日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.4 独ソ戦と北アフリカ戦線 / 5.4.3 スターリングラード攻防戦

5.4.3 スターリングラード攻防戦

ドイツ軍の1942年春の攻勢は、ソ連南方カフカスの油田の確保を目的に開始されたが失敗し、ヒトラーは目標を敵国リーダーの名前がついたスターリングラードに変更した。猛烈な空爆後にドイツ軍は市内に入り、残留したソ連軍と市街戦を繰り広げたが、その間にソ連軍は新たな部隊を編成して逆にドイツ軍を包囲してしまい、ドイツ軍は補給を絶たれて降伏に追い込まれた。このスターリングラード戦を境に潮目が変わり、兵力も装備も損耗したドイツ軍はソ連軍に圧倒されていくことになる。

図表5.11(再掲) 独ソ戦と北アフリカ戦線

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(1) ブラウ作戦註543-1

1941年のバルバロッサ作戦は目的を達成できずに終わり、ドイツ軍は人的にも装備の面でも多大な損耗を被った。1941年12月には約28万人の兵士を追加召集し、装備生産も陸軍関係を最優先に進めることにしたが、1941年のようにソ連の全戦線に対して攻勢をかけられる状態にないことは、ヒトラーも陸軍幹部も認識していた。ソ連打倒のために何をすべきか、について陸軍はモスクワ攻略を再び試みることを主張したが、ヒトラーはコーカサスの石油獲得を選択した。

1942年4月5日、ブラウ(青号)作戦が決定された。コーカサスへの進撃時に側面から攻撃されることを避けるためにドン川流域のソ連軍を撃破したのち、コーカサスへ向かう計画であり、この時点ではスターリングラードを占領する予定はなかった。(のちにヒトラーは敵国の独裁者の名前がついたスターリングラード攻略にこだわるようになる。)

(2) ハリコフ攻防戦註543-2

1942年の春スターリンは、ドイツは再びモスクワを攻めてくると信じていた。敵の攻勢のまえに戦力を減殺することを目的に、ハリコフ※1とクリミアで限定的な攻撃を命じた。
これらの攻勢はドイツ軍にとっては、ソ連軍戦力をたたくという意味でブラウ作戦の前哨戦となった。

ハリコフ攻勢

1942年5月12日、ソ連軍はハリコフに攻勢をかけた。最初は相手のドイツ軍が弱体な部隊だったこともあって、快進撃をみせたが、5月17日、ドイツ側も本格的な反撃を開始、ソ連軍は多大な損害を出したあげく、5月末までに撤退せざるをえなかった。

※1 ハリコフ ウクライナ東部、現在はハルキウと呼ばれている。

クリミアの戦い

ほぼ同じ時期、ソ連軍の攻勢はクリミア半島でも行われたが、ハリコフ同様に撃退されただけでなく、確保していたセヴァストポリ要塞がドイツ軍に奪われた。

(3) ブラウ作戦始動註543-3

1942年6月28日ブラウ作戦は発動され、ドイツ軍はウクライナ周辺から進撃を開始した。これに先立つ6月17日、作戦参謀を乗せた航空機がソ連の対空砲撃をうけて墜落し、参謀が持っていた作戦計画書がソ連の手に渡った。しかし、ドイツはモスクワを攻めるはずだ、と信じ込んでいたスターリンは見向きもしなかった。ドイツ軍がコーカサスの油田地帯を目指すA軍集団と、北側のドン川周辺の制圧を任務とするB軍集団に分かれて進撃するのを見て、スターリンはやっとドイツ軍の目標が南にあることを認識した。

ヒトラーの作戦変更

南方にはソ連軍主力が配置されていなかったため、A軍集団は快調に進撃を続け、7月23日にはアゾフ海北端ドン川河口のロストフを獲得した。これに気を良くしたヒトラーは、A軍集団にはそのままコーカサスへの突進を命じ、B軍集団にはスターリングラードの占領を命じた。当初計画では、ドン川流域のソ連軍を撃滅した後にコーカサスへ進軍、だったのが、同時2正面作戦に変更されたのである。さらに、ヒトラーはマンシュタインの軍をレニングラードの攻略に向かわせた。こうして南方軍集団の戦力は分散化された上に、弱体化されることになった。

コーカサス攻略に失敗

A軍集団は8月9日にカフカスにあるマイコープ油田を占領したが、ソ連軍は採掘施設を徹底的に破壊していた。ソ連軍が態勢を立て直したことに加えて、ドイツ本土から3000キロ以上離れた地への補給が滞るようになり、9月に入ると進軍は停滞しコーカサスの油田確保は失敗と見なさざるをえなくなった。ヒトラーはA軍集団の司令官を解任し自らが司令官として指揮をとることにした。9月24日には陸軍参謀総長も解任して、ナチ党に近い将軍に代えた。

図表5.13 ブラウ作戦地図

ブラウ作戦地図

出典)ビーヴァー「第2次世界大戦(中)」,P144をもとに作成

(4) スターリンの命令註543-4

1942年7月28日、スターリンは「一歩も退くな」の文言で有名な命令(ソ連国防人民委員令第227号)を発した。その内容はおよそ次のようなものであった。

一歩も退くな! 退却心理は断固払拭しなければならない。持ち場の自主的蜂起を許した指揮官は解任し、軍法会議にかける。血の最後の一滴が流されるまで、断固として守り抜くことが要求されるのだ。

逃げ出そうとする兵士を銃口を持って阻止する専門集団(督戦隊)が各軍に設けられた。

(5) スターリングラード攻略戦註543-5

ブラウ作戦の開始当初は、コーカサスを目指すA軍集団を優先したため、スターリングラードを目指すB軍集団への補給はわずかで、本格的な攻勢を開始したのは8月21日になってからだった。この日、B軍集団の主力第6軍(パウルス司令官)は、ドン川を渡り、65キロ東にあるスターリングラードを目指した。8月23日からはドイツ空軍がスターリングラードを絨毯爆撃し、がれきの山に変えた。

9月13日、第6軍はスターリングラード市内への大規模強襲を開始し、9月末までに市街地の80%を確保したが、その後はソ連軍の激しい抵抗にあって停滞した。ソ連は、軍人のみならず民間人の決死隊が東側のヴォルガ川を船で渡り、将兵や食糧・弾薬などの補給を続けた。ヴォルガ川の横断を試みて失敗した民間人は少なくとも5万人といわれている。

市街戦は、がれきを隠蔽物に使ったゲリラ戦の様相を呈し、「ねずみの戦争」と呼ばれた。ソ連軍の抵抗はしぶとく、10月が過ぎ、11月になっても完全占領のメドは立たなかった。

(6) 天王星作戦註543-6

ソ連軍を仕切るジューコフらは、ドイツ軍がスターリングラードを占領した9月から、ドイツ軍を殲滅する新たな作戦を考え、戦車部隊を主体とする部隊を次々と編成していった。「天王星作戦」と名づけられた大反攻計画は、新たに編成した軍により、スターリングラードを占拠しているドイツ軍の外側を包囲するもので、同時にドイツB軍集団の撃滅を狙う土星作戦、中央軍集団の壊滅を目指す木星作戦などと同時並行的に進められることになった。スターリングラードに残ったソ連軍はこの作戦を始めるまでドイツ軍をひきとめておく“おとり”であった。

11月19日、天王星作戦は開始され、南側を守っていたルーマニア軍が崩壊するなどして、ドイツ軍の司令部すら脅威にさらされる状態になったが、ヒトラーは固守命令を出し、退却を許さなかった。ヒトラーは北部戦線に移動させたマンシュタインを呼び戻し、攻囲されているドイツ第6軍を救出するように命じた。12月19日、マンシュタインは包囲しているソ連軍を攻撃したが、第6軍自身による内側からの突破も必要だったにもかかわらず、ヒトラーは第6軍の突破を許可せず、マンシュタインの作戦は失敗した。

(7) ドイツ軍降伏註543-7

籠城している第6軍は一日あたり700トンの物資を必要としていた。ヒトラーの意を受けて、ドイツ空軍を統括しているゲーリングが部下の将校たちに下問したが、350トンを短期間供給するのが最大限度というのが回答であった。しかし、ゲーリングはヒトラーの歓心を買おうと「空中補給は可能」と胸を張ってしまった。

マンシュタインの救出作戦が失敗し、ソ連軍の包囲が強化されると第6軍は食糧不足に陥り、馬肉のスープとわずかなパンだけ、という日が続くようになった。

ソ連側は翌1943年1月8日、軍使を派遣して降伏を勧告したが第6軍のパウルス司令官はこれを拒否、ソ連軍は1月10日から攻撃を再開した。1月30日、パウルスはヒトラーから元帥昇格の辞令を受けた。元帥が降伏したことはない、…事実上の玉砕命令であった。1月31日、最後に残った通信兵が「…これより通信設備を破壊する」とのメッセージを3回送り、通信を絶った。1月31日、パウルスと麾下のドイツ軍はソ連軍に投降した。2月2日には他の部隊も降伏した。

{ スターリングラード攻防戦では、ソ連側に110万人の犠牲を強いる結果となり、このうち50万人近くが命を落とした。ドイツ軍とその同盟軍も、戦死もしくは捕虜後の死亡で50万人強が亡くなった。}(ビーヴァー「第2次世界大戦(中巻)」,P273)

{ スターリングラード戦におけるドイツ軍の敗北という知らせに動揺を見せたのは、同盟国日本だった。その頃東京では、重光葵外相はじめ、陸海軍の将官、政府高官およそ150人が、ソ連のカメラマンが撮影したニュース映画をみていた。パウルスをはじめ捕虜になったドイツ軍の将領たちがスクリーンに登場すると、みな息をのんだ。「なぜパウルスは自決しないのだ」。日本の指導層は、あの無敵を誇ったヒトラーが結局、この戦争に敗れつつあることを突如として悟った。}(ビーヴァー「同上(中巻)」、P290)<要約>)


コラム スターリングラード戦の野戦病院

スターリングラードの戦いにおいて、最も勇敢な兵士だったのは、(ソ連の)若き女性看護兵だった。彼女たちは激しい砲火をものともせず、負傷者の回収に飛び出していき、兵士たちをひきずりながら戻ってきた。時にはドイツ兵に向って撃ち返すことさえあった。担架など通用する状況ではないので、看護兵たちは、負傷した兵士の下側にみずからの身体を押し込み、背中に兵士をのせたまま、這って戻るか、あるいはグラウンドシートやマントに負傷者を寝かせ、それごと引っ張ってくるしかなかった。野戦病院には保存血がないため、看護婦や医師がみずから申し出て、腕から腕へと輸血がおこなわれたりもした。

降伏間近のドイツ軍の野戦病院は、信じられないほど苛酷だった。テントの中でも開いた傷口の血は凍ってしまう。腕や脚の凍傷が壊疽に至ると、ノコギリで切断する以外、方法はなかった。指だけの場合は、ペンチが用いられた。麻酔薬は残っておらず、腹部や頭部に重傷を負ったものは、そのまま放置せざるを得なかった。外科医はみな極限の超過勤務状態に置かれていたため、運び込まれた兵士たちは容赦なく選別され、生き残る可能性の高い者から順番に処置された。

(参考文献: ビーヴァー「第2次世界大戦(中巻)」,P203,P267)


5.4.3項の主要参考文献

5.4.3項の註釈

註543-1 ブラウ作戦

大木「独ソ戦」,P128-P137 ビーヴァー「第2次世界大戦(中巻)」,P143

{ 1941年6月末から1942年3月までのあいだに失われた将校は13千名であった。1939年の開戦からソ連侵攻に至る2年弱のあいだに失われた将校が1250名であった。}(大木「同上」,P129)

註543-2 ハリコフ攻防戦

大木「同上」,P135 ビーヴァー「同上(中巻)」,P132-P137,P140-P142

{ ハリコフ攻防戦では、のちにスターリンの跡を継いでソ連首相となるフルシチョフが、ソ連軍の政治委員として同行していた。ドイツ軍の反攻後、フルシチョフは攻勢を中止すべき、とスターリンに電話したが、スターリンは電話には出ず、「軍命令には従わなければならない!」と大声で叫んで電話を切らせた。フルシチョフのスターリンに対する怨念はこの時点まで遡り、それが1956年のスターリン批判につながった、と言う者もいる。(ビーヴァー「同上(中巻)」、P135<要約>)

註543-3 ブラウ作戦始動

大木「同上」,P136-P141 ビーヴァー「同上(中巻)」,P142-P146,P158-P159 太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P86

{ 「ロシアは終ったな」、ヒトラーはそう信じ込んでいた。8月21日にドイツ軍の山岳部隊がカフカスの最高峰エルブルス山(標高5600m)の登頂に成功、その3日後にB軍集団の先鋒がヴォルガ川に達したという知らせが届き、ヒトラーは心の昂ぶり禁じえなかった。ところが8月31日、A軍集団の司令官が「わが軍はいまや勢いをなくしつつあります」と報告してきた。ヒトラーは怒りを爆発させ、やれ任務達成には力不足だとか、やれ燃料、弾薬、各種物資が不足しているとか、そんな話は聞きたくもない、と取りつく島がなかった。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P158-P159<要約>)

註543-4 スターリンの命令

大木「同上」,P142 ビーヴァー「同上(中巻)」,P210-P219

註543-5 スターリングラード攻略戦

大木「同上」,P143-P147 ビーヴァー「同上(中巻)」,P186-P204 太平洋戦争研究会「同上」,P87

{ ヒトラーは … 「スターリングラードの住民は徹底した共産主義者であるから、その市民のうち男性をすべて除去し、女性と子どもは強制移送すべし」と命じていた。彼にとって、スターリングラードは憎むべきボリシェヴィキの象徴となっていたのだ。}(大木「同上」,P145-P146)

{ ソ連のスターリングラード防衛軍の司令官チェイコフは、短機関銃や手りゅう弾、ナイフや鋭く尖らせたカマを持たせて、兵士を夜襲へと送り出した。そこは破壊された建物が一面にひろがる戦場である。砲爆撃によってできた壁や床、穴から発砲したり、手りゅう弾を投げ込むやり方で戦闘が行われた。得意の機動力を封じられたドイツ兵は、この新しいタイプの戦闘を"鼠たちの戦争"と呼んだ。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,PP198-P199<要約>)

註543-6 天王星作戦

大木「同上」,P155-P157 ビーヴァー「同上(中巻)」,P211-P219,P251-P254

{ 大抵はこらえ性のないスターリンだったが、ジューコフたちの構想にようやく耳を傾けた。大規模な戦車部隊からなる、はるかに大きな包囲網、すなわちドン川に沿って西側から延びる包囲環と、スターリングラードの南方から延びる包囲環によってドイツ軍全体を後方から丸ごとくるむ作戦だ。大胆不敵な機動によってソ連南部の戦略状況を一変させ、しかも敵にとことん復讐してやれるという点が大いに気に入ったからである。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P210<要約>)

註543-7 ドイツ軍降伏

大木「同上」,P161-P164 ビーヴァー「同上(中巻)」,P251-P273 太平洋戦争研究会「同上」,P91

{ 第6軍の降伏をひた隠しにしてきた宣伝相ゲッペルスだったが、イメージ戦略の方向性を変え、我らが第6軍は、死んで御国の楯になったのだという印象を広げようとした。… だが、新たな英雄神話の創生にむけた試みは結局やぶ蛇になってしまう。モスクワは枢軸軍の兵士91千人を捕虜にしたと言っているそうだ――そんな噂がBBCをこっそり聞いている人々を基点にドイツ全土に瞬か馬に広がったからである。}(ビーヴァー「同上(中巻)」,P273-P274)