日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.4 独ソ戦と北アフリカ戦線 / 5.4.5 北アフリカ戦線

5.4.5 北アフリカ戦線

リビア、エジプトを舞台にした北アフリカ戦線は、イタリアが枢軸国側で連合国に宣戦布告した後の1940年9月、当時イタリアの植民地だったリビアから、イギリスの支配下にあったスエズ運河を目指して、イタリア軍がエジプトに侵攻したことから始まった(5.3.5項(2)参照)。その後ドイツが加わり、双方が一進一退のシーソーゲームを繰り広げるが、1943年5月、ドイツ・イタリア軍は降伏して北アフリカ戦線は終息する。

図表5.11(再掲) 独ソ戦と北アフリカ戦線

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(1) ロンメル登場註545-1

イギリスは1940年12月9日から「コンパス作戦」を開始し、イタリア軍を押し戻してリビアに侵入、トブルクとその西にあるベンガジを占領した。ヒトラーはリビアに興味はなかったが、ここでイタリアの敗北が決定的になれば、枢軸国側として打撃となる一方で連合国の士気が上がることは必定と考え、ロンメル将軍に1個軍団を託し、北アフリカに派遣した。

ロンメルは1941年2月10日、ローマで会合をこなした後、2日後にトリポリに入った。ロンメルがイタリア軍を含めた北アフリカの枢軸国軍全体の総司令官となることをムッソリーニも認めざるを得なかった。ドイツ軍の準備が整い、作戦行動に移れたのは1941年の4月初めであった。

(2) トブルク攻防戦(1941年4月~1942年1月)註545-2

1941年4月3日、ロンメルは手始めにベンガジに攻勢をかけ、驚いたイギリス軍があっさり兵をひくと、続けて、トブルクを包囲してしまった。トブルクを守備していたオーストラリア軍は、海側からの補給を受けて強力な砲兵部隊や対戦車砲部隊も入手し、ロンメルに対抗した。

その後、補給がままならないドイツ軍は、攻勢をかけてくるイギリス軍を突き返すのが精いっぱいでトブルクを落とすことはできないまま時間が過ぎていった。1941年11月、トブルク周辺で両軍は激突し、ドイツ軍はイギリス軍を撃退したものの、補給面で危機に陥っており、いったんトブルクの包囲を解いて、西側に後退した。その結果、1942年1月初めには1年前のスタートラインまで戻ってしまった。

図表5.10(再掲) 北アフリカ戦線地図

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出典) 太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」やGoogleマップをもとに作成。
モロッコとアルジェリアはフランス領、リビアはイタリア領、エジプトはイギリスの影響下にあった。

(3) トブルク陥落(~1942年6月)註545-3

いったんスタートラインまで戻ったロンメルではあったが、1月に入っていくぶんかの補給を受けると、1月21日、再び東に向かって進撃をはじめた。イギリス軍はトブルクの西にあるガザラまで撤退し、しばらくの間、両軍はガザラで物資補給のために対峙することになった。

1942年5月26日、ロンメルはガザラに築かれたイギリス軍の防衛線を迂回してトブルクを攻略する作戦を開始した。イタリア軍の歩兵師団がガザラ防衛線の北半分に攻撃をかけるかたわら、ドイツとイタリアの装甲師団は南側から攻撃をしかけた。連合軍は、ド・ゴール率いる自由フランス軍も加わって頑強に抵抗したが、ロンメルの果敢な攻めに圧倒され、ついに6月14日、東のエジプトに向けて撤退を始めた。

6月21日、ドイツ軍は空軍の支援も得て総攻撃をしかけ、ついにトブルクを陥落させた。連合軍は退却に当たって、燃料や食糧を廃棄しなかったため、ドイツ軍は大量の物資を入手することができた。バルバロッサ作戦発動1周年にあたるこの日に吉報を受けたヒトラーは大喜びで、49歳のロンメルを元帥に昇進させた。

(4) エル・アラメイン攻防戦(1942年7月~11月)

エル・アラメイン第1次戦註545-4

ロンメルはトブルク陥落前からエジプト、中東を目指すつもりでいたので、陥落後ただちに連合軍の追撃に入った。連合軍は、リビア国境からわずかにエジプトに入った小さな町エル・アラメインまで全軍を撤退させた。この町の周辺には沼沢地と流砂が広がっており、防衛ラインを構築しやすかったのである。

7月に入ると両軍の間に戦闘が始まったが、両軍ともに決定打を欠いて押したり引いたりの繰り返しだった。その中でイギリス空海軍が行ったドイツ輸送船団への攻撃やドイツ空軍の飛行場への激しい攻撃により、ロンメルは攻勢を一時中断せざるを得なかった。

モントゴメリー司令官註545-5

8月3日、チャーチルはソ連に向かう途中カイロに寄って檄をとばすとともに、イギリス第8軍の司令官にモントゴメリー中将を任命した。「モンティ」という愛称で呼ばれたモントゴメリーは、うぬぼれが強い野心家であったが、軍事面では保守的で細部まで部隊運用を決めて粛々と動かすやり方を好んだ。モンティは、勝利が確信できるまで時間をかけて準備を整えることに専念した。

ロンメルが率いる独伊軍は7月の攻勢で損耗が激しかったにもかかわらず、イギリス空海軍の攻撃で補給船が撃沈されて補給はままならなかったが、ムッソリーニの圧力もあって8月30日に攻勢をかけた。これに対して、モンティは軽くあしらうだけで防御に徹したため、ロンメルは9月5日に攻撃を中止した。

北アフリカの戦いはもはや潮目が変わり、枢軸側に不利になっていることはロンメルもわかっていた。

エル・アラメイン第2次戦註545-6

ロンメルは、ストレスからくる低血圧症と腸疾患の治療のためドイツ本国に帰国した。

イギリス軍は、アメリカからシャーマン戦車や航空機などの供給を受けて戦車1000両、兵力22万を超える大部隊に成長していた。対するロンメル軍は、輸送船が沈められて燃料と弾薬は不足し、戦車もわずか270両しかなかった。

10月23日、モントゴメリー軍の大攻勢が始まった。戦力に劣るドイツ軍ではあったが、その抵抗は激しくモンティの思惑通りには進まなかった。10月25日夜にはドイツからロンメルも戻ってきた。11月2日未明、モンティは大規模な砲爆撃で始まる攻勢をかけ、ドイツ軍は後退せざるを得なくなった。

ロンメルはヒトラーに撤退の許可を求めたが、11月3日ヒトラーからは「一歩たりと後退せず、すべての武器と兵を戦闘に投入せよ」との命令が届き、ロンメルはいったんはそれを受け入れたものの、まもなく全軍退却を命じた。この退却行はエジプト・リビアの国境を越え、さらにリビアを横断してチュニジアまで続くことになる。ロンメルが退却を始めた直後の11月8日、連合軍はモロッコのカサブランカ、チュニジアのオラン、アルジェに上陸した。

(5) トーチ作戦(1942年11月)

トーチ作戦の実施決定註545-7

トーチ作戦とはアメリカ・イギリス両軍による北アフリカ沿岸への上陸作戦である。この作戦が決定したのは、1942年6月下旬から7月にかけてチャーチルがワシントンを訪問し、ローズヴェルトと会談したときである。この頃アメリカ国内には、イギリスは中東における権益確保のために北アフリカ戦を戦っているに過ぎないのではないか、という疑念があり、それは当を得ている部分もあった。チャーチルはこうした疑念を払うため、ローズヴェルトにこの作戦の必要性として次の2点を訴え、ローズヴェルトも特に2点目の理由に納得してトーチ作戦の実施が決定した。

・もし、イギリスがエジプトを失い、ロンメル軍とカフカスのドイツ軍が合流したら、中東の石油はすべてドイツのものになってしまい、そうなると日本軍が活動領域をインド洋西部まで広げてくる可能性がある。

・いきなり北フランスに上陸して強力なドイツ軍と戦うのではなく、北アフリカで上陸作戦のリハーサルを行い、ドイツ軍との実戦経験を積んでおくべきである。

連合軍上陸註545-8

アメリカのアイゼンハワー将軍を総司令官とする上陸部隊は、総勢およそ10万人、上陸地点はモロッコのカサブランカ、アルジェリアのオランとアルジェの3カ所であった。この当時、モロッコもアルジェリアもフランスのヴィシー政権の支配下にあった。

1942年11月8日、3か所の連合軍は一斉に上陸を開始した。これに対してヴィシー政権軍との間で戦闘が起き、アルジェではまもなくヴィシー軍司令官との間で停戦合意が成立したが、オランとカサブランカでは海戦も行われ、戦闘が終結したのは11月11日だった。連合軍側は2225人の犠牲者(およそ半数は戦死)、ヴィシー側は約3000人の犠牲が出た。

ヒトラ―の反応註545-9

連合軍はヨーロッパを攻める前進基地として北アフリカを確保しようとしており、それを見過ごせば、イタリアは戦争から降りてしまう、とヒトラーは考えた。ちょうどこの頃、ドイツはスターリングラード攻防戦の真っ最中であったが、ヒトラーは大規模な増強部隊を北アフリカに派遣することを決めた。その結果、輸送部隊は地中海への物資・兵員輸送に割かれ、スターリングラード攻撃部隊への補給が手薄になったことは否めない。

(6) 北アフリカ戦線終結(1942年11月~1943年5月)註545-10

ヒトラーが派遣した増強部隊は、早くも11月上旬にはチュニジアに上陸を始めていた。一方、上陸した連合軍はチュニジアの首都チュニスを目指して東進したが、足並みはそろわないものの、11月下旬から独伊軍との戦闘が始まった。

一方、エル・アラメインを撤退したロンメル軍は西に向かって移動し、1943年1月末にはチュニジアに入った。これを追って、モントゴメリー将軍のイギリス第8軍も西進した。2月に入ると連合軍は東西から独伊軍を攻撃、独伊軍もしぶとく応戦して、連合軍に手痛い打撃を与えることもあった。3月9日、黄疸に苦しむロンメル将軍は治療のためドイツに戻り、ヒトラーに北アフリカ戦線からの撤退を進言したが、ヒトラーはこれを認めず、ロンメルを解任してしまった。

枢軸軍は物量を誇る連合軍にしだいに追いつめられていき、5月初めにはチュニジア北端のビゼルト、チュニスなどで雪隠詰めになっていた。その数は25万人を超えていたが、ドイツ兵は半分に満たず、イタリア兵の過半数は戦闘員ですらなかった。5月6日から始まった連合軍の総攻撃に枢軸軍は5月13日までに降伏し、北アフリカ戦線での戦闘は終了した。

(7) カサブランカ会談(1943年1月14日~23日)註545-11

ローズヴェルト大統領とチャーチル首相は、1943年1月14日から23日まで、モロッコのカサブランカで「連合軍の今後の戦略について方向性を示すこと」を目的に会談が行われた。主な決定事項は次の通りである。


コラム 日本海軍のマダガスカル遠征

1942年3月初め、アメリカが傍受した日本海軍の暗号文から、ドイツが日本に「アフリカ大陸の南端をまわってエジプトに向かうイギリスの輸送船団を攻撃して欲しい」と要請していることが判明した。イギリスはフランスのヴィシー政権下にあったマダガスカル島が日本軍の攻撃拠点に使われることを恐れて、5月上旬、マダガスカル島北端のディエゴ・スアレス港に襲いかかり占拠してしまった。

5月30日、日本海軍の潜水艦がディエゴ・スアレス港に碇泊中のイギリスの戦艦を攻撃して大破させ、北アフリカ戦線への補給物資を積んだ輸送船も撃沈した。しかし、日本軍にとって、自らの主戦場からあまりにも離れた場所であり、戦闘はこれ1回で終わった。この攻撃は、日本が第2次世界大戦でドイツを直接支援した唯一の事例である。

(参考文献:ビーヴァー「第2次世界大戦(中巻)」,P235-P236)


5.4.4項の主要参考文献

5.4.5項の註釈

註545-1 ロンメル登場

ビーヴァー「第2次世界大戦(上巻)」,P317-P318 大平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P57,P80

註545-2 トブルク攻防戦

ビーヴァー「同上(上巻)」,P357-P364,P452-P460 大平洋戦争研究会「同上」,P80

{ 待てど届かぬ補給物資をじっと待ち続けたあと、ロンメルはついにトブルクの攻撃開始を11月21日と決めた。数字上は45千人の兵員を擁する軍団だったが、栄養不良と病気のせいで11千人の欠員が出ていた。しかも装甲師団の劣化は激しかった。一方、イギリス軍は潤沢な補給のおかげでその装備は一時的にだが充実していた。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P454-P455<要約>)

{ 11月23日、イギリス軍を相手に戦闘が行われた。勝ったのはいちおうドイツ軍だったが、浴びた返り血もかなりのものだった。ドイツ軍は戦車72両を失い、多数の将校及び下士官が命を落とした。翌朝、ロンメルは自ら先頭に立ってイギリス軍を追撃したが、通信状況の悪さなどから現場は混乱した。11月26日、ドイツ軍が使用していた飛行場がイギリス軍(ニュージーランド部隊)に奪われて制空権を失った。ロンメルはドイツ陸軍本部に車両や武器の補充を訴えたが、対ソ戦に苦しむドイツ軍にはそれに答える余裕はなかった。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P457-P460<要約>)

註545-3 トブルク陥落

ビーヴァー「同上(中巻)」,P55-P57、P317-P318 大平洋戦争研究会「同上」,P80-P81

{ 4000トンの各種燃料がロンメル将軍の手に渡った。かれの部下のドイツ兵もそのころ陶然となっていた。かれらは腹を減らし、衣服はボロ切れ同然だったけれど、いまや予想を上回る大量の戦利品を獲得できたからである。「チョコレート、缶入りミルク、野菜の缶詰、ビスケット、それらが木箱のなかでうなっているのです。… イギリス製のシャツと靴下の着心地たるや…」と、あるドイツ軍下士官は故郷に宛てた手紙に書いている。… しかし、イタリア兵はこうした潤沢な物資の分け前に預かれなかった。}(ビーヴァー「同上」(中巻)),P112<要約>)

註545-4 エル・アラメイン第1次戦

ビーヴァー「同上(中巻)」,P116-P122 大平洋戦争研究会「同上」,P82-P83

{ 岩と小石と砂からなるアラメイン線は…、生易しい環境ではなかった。攻撃的なハエやアブ、全身を鞭打つ砂嵐、気力・体力を奪う熱気がかれらを苦しめた。灼熱の太陽のもとでは、戦車は文字通りオーブンと化した。兵士たちは夜になると、本来は寝袋やテントの下に敷くグランドシートで身体をくるみ、サソリを防いだ。兵士たちはまた、ハエなどが媒介する赤痢や砂漠潰瘍と言う名の皮膚病にも悩まされた。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P120)

註545-5 モントゴメリー司令官

ビーヴァー「同上(中巻)」,P124-P128 大平洋戦争研究会「同上」,P83-P80

{ 9月1日、イギリス側はここで大規模反撃に出てくるはずだとロンメルは期待したけれど、モンティはそんな騎兵隊の一斉突撃みたいなことで虎の子の機甲部隊を危険にさらす気はなく、持ち場でじっと身を潜めていろと命じた。そのとき、ロンメルのもとに最悪の知らせが届いた。当てにしていた油槽船が攻撃を受けて甚大な被害をこうむったというのだ。… 9月5日、ロンメルは撤退を命じた。モンティは追撃しなかったが、恐るべきドイツのアフリカ軍団を撃退したことで、イギリス軍の士気はおおいに上がったのである。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P127-P128<要約>)

註545-6 エル・アラメイン第2次戦

ビーヴァー「同上(中巻)」,P224-P234 大平洋戦争研究会「同上」,P84-P85

{ “エル・アラメインの戦い”における勝利は、戦略的もしくは戦術的天分が成し遂げたものではなかった。ドイツ軍の戦線の最も強固な部分を敢えて攻めるというモンティの判断には、少なくても疑問符がつくと思う。かれが率いた歩兵部隊、機甲部隊の面々が勇敢に戦い、かつイギリス第8軍の負け犬根性を一変させたモンティの手腕が、そのことに大きく寄与したことは確かである。ただ、この戦いの勝利において最も貢献したのは誰かとなると、まずはドイツ空軍やドイツ装甲部隊、そしてその補給線を容赦なく叩いたイギリス陸軍砲兵隊と砂漠空軍、ならびに枢軸側の地中海における生命線を寸断したイギリス海軍および連合軍の航空部隊の名を挙げるのが、より適当であろう。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P234)

註545-7 トーチ作戦の実施決定

ビーヴァー「同上(中巻)」,P114-P115

註545-8 連合軍上陸

ビーヴァー「同上(中巻)」,P241-P248 大平洋戦争研究会「同上」,P85

{ 【カサブランカに上陸した】パットン将軍も、【アルジェに上陸した】クラーク将軍も、上陸作戦にさいし様々な齟齬が生じたことはきわめて遺憾だったと認めた。戦う相手が劣悪な装備を抱えたフランス植民地兵ではなく、ドイツ正規軍だったら、連合軍はなぶり殺しに遭っていただろう。… 問題は兵の練度ではなく、組織として統制がとれず、兵站面で混乱が生じた点こそが損耗の根本原因だった。フランス本土への早期侵攻を主張した米陸軍参謀総長マーシャル将軍の構想が、もし仮に実現していたら、その結果は間違いなく壊滅的であったろう。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P247)

註545-9 ヒトラ―の反応

ビーヴァー「同上(中巻)」,P259-P260,P285

{ 「トーチ作戦」に対するスターリンの懐疑的な見方 … にもかかわらず、北アフリカの戦いは、1942年に結局流れた北フランス侵攻作戦よりも、兵力分散効果ははるかに高かったと言えよう。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P260)

註545-10 北アフリカ戦線終結

ビーヴァー「同上(中巻)」,P259-P262,P295-P309 大平洋戦争研究会「同上」,P85

{ 貴重な戦闘員は温存し、南ヨーロッパの防衛に当たらせるべきとの提案が繰り返しなされたものの、いずれもヒトラーの拒否にあった。死守せよ、の一点張りでは兵士の戦意高揚につながらないし、何よりヒトラーは4月と5月にも、北アフリカに増援部隊を派遣し続けるのである。結果的にこれらの助っ人部隊は丸ごと連合軍の捕虜となった。…
戦闘終結後、「いや、この用兵で正しかったのだ」とヒトラーは自らを納得させた。おかげで、連合軍の南ヨーロッパ上陸は遅れたし、ムッソリーニもまだ権力の座にあるではないか、と。」(ビーヴァー「同上(中巻)」,P306,P308-P309<要約>)

註545-11 カサブランカ会談

ビーヴァー「同上(中巻)」,P279-P285