日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.4 独ソ戦と北アフリカ戦線 / 5.4.4 ソ連の反攻

5.4.4 ソ連の反攻

スターリングラード攻防戦に敗れたドイツ軍には前年までのような大攻勢をかける戦力はなくなっていた。南方軍集団司令官のマンシュタイン元帥は、残った戦力を集めてウクライナ東部クルスクでソ連軍に攻勢をかけたが、途中で連合軍がシチリア島に上陸したこともあり、作戦は失敗した。独ソ戦に目途をつけたスターリンは米英首脳とテヘランで会談し戦後の領土拡大に向けた要求を突きつけていく。

図表5.11(再掲) 独ソ戦と北アフリカ戦線

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(1) レニングラードの封鎖解除註544-1

1943年1月14日、レニングラード中心部から西に40Kmほどのラドガ湖畔にあるシュリッセルブルグ要塞にこもるドイツ軍を、ソ連軍はレニングラード市内側と包囲外部の両方向から攻撃した。イスクラ(火花)作戦と呼ばれるこの作戦でソ連軍は34千人の犠牲を出しながらも、レニングラードと"本土"を結ぶ幅12kmほどの陸橋を確保し、レニングラード市内に物資を運ぶことができるようになった。

翌1944年1月14日、周囲に残ったドイツ軍を排除すべく、ソ連軍は攻勢に出た。バルト艦隊からの艦砲射撃も加えた激しい攻撃にドイツ軍は耐えきれず撤退し、1月27日、900日近くに及んだ封鎖は完全に解除された。

(2) ハリコフ争奪戦註544-2

ソ連軍大本営は、枢軸軍が弱体化していると判断し、ウクライナを奪回する作戦を発動した。2月8日にはクルスクを奪回し、同月16日にはハリコフも占領した。この攻勢を受けとめることになったドイツ南方軍司令官マンシュタインは、2月20日反撃を開始した。ソ連軍は補給線が伸び切っていただけでなく、ドイツ軍は総退却していると思い込んでいたので、マンシュタインの攻撃は心理的奇襲になった。3月14日、ハリコフは再びドイツ軍の手に落ちた。

ヒトラーは、夏季攻勢の目標としてクルスク周辺部に展開するソ連軍に狙いを定めた。

(3) クルスクの戦い

城塞(ツィタデレ)作戦註544-3

1941,42年と続いた大攻勢により、ドイツ軍の戦力は減衰し、大規模な攻勢は不可能な状態になっていた。ヒトラーも小規模な攻勢を繰り返すことにより、継戦の条件を整えるべきだと考えていた。しかし、マンシュタインは、ドイツ南方軍集団と中央軍集団が連携し、クルスク周辺に展開するソ連軍に大きな打撃を与える作戦を提案し、これに陸軍参謀総長はじめ将軍たちの多くが賛同したことから、ヒトラーは1943年4月15日、城塞作戦と呼ばれる作戦命令を下達した。

ソ連軍の作戦註544-4

ソ連側も4月8日にはドイツ軍の動きを察知し、準備を始めた。スターリンは先手を打って攻撃を仕掛けることを望んだが、ジューコフらはまず敵の猛攻を受けとめ、戦力を減らしたところを逆転攻勢に出るという方針が採用された。クルスク周辺に強固な防御陣を築くだけでなく、その後背部に多数の予備軍や反撃のための部隊が多数配置される重厚な態勢が準備されたのである。

{ ドイツ軍が持てる装甲部隊のほぼすべてをクルスク突出部に集めた時点で、「城塞」は発動以前に失敗を運命づけられていた。}(大木「独ソ戦」,P179)

作戦開始註544-5

ドイツ軍は7月4日午後から小規模の攻撃を行った後、翌5日、クルスクの南北両側から本格的な攻勢を開始した。北から進撃したドイツ中央軍集団は背後にいるソ連軍を牽制しながらの攻撃となったため、進撃速度は遅かったが、それでも最新鋭のティーガー戦車はソ連軍の戦車を撃破しながらじりじりとクルスク北方を圧迫していった。一方、南から北上した南方軍集団は強力な装甲部隊を先頭に進撃、ソ連軍の戦車部隊を撃破し、マンシュタインは一時ソ連軍を殲滅できるとさえ思った。

作戦中止とソ連軍の攻勢註544-6

7月13日、ヒトラーは突然、作戦の中止を命じた。理由は7月10日に連合軍がシチリア島に上陸して、イタリア本土が脅かされたためだった。ヒトラーは軍の一部をイタリアに送ることを決定した。ソ連軍はドニエツ川全戦線に攻勢を拡大し、数に劣るドイツ軍は西に向けて後退していった。

8月3日、ソ連軍は100万人を超える兵員、2800両の戦車を投入して総攻撃を開始、ドイツ軍の反撃で時に大きな損害を被りながらも、8月23日にはハリコフ市内に突入した。こうしたソ連軍攻勢に対して、ヒトラーは、現在位置を死守せよ、と叫ぶだけだった。

図表5.14 クルスクの戦い地図

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注)大木「独ソ戦」,P177の図をもとに作成。

(4) ドニエプル渡河註544-7

1943年9月なかば、ドイツ軍はドニエプル川東岸近くまで退き、かろうじて戦線を維持していた。9月14日、マンシュタインは、渋るヒトラーを説きつけてドニエプル川西岸への退却を認めさせた。

ドニエプル川は現在のウクライナのほぼ中央を北から南へ流れ、クリミア半島の西の付け根で黒海にそそぐ大河で川幅は広い所で3キロ以上ある。限られた渡河点を通って西岸にわたり、9月末までに北のチェルノブイリ(チョルノービリ)から南のザポロジェ(ザポリージェ)までの700キロに展開を終了させた。

渡河にあたって、ドイツ軍はソ連軍の渡河を妨害するため、「焦土作戦」を実行した。渡河作業や宿泊に使えそうな建物、食糧や家畜、機械類なども徹底的に破棄されるか持ち去られた。それだけでなく、労働者として使えそうな住民数十万人も拉致された。

(5) キエフ陥落註544-8

ドイツ軍にわずかに遅れて、ソ連軍もドニエプル川を渡った。手製の筏や小型ボートなどを使って先を争って渡河に挑戦し、犠牲を出しつつも、西岸にいくつもの橋頭堡を築いていった。

11月1日、近くの橋頭堡から攻撃を開始したソ連軍は、11月6日にはウクライナの首都キエフ(キーウ)を占領した。まもなく、同市の近郊でユダヤ人が大量虐殺されていたことが判明した。1941年9月にこの地で初めて虐殺行為が行われた後、1943年秋までに、ユダヤ人、共産主義者などほぼ10万人がここで殺されたと推計されている。

ソ連軍は引き続きドイツ軍の掃討を続け、春の泥濘期もアメリカが供給した大量の全輪駆動車を駆使してドイツ兵を追い、1944年3月までにドニエプル沿岸のドイツ軍をほぼ掃討し終えた。このとき、マンシュタインは退却を拒むヒトラーの意思に反して退却命令を出していった。

1944年3月31日、ヒトラーはマンシュタインを解任した。マンシュタインは、退却によって獲得した空間を失っても、戦力を温存し、それを使って敵に出血を強いることによって戦争に疲れさせ、妥協による講和を引き出そうとしていた。しかし、ヒトラーはそうした「軍事的合理性」よりも、自身の世界観の貫徹を優先させたのである。

(6) カイロ会談とテヘラン会談

1943年11月下旬、米英中によるカイロ会談、米英ソによるテヘラン会談が開かれ、戦後処理の問題などについて連合国の協議が行われた。

カイロ会談(1943年11月22~26日)註544-9

米英首脳がテヘランに向かう途中、エジプトのカイロで行われることになっていた米英会談にローズヴェルトは中国の蒋介石を招待した。イギリスは乗り気ではなかったが、もはや米国が連合軍の主導権を握っていることを認めざるを得なかった。カイロ会談では、日本が中国から奪った領土の返還、朝鮮の独立、太平洋の日本領の剥奪、日本の無条件降伏まで一致して戦うことなどが、確認された。

テヘラン会談(1943年11月28日~12月1日)註544-10

スターリンは、ドイツ軍をほぼ一手に引き受けていることの代償としてポーランド東部やバルト3国の獲得などを求め、また、フランス北部に「第2戦線」を開くことを求めた。ポーランド東部は独ソ不可侵条約の秘密協定でソ連領となったものだが、米英は内心では「やむをえない」と思いつつ、この場では保留とした。

「第2戦線」については、チャーチルはフランス北部への上陸作戦と並行してアドリア海北部から中部ヨーロッパに向けての軍事行動を行いたいとの提案を行ったが、スターリンもローズヴェルトも反対した。スターリンは連合軍がフランス北部だけを攻め続けることにより、バルカン半島と中部ヨーロッパが手に入れやすくなると考えたのである。

テヘラン会談で決定した主な内容は以下の通りである。


コラム 独ソ戦における捕虜

絶滅戦争の性格が顕著に現れているのが捕虜の扱いであろう。この戦争でドイツ軍が捕虜にしたソ連兵は総計570万人といわれているが、うち300万人、53%が殺害されている。一方、ソ連が捕虜にしたドイツ兵は260万から350万まで諸説あるが、およそ30%が死亡したとみられている。

ドイツ軍の捕虜となったソ連兵たちは徒歩による長距離移動を強いられた。収容所に到着した捕虜の様子をフランス人捕虜は次のように記している。

「ロシア兵は5列縦隊で到着した。一人では歩けないので互いに腕を組んで支え合っていた。"歩く骸骨たち"というのが唯一適当な表現だろう。顔の色は黄色どころか緑がかっていた」

捕虜たちは屋根などない、鉄条網で囲まれただけの空間に数万人が押し込められ、食料や水の類はほとんど提供されなかった。ドイツ軍当局は、捕虜対策をあえて行わず、放置によって死に至るのを待った。

ソ連軍の捕虜取り扱いも似たようなもので、捕虜にしたドイツ兵をその場で殺したり、収容所に向けて食料もろくに与えられぬまま長距離を歩かせた。捕虜は収容所に入ってからも、壊れた建物や地下壕などで寝泊まりしながら重労働を強いられ、飢餓や伝染病、凍死などが相次いだ。

また、2万人のポーランド人将校がNKVD(内務人民委員部…KGBの前身)によって虐殺された「カティンの森」事件もあった。

(参考文献: 大木「独ソ戦」、P107,P119,P200、ビーヴァー「第2次世界大戦(上巻)」,P422-P423)


5.4.4項の主要参考文献

5.4.4項の註釈

註544-1 レニングラードの封鎖解除

ビーヴァー「第2次世界大戦(中巻)」,P286-P288、「同(下巻)」,P50-P52 大木「独ソ戦」,P110-P112,P203

{ 1月15日、若い女性通訳兵、イリーナ・ドゥナエフスカヤは、凍ったネヴァ川を渡ると、戦場へと赴いた。「透明な氷層の下に」死んだ男たちがいるのが見えた。「まるでガラスの石棺のようだった」と彼女は書いている。… ここの攻撃を担当したのは"懲罰部隊”だと聞かされて、そうかこの人たちは強制収容所から連れてこられた仮釈放中の元犯罪者なのかとイリーナは思った。}(ビーヴァー「同(中巻)」,P286-P287)

註544-2 ハリコフ争奪戦

大木「同上」,P166-P170 ビーヴァー「同上(中巻)」,P290-P293

註544-3 城塞(ツィタデレ)作戦

大木「同上」,P173-P175 ビーヴァー「同上(中巻)」,P414-P416

{ 「城塞」は、のちに喧伝されたような戦略的攻勢を企図したものでも、スターリングラードや北アフリカの敗戦に動揺する同盟国や中立国の離反を防ぐことをねらった政略的作戦でもなかった。… 作戦命令書に…「攻勢の目的は、敵部隊と軍需物資の撃破、戦線短縮と並んで、戦争遂行上重要な労働動員のために捕虜と民間人労働者を獲得、鹵獲品を利用することにある」と記されており、対ソ戦の収奪戦争としての性格は、純軍事的な作戦をも規定するに至っていたのである。}(大木「同上」,P174-P175)

註544-4 ソ連軍の作戦

大木「同上」,P175-P178 ビーヴァー「同上(中巻)」,P414-P416

{ ソ連軍は、各部隊はもとより、市民30万人を動員して八段構えの防衛線を築いた。深い戦車壕や地下壕、地雷原や鉄条網、さらに総延長9000キロを超える塹壕まで備えた、盤石の要塞化がはかられた。いかにもソ連らしく、各兵士にはノルマが課され、毎晩5メートルの塹壕堀りが求められた。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P416<要約>)

註544-5 作戦開始

大木「同上」,P179-P182 ビーヴァー「同上(中巻)」,P421-P440

{ 戦闘はまるで、中世の装甲騎士による馬上槍試合のようだった。両軍がこれほど入り乱れてしまうと、航空機も砲兵も助太刀など不可能だった。独ソ双方とも、陣形や指揮命令系統への配慮などどこかにいってしまい、戦車と戦車が至近距離でただただ乱打戦を繰り返すのみだった。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P438)

註544-6 作戦中止とソ連軍の攻勢

大木「同上」,P183-P188 ビーヴァー「同上(中巻)」,P440-P445,P484-P485

{ ハリコフ陥落の後、ドイツ第8軍司令官、オットー・ヴェーラー上級大将は書いている。「1943年の兵士たちは、自国の存亡をかけたこの戦いがきわめて深刻な状況にあることを悟っている。決まりきったスローガン、現実を糊塗するようなお為ごかしを憎み、事実を示してほしいと求め、しかもそれを自分にもわかる言葉で伝えて欲しいと願っている。プロパガンダに見えるものは本能的に忌避してしまうのだ」と。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P444)

註544-7 ドニエプル渡河

大木「同上」,P189-P191 ビーヴァー「同上(中巻)」,P484-P485

{ 戦後、マンシュタインは戦犯裁判にかけられたが、焦土作戦を実行したことが、その訴因のひとつに挙げられていた。同裁判での検事側の弁論から引用する。「最初はドニェツ川、… ドニエプル川まで、… 結果として彼は1944年春にはその麾下にあった諸軍をうちひしぐことになる破局を1年間もしのぎきりました。それは、以下のごとき処置によって、でありました。すなわち、人間にとって有用なものや住まいを容赦なく破壊し、あらゆる家や建物を打ち壊し、住むところのなくなった民間人を食物や衣類なしで曠野に追いやり、数百マイル以上も移動させ、歩かせ、ドイツ軍のために1日10時間働かせたのです。かかる行動のうちに、強制移送を逃れようとして射殺された者を除いても、数千もの無辜の民が飢え、野ざらしになって死んでいったことは間違いありません」。}(大木「同上」,P190-P191)

註544-8 キエフ陥落

大木「同上」,P192-P194 ビーヴァー「同上(中巻)」,P485-P489

{ ソ連の戦争特派員グロースマンは、キエフ近郊の農村で一人の少年に出会った。裸足でボロをまとっていた。「お父さんはどうしたの」とグロースマンは訊いた。「殺された」と少年は答えた。「じゃ、君のお母さんは」「死んだ」「兄弟や姉妹はいるの」「女きょうだいがひとりだけ。奴らがドイツに連れ去った」「親戚はいるの」「いないパルチザン村で全員焼き殺された」}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P488)

註544-9 カイロ会談

ビーヴァー「同上(中巻)」,P492-P494 コトバンク〔ブリタニカ国際大百科事典「カイロ会談」〕

{ 蒋介石はある重要問題でその立場を変えつつあった。ソ連が仮に対日戦に踏み切ると約束しても、中国北部をソ連軍が確保するような事態は断じて起こさせないという言質を、まずはアメリカ側から取り付けようとした。スターリンに対日参戦をおこなわせようと、従来あらゆる手段を弄してローズヴェルトを説得してきた蒋介石だったが、いまやソ連の参戦抜きで日本が敗北するほうが望ましいと考えるに至った。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P492-P493)

註544-10 テヘラン会談

ビーヴァー「同上(中巻)」,P494-P498 大木「同上」,P199 コトバンク〔日本大百科全書「テヘラン会談」〕

{ スターリンは元帥服を着用し、身長を少しでも高く見せようと、カフカス式の上げ底軍靴にズボンをたくし込むといういでたちで、ローズヴェルトに会いにきた。米ソ両国の指導者はいかにも親しげで、相手を魅了しようとやりあったけれど、好意をもったのはローズヴェルトの側だけだった。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P494)

{ スターリンはまた、英米がどのように考え、どのように反応するか、その予習にも怠りなかった。… イギリスとアメリカが裏でなんと言っているのか、そのすべてを知りたいとスターリンは言った。かれらが立ち寄る部屋にはことごとく隠しマイクがしかけられ、片言隻句まで記録され、あらゆるやりとりが … スターリンに毎朝報告された。誰が聞いているか分からないような場でかくも公然と意見交換する英米両国の無防備さが、スターリンにはむしろ驚きだった。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P496)