日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.4 独ソ戦と北アフリカ戦線 / 5.4.2 英米の支援とモスクワ戦

5.4.2 英米の支援とモスクワ戦

1941年6月22日、ドイツがソ連に侵攻すると、イギリスとアメリカはソ連支援を決めた。同年12月8日、日本がアメリカとイギリスに宣戦布告し、ここに、米英ソを中心とする連合国と、日独伊3国を中心とする枢軸国との間での世界大戦が始まった。
一方、1941年10月にドイツはモスクワ攻略を目指す「タイフーン作戦」を発動したが、厳しい冬とソ連軍の反攻に阻まれて敗退した。

図表5.11(再掲) 独ソ戦と北アフリカ戦線

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(1) 英米の対ソ支援

ドイツがソ連の攻撃を始めた1941年6月22日、イギリスのチャーチル首相はラジオ演説を行い、従来、蛇蝎の如く嫌っていたソ連を支援することを声明した。アメリカのローズヴェルト大統領は、それからやや遅れて7月下旬に特使をソ連に派遣し、必要としている物資などについてソ連側と調整させた。宿敵だった共産主義国ソ連を米英が支援することを決めたのは、ドイツと戦っているソ連が負ければ連合軍の敗北を招きかねないと判断したからだった。註542-1

イギリスの支援註542-2

イギリスの対ソ援助は1941年8月からはじまり、終戦までのあいだに総額50.9億ドルに至ったが、対独戦で苦境にあったイギリスが援助できるのは、国内需要の余り物のようなものばかりで、ソ連の要望を満たすには程遠かった。

アメリカの支援註542-3

アメリカの援助は1941年3月に成立した武器貸与法(5.3.4項(6)参照)を適用して行われた。1941年9月に中東経由でソ連に物資を輸送するルートが開拓され、同年11月からこのルートを使って総額100.8億ドルの支援が提供された。
アメリカからソ連に送られた物資は、良質の鋼鉄、各種対空火器、航空機、膨大な食糧など、ソ連の勝利に大きく貢献するものであった。ロシアの大半の歴史家は今だにこの事実を認めたがらない、とビーヴァー氏はいう。

スターリンの要求註542-4

スターリンは米英に対して、物資の支援以外にヨーロッパ西部に第2戦線を作り、ドイツ軍の戦力を分散させることを求めた。この要求はイギリス単独では応じることができず、ノルマンディー上陸作戦(1944年6月)まで実現することはなかった。

また、スターリンはソ連の力に依存せざるを得ない米英の足元を見て、戦後の勢力圏拡大への要求を早くも1941年12月から出し始めた。要求はしだいに具体化し、東ヨーロッパの支配を欧米に認めさせようというものになった。それは1939年の独ソ不可侵条約でドイツとの間に約束したものでもあった。

(2) 大西洋憲章註542-5

チャーチルとローズヴェルトは、1941年8月、カナダのニューファンドランド島付近に停泊させた軍艦の上で秘密の会談を行った。議論は数日間にわたり、スペインの枢軸参加の危険性から日本の脅威に至るまで多岐にわたった。

8月14日に両国が発表した声明は「大西洋憲章」として知られている。大西洋憲章では、領土不拡大、民族自決権の尊重、自由貿易、恐怖と欠乏からの解放、恒久的安全保障体制の確立、などがうたわれ、連合国の戦争目的であるとともに、戦後国際秩序形成の基礎となるものであった。
ソ連は9月にこの憲章に参加した。

(3) ドイツの対米宣戦布告註542-6

1941年12月8日(日本時間)、日本軍が真珠湾を攻撃して日米戦争が始まると、ドイツもすかさず12月11日、アメリカに宣戦布告した。いずれアメリカと戦うことを覚悟していたヒトラーは、ドイツが宣戦したときに日本も参戦させるために、日本が宣戦すればドイツも参戦するとの言質を与えていた。そのため、ヒトラーは日本の参戦を喜びをもって受け止めた。

しかし、ドイツ軍の将校たちは、米英ソがドイツを標的に大連合を組むとなると、もはや勝利は望めまいと感じていた。

(4) タイフーン作戦=モスクワ攻防戦註542-7

キエフ戦が一段落した9月6日、ヒトラーはモスクワの攻撃命令を出し、キエフ戦に参加していた機甲部隊が中央軍集団に復帰して、10月2日モスクワを攻略するタイフーン作戦が始動した。戦車約2000両と歩兵約100万人が、北、西、南の3方向に分かれてモスクワを目指した。快進撃を続けたドイツ軍は、途中でソ連軍の大部隊を包囲して捕虜70万人を得るなどの戦果をあげたが、燃料不足や戦車の損耗は激しかった。10月6日、初雪が降り、その後雨が降ると、道路はドロ沼と化して進撃を中断せざるを得なくなった。

11月15日、地表が凍結し足場が固まったのでドイツ軍は攻撃を再開した。11月下旬までに先鋒部隊は双眼鏡でクレムリンの屋根が見えるところにまで迫った。しかし、12月に入ると冬将軍が到来、ソ連軍の本格的な反攻も始まり、ドイツ軍はヒトラーの命に背いて撤退せざるをえなくなった。

(5) ソ連の反攻註542-8

ドイツ軍進撃の知らせを受けたスターリンはレニングラードに派遣していたジューコフ※1を呼び寄せた。そして、勝手に退却した者、前線から逃れるために自傷行為をした者などを容赦なく処罰するようNKVD(内務人民委員部…KGBの前身)に指示した。

10月15日、スターリンは政府をモスクワのはるか後方クイビシェフに疎開させることを決定し、政府関係者は移動しはじめたが、市民は不安を感じて混乱状態になったため、スターリン自身はモスクワに残ることを宣言した。また、パルチザン(ゲリラ部隊)を編成してドイツ軍を襲わせた。

11月17日、スターリンは「戦闘地域とその背後にあるすべての建物を焼き尽くせ」という命令をだした。
ジューコフはソ連軍を再編成し、12月5日から反撃に転じた。疲れ果てたドイツ軍に抵抗する力は残っておらず、重装備や車両を捨てて敗走するしかなかった。タイフーン作戦は失敗したのである。

※1 ジューコフは、大テロルで生き残った数少ない高級将校で、ノモンハン事件のソ連側指揮官として日本軍に勝利した実績をスターリンにかわれ、ソ連赤軍の中心的存在になっていた。

(6) ヒトラーの死守命令と幹部更迭註542-9

12月16日、中央軍集団司令官ボック元帥はヒトラーに現状を説明し、「持ち場を死守するか、撤退するか、どちらを選択しても崩壊の危険がある」と報告した。ヒトラーは死守せよ、との命を発し、この方針に反した幹部を次々と解任した。陸軍総司令官ブラウヒッチェはじめ、中央軍司令官、南方軍司令官、電撃戦の象徴ともいえるグデーリアン上級大将などが解任され、後任の陸軍総司令官にはヒトラー自身が就任した。

それまで陸軍はナチ党から一定の距離を保っていたが、この更迭によってヒトラーに異論を唱えかねない幹部たちは遠ざけられた。ヒトラーは自身が出した死守命令が危機を克服したと信じ、自らの軍事的才能を過信するようになった。以後、彼は軍事的合理性に背くような指令を乱発していく。


コラム スターリンの民主主義観

スターリンがイギリスなど連合軍に最も期待したのは、フランス北部への上陸作戦を敢行することだった。チャーチルがこれをためらうのは、戦争の矛先をソ連に向けようと画策している証拠だとみなした。そうした傾向がまったくなかったわけではないが、スターリン自身は資本主義国とドイツが互いに血を流して共倒れになることを願っていたのだから、チャーチルへの非難は偽善もいいところだった。

ただ、スターリンは西側の民主主義政府のことが分っていなかった。彼は、チャーチルもローズヴェルトも自分と同様、絶対的権力を持っていると勘違いしていた。民主主義政治において政治家は議会や報道機関にしかるべき説明をする責任がある、と言っても、スターリンには愚にもつかない言い訳にしか聞こえなかった。

それでも、スターリンはしだいに民主主義政治がそういうものだということはわかってきた。ヤルタ会談後、かれは側近のベリヤに「民主主義体制の弱点は、ソヴィエト政府がもっているような恒久的権利を人民から付託されていない点にある」と語っている。スターリンの目からみると、議会制民主主義というのは国家運営の手法として危険なほど安定性に欠けていた。もし、ソ連がその体制だったら、ドイツの侵攻に対して敗北が続いた時点で自分は追放されていただろう、ということを強く意識した。

(参考文献: ビーヴァー「第2次世界大戦」,上巻P448-P449、下巻P357,下巻P464))


5.4.2項の主要参考文献

5.4.2項の註釈

註542-1 英米の対ソ支援

大木「独ソ戦」,P197-P198 ビーヴァー「第2次世界大戦(上巻)」,P443-P444,P449-P450

{ チャーチルは1941年6月22日のラジオ演説の中で、「これまで言ってきたことを、以後、あえて口にするつもりはない」と明言した。そのあと個人秘書に「ヒトラーが地獄に向けて侵攻してくれたとあっては、わが下院において、かの悪魔に一言、声援を送ってやらねばなるまい」と語った。}(ビーヴァー「同上((上巻))」,P443-P444)

註542-2 イギリスの支援

ビーヴァー「同上(上巻)」,P450 大木「同上」,P198

註542-3 アメリカの支援

ビーヴァー「同上(上巻)」,P450 大木「同上」,P198

{ 1941年7月28日、ローズヴェルトの意をうけて、大統領の側近、ハリー・ホプキンズがソ連の継戦能力にとって何が必要か、を見極めるためにモスクワに赴いた。現場を見たホプキンズは、在モスクワ米国大使館付き武官が、ソ連はいずれ崩壊する、と信じていることに疑問をもった。ホプキンズは、この国はきっと持ちこたえるだろう、と確信した。}(ビーヴァー「同上(上巻)」、P449-P450<要約>)

註542-4 スターリンの要求

ビーヴァー「同上(上巻)」,P451 大木「同上」,P198-P199

{ スターリンは、イギリスは海峡越えの侵攻作戦を万難を排して実施するのが当然だ、と考えており、チャーチルがそれを躊躇したのは、戦争の矛先をソ連に向けようと画策しているためではないか、と疑った。スターリンは西方の民主主義政府が日々晒されている世論の圧力というものが分っていなかった。チャーチルもローズヴェルトも自分と同様の絶対的権力を持っていると勘違いしていたのである。}(ビーヴァー「同上(上巻)」、P448-P449<要約>)

註542-5 大西洋憲章

ビーヴァー「同上(上巻)」,P445-P446 木畑「20世紀の歴史」,P157-P158 斎藤「戦間期国際政治史」,P300-P301

{ 米英両国は、来るべき世界に向けて民族自決権を約束した。はて、どこからの解放なのか? 大英帝国は暗に除外されていたし、ソ連邦についてはいうまでもない。}(ビーヴァー「同上(上巻)」、P446)

註542-6 ドイツの対米宣戦布告

大木「同上」,P75 ビーヴァー「同上(上巻)」,P515

註542-7 タイフーン作戦

大木「同上」,P70-P74 ビーヴァー「同上(上巻)」,P408、P464-P480 太平洋戦争研究会「同上」,P64-P67

{ ドイツ軍は、ドイツ製の強力な双眼鏡ごしに、クレムリンの特徴的なタマネギ型の屋根を確認できる地点まで迫っていた。… どの部隊も消耗し、すでに多くのものが凍傷にかかっていた。}(ビーヴァー「同上(上巻)」、P480)

註542-8 ソ連の反攻

ビーヴァー「同上(上巻)」,P467-P493 大木「同上」,P74-P75,P124-P125 太平洋戦争研究会「同上」,P64-P67

{ (NKVDによって)「怯懦」とされた者や、敵と通じていると疑われたものは、銃殺刑に処せられるか、懲罰中隊送りとなった。懲罰中隊では、処刑も同然の任務が待っていた。たとえば、地雷原を真っ先に駆け抜けるとか、その類である。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P472-P473)

{ ドイツ軍の装備はなってないなど、(ソ連の)スキー兵たちはきつい冗談を飛ばしあった。途中の村々で略奪したり、あるいは着ている人間の肩から直接はぎ取ってきたらしく、ドイツ兵たちは、年配の女性が身に着けるような手袋やショールにくるまれていたからだ。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P490)

註542-9 ヒトラーの死守命令と幹部更迭

ビーヴァー「同上(上巻)」,P516 大木「同上」,P127-P128 太平洋戦争研究会「同上」,P67

{ 国防軍のもと将官らの何人かは、戦後、ヒトラーの死守命令は正しかった、退却を許せば潰走につながったにちがいない、と説いた。だが、ソ連崩壊後に公開された文書から、当時のソ連軍が十分な打撃力を有していなかったことが見て取れる。戦史家グランツとハウスが喝破したように「ドイツ軍が生き残ったのは死守命令ゆえではなく、ソ連軍が実行可能であること以上のことを試みたから」であった。}(大木「同上」、P127-P128<要約>)