が十分に使えなければ成立しない。

ドイツ兵がひとり、両手をあげて降伏のポーズをとる。アメリカ兵数人がその兵士を捕虜にしようと接近すると、当人は横っ飛びで身を隠し、背後に控えた機関銃がアメリカ兵を薙ぎ払うという手口もあった。こんな目に遭えば、捕虜を取ろうとするアメリカ兵がいなくなったのも無理もない。

さらに、市民を無差別に殺害する都市の絨毯爆撃を、民主主義国の司令官たちは自軍兵士の犠牲を減らすために行う傾向がある。

(参考文献: ビーヴァー「第2次世界大戦(下巻)」,P144-P147)


5.5.2項の主要参考文献

5.5.2項の註釈

註552-1 オーヴァーロード作戦

ビーヴァー「第2次世界大戦(下巻)」,P88 大平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P92

註552-2 上陸決行

ビーヴァー「同上(下巻)」,P104-P110 大平洋戦争研究会「同上」,P98-P100

註552-3 海岸線での戦闘

ビーヴァー「同上(下巻)」,P110-P114 大平洋戦争研究会「同上」,P100

激しい戦闘が行われたオマハ海岸の様子を従軍したある兵士は次のように書いている。

{ 一部のボートは人や装備をおろしたあと戻ってきたが、残りのボートは砂州にはまり、依然もがいていた。船底がひっかかり、身動きがとれないもの、… 転覆し乗っていた兵士たちを海中に放り出したボートもみかけた。砲弾で激しく傷つき、波に煽られているもの。兵士たちの姿はなく、まるで廃船のように波に洗われているもの。男たちは、そうした船体のあいだにいて、大して役に立たないそれらを楯に必死にあがいていた。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P111<要約>)

註552-4 ノルマンディ周辺での戦闘

ビーヴァー「同上(下巻)」,P114-P116、P120-P121、P147-P151、P163-P164 大平洋戦争研究会「同上」,P100

{ モンティ(モントゴメリー将軍)は7月6日、イギリス空軍に対しカーンの空爆を要請した。この空爆作戦は大半の爆弾が目標を外れた。外れた爆弾が降り注いだのはノルマン王朝ゆかりの古都カーンである。民間人に比べるとドイツ軍の損耗は軽微であり、カーン市民が隠れた犠牲者となった。
地上の英加両軍が攻撃を開始したのは、翌朝になってからだった。ドイツ軍は連合軍側に多大な犠牲を強いたが、突如姿を消した。なんと撤退せよとの命令が届いたのだ。英加両軍はここぞと前進し、カーンの北部と中央部を確保した。}(ビーヴァー「同上(下巻)」,P147-P148<要約>)

註552-5 ヒトラー暗殺未遂事件

ビーヴァー「同上(下巻)」,P154-P163 大平洋戦争研究会「同上」,P102

{ ノルマンディ戦線の兵士たちは、国家への忠誠を改めて誓うタイプか、戸惑いがちなタイプに2分できるように思われる。一方、東部戦線の兵士の一部には、変化の必要性について大胆な文言を連ねるものがいた。ある一等兵は手紙に次のように書いている。「政権の転換が必要であることを非常によく分かっている。われわれドイツ人にとってこの戦争はいかなる希望ももたらさないものだから。もし、ヒトラー、ゲーリング、ゲッペルスがこの世から消えたら、全ヨーロッパがホッとするだろう。それとともに戦いは終わるはずだ。人類には平和が必要だから。…」(ビーヴァー「同上(下巻)」,P161<要約>)

註552-6 南フランスへ上陸

ビーヴァー「同上(下巻)」,P173-P174 大平洋戦争研究会「同上」,P103

註552-7 連合軍、パリ入城

ビーヴァー「同上(下巻)」,P173-P178 大平洋戦争研究会「同上」,P103-P104

{ 8月22日、アイゼンハワーとブラッドリーの両将軍は、フランス側の説得を受け入れ、パリ入城をやらざるを得まいと覚悟を決めていた。だが、アイゼンハワーは、ワシントンのマーシャル参謀総長、ローズヴェルト大統領に了解を求めるにあたって「この決定は純軍事的なものです」と言わざるを得なかった。大統領をさしおいてアイゼンハワーが、ド・ゴールを権力の座につけようとしていると思われたら、ひどい怒りをかうことは目に見えていた。}(ビーヴァー「同上(下巻)」、P177<要約>)

ローズヴェルトはド・ゴールがお気に召さず、「連合軍はあの男を権力の罪につけるためにフランスを開放するわけではない」と側近たちに述べていたのである。(同、P100)