日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.5 第2次世界大戦_終戦へ / 5.5.1 イタリア降伏

5.5 第2次世界大戦_終戦へ

スターリングラード攻防戦(~1943年1月)を転機として枢軸国側の劣勢は顕著となり、1943年9月にはついにイタリアが降伏、ドイツもノルマンディ上陸作戦など連合軍の大攻勢の前に敗退を続け、1945年4月30日、ヒトラーが自殺して5年半に及んだヨーロッパでの戦争は終わった。

図表5.15 第2次世界大戦_終戦へ

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5.5.1 イタリア降伏

北アフリカで枢軸軍に勝利した連合軍は、続いてシチリア島からイタリア本土に侵攻した。イタリア国民の支持を失ったムッソリーニは失脚、後任の政権は連合軍と休戦協定を結ぶが、ヒトラーは幽閉されていたムッソリーニを救出してドイツの傀儡政権の首班として、連合軍への抵抗を続けさせた。傀儡政権による抵抗は、北イタリアにおいて1945年4月まで続いた。

(1) イタリア侵攻決定註551-1

1943年1月のカサブランカ会談において、連合軍は北アフリカ戦線終了後、シチリア島に上陸しイタリアの降伏を目指すことが決定したものの、アメリカ軍首脳にはイギリスに「地中海という名の散策路」に引きずり込まれた、という被害者意識を持つ者が多かった。彼らにとって、1944年春に予定されている北フランスへの上陸作戦や、日本との戦争の方が優先度が高かったのである。

1943年5月、北アフリカ戦線での連合軍勝利が見えた頃、ワシントンで米英の大統領・首相と双方の軍首脳による会議が開催された。アメリカ側はシチリア侵攻作戦に疑問を呈したが、チャーチルは困難な北フランスに挑むより、イタリアという「ヨーロッパの柔らかい下腹」を襲うべし、さらにスターリンに占領されないようバルカン半島にも上陸すべき、と主張した。バルカン半島の件は却下されたが、シチリア侵攻は認められた。

(2) 連合軍、シチリア島に上陸註551-2

1943年7月10日「ハスキー作戦」が発動され、モントゴメリー将軍率いるイギリス軍とパットン将軍率いるアメリカ軍がシチリア島南部の海岸に上陸した。連合軍の総兵力は48万人(上陸したのは8万人)、対する枢軸軍は25万人(ドイツ軍6万、イタリア軍19万)であった。

モントゴメリーの唯我独尊ぶりに英米両軍の間には摩擦が生じたが、枢軸側はイタリア本土に向け撤退を続け、7月22日にはアメリカ軍が西部の旧都パレルモに入城、7月下旬までには北部メッシーナ周辺を残してシチリア島を制圧した。

(3) ムッソリーニ失脚註551-3

ヒトラー・ムッソリーニ会談

1943年7月19日、北イタリアのフェルトレで二人は会談した。すでにイタリア国民の支持を失っていたムッソリーニは意気消沈し、覇気も決断力もなく、ヒトラーのイタリア批判を黙って聞くしかなかった。ムッソリーニ政権は崩壊しかねない、そう感じたヒトラーはドイツ軍の大規模派遣を決定し、イタリアを占領下におく準備を進めることにした。

ムッソリーニ失脚

7月24日、「ファシスト大評議会」が開催された。大評議会は夜中まで続き、立憲君主制に戻すという動議が提出され、賛成19反対7で可決された。翌日、ムッソリーニは国王から解任を言い渡された後、憲兵に逮捕された。新首相になったパドリオ元帥は、戦争を継続すると宣言したが、ヒトラーはオーストリア=イタリア国境に軍を配備し、イタリアが降伏した時はただちに全土を占領する準備を整えた。

(4) イタリア降伏註551-4

イタリアは政権交代後まもなく、連合軍との休戦交渉をはじめ、1943年9月3日に両者は休戦協定を締結した。9月8日夕刻、休戦協定締結が発表されると、ドイツはただちにローマをはじめイタリア半島全体に軍を展開、イタリア国王とパドリオ新首相は、さっさと南部のブリンディジ(長靴のかかとにあたる所)に逃亡してしまった。

ドイツの情報機関はムッソリーニがローマ北方の山中に軟禁されていることを突き止め、9月12日、武装親衛隊の特殊部隊が救出した。ドイツはムッソリーニを首班とする「イタリア社会共和国」を設立し、連合軍およびイタリアのパルチザン※1との戦闘が繰り広げられた。

※1 パルチザンとは、「外国軍や国内の反革命軍に対して自発的に武器をとって戦う,正規軍に入っていない遊撃兵のこと」、ゲリラとほぼ同義語とみなされている。(コトバンク〔日本大百科全書、ブリタニカ国際大百科事典〕)

(5) イタリア全土解放へ註551-5

1943年9月3日、連合軍はイタリア半島南部に上陸した。続いて9月9日、連合軍はナポリ南部のサレルノへの上陸作戦を敢行したが、頑強に抵抗するドイツ軍に連合軍は多数の犠牲者を出した。9月15日、海と空からの支援爆撃によってドイツ軍の抵抗は終り、10月1日連合軍はナポリに入城した。ドイツ軍はこの後もナポリからローマの間に何重もの防衛線を構築して連合軍に対抗したが、1944年6月にローマは連合軍によって解放された。

一方、北イタリアでは1943年9月の休戦協定発表からまもなく、反ファシズム活動を行ってきた諸党派によって国民解放委員会(CLN) ※2が結成され、イタリア北中部をドイツ軍、ファシストから解放するための活動を展開した。武器をとって武力闘争を行うパルチザン部隊には全体で10万人前後の人々が参加し、その中には女性も多かった。彼らは主に山岳地帯でゲリラ戦をしかけた。

1945年4月、北イタリアでパルチザンは一斉蜂起、4月25日にミラノが解放され、ムッソリーニは人民裁判の結果処刑された。

※2 国民解放委員会(CLN)は、共産党、社会党、キリスト教民主党、自由党、行動党の5党派で構成され、戦後成立するイタリア共和国を支える母体となった。


5.5.1項の主要参考文献

5.5.1項の註釈

註551-1 イタリア侵攻

ビーヴァー「第2次世界大戦(中巻)」,P449-P451

註551-2 連合軍、シチリア島に上陸

ビーヴァー「同上(中巻)」,P452-P464,P468-P472 大平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P93

{ モントゴメリーより先に、メッシーナを取ってしまえ! 熱き血潮のパットン将軍は部下たちにそう下知をとばした。多くの将兵が熱気や脱水症状、マラリアや下痢、デング熱やパパタシ熱にやられ、戦闘以外の犠牲者が途方もない比率に達しているというのに。
ドイツ軍は、橋を爆破したり、地雷を埋めたりしてアメリカ軍を悩ませた。特に死体にブービートラップを仕かける手口はアメリカ兵を激怒させ、時にそれは捕虜への報復行為につながった。英米両軍の砲爆撃により、途方もない数の民間人が犠牲となっていた。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P468-P469<要約>)

註551-3 ムッソリーニ失脚

ビーヴァー「同上(中巻)」,P465-P468 大平洋戦争研究会「同上」,P93

{ ムッソリーニはすでに、わが国民のことを、あのごく潰しども、この私の指導を受ける価値さえもない連中と見切っていた。ただ、“私の指導"とは言うけれど、ムッソリーニはヒトラー同様、これまで一度も前線に足を運んだことがなく、また空襲の後に犠牲者を見舞うこともなかった。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P465)

註551-4 イタリア降伏と本土侵攻

ビーヴァー「同上(中巻)」,P452-P470 大平洋戦争研究会「同上」,P93

註551-5 イタリア全土解放へ

ビーヴァー「同上(中巻)」,P474-P481 大平洋戦争研究会「同上」,P94 「イタリア史10講」,Ps2724-

{ イギリスの傍受・解読機関が得た情報によると、ヒトラーは一時、イタリアの大部分から撤退する計画だったが、ケッセルリング空軍元帥の強い要望を受けて、総統大本営は考えを改めたことが判明した。ロンメル元帥は全面撤退を進言したけれど、同盟関係をむすぶバルカン諸国への悪影響をヒトラーが懸念したことと、連合軍の侵攻が意外ともたついていることから、全面撤退案は却下された。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P481<要約>)