日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.4 独ソ戦と北アフリカ戦線 / 5.4.1 バルバロッサ作戦

5.4 独ソ戦と北アフリカ戦線

ヒトラーは1925,27年に刊行した「わが闘争」でドイツ人の生存圏(生空間=レーベン・スラウム)を東方に求めることを宣言しており、その野望を実現するのがこの対ソ戦であった。生存圏とはドイツ民族が生存するために自給自足を可能にする領土をさす註541-1。もうひとつの戦場である北アフリカでは、連合軍と独伊軍との間でシーソーゲームが繰り広げられたが、アメリカの参戦により連合軍の勝利で終わった。

図表5.11 独ソ戦と北アフリカ戦線

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5.4.1 バルバロッサ作戦

バルバロッサ(伊: Barbarossa)は「赤ひげ」を意味し、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(1122生―1190没)の異名であるが、ヒトラーはドイツの対ソ侵攻作戦にその名前を使った。

(1) 作戦の概要

作戦の策定註541-2

1940年12月18日、対ソ戦実行を命じる総統指令第21号が発出された。
対ソ侵攻作戦は、それより1年ほど前の1939年秋からドイツ国防軍と陸軍で検討されていたが、具体的な作戦の策定を始めたのは1940年7月からで10月末に計画草案が作成され、図上演習を経て修正された案がヒトラーに提示された。

軍部の案がモスクワ占領を優先させるものだったのに対して、ヒトラーはモスクワ占領の優先度を下げ、各地のソ連軍殲滅を優先させるよう指示した。作戦案はこの指示を取り込むことにより、複数の目的を同時に追うという欠陥が組み込まれることになった。

それ以外にも、ヨーロッパ・ロシアを占領すればスターリン体制は瓦解するのか、複数の会戦でソ連軍主力を撃滅できるのか、広大なソ連領内での軍事行動を維持するための兵站態勢の構築、などの問題を真剣に検討しないまま立案されたずさんな計画だった、と大木毅氏は指摘している。

侵攻軍の構成註541-3

総兵力300万といわれる軍勢は、次の3集団に分かれて進軍した。

※1 機甲師団1個は戦車200~400台、歩兵師団1個は15~20千人 師団2~4個で「軍団」、軍団2~4個で「軍」、軍3~4個で「軍集団」を構成した。

図表5.12 バルバロッサ作戦

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出典)太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P60の図をもとに作成。

(2) スターリンの失敗

無視された警告註541-4

ドイツが侵攻を開始するおよそ3週間前の1941年5月30日、ソ連のスパイとして日本政府に食い込んでいたゾルゲから、「駐日ドイツ大使は、ドイツの対ソヴィエト攻撃が6月後半に開始されるとの通知をベルリンから受け取った」との情報をスターリンは得ていた。スターリンのもとには、これだけでなく、世界各国のスパイ網やイギリスからも同様の警告を受取っていたが、スターリンは「イギリス得意のささやき戦術に過ぎない」と思いこんでしまった。スターリンは守備に当たっている部隊に警告するどころか、挑発的行動を取るなと戒めつづけた。その結果、ほとんどのソ連軍部隊は無防備かつ無警戒のまま、ドイツの侵略を受けることになった。

大テロル(大粛清)の影響註541-5

1937年頃から1939年にかけてスターリンは、反革命テロ分子などを理由に政治家、軍人、一般国民など少なくとも百万人以上が殺害された(詳しくは5.2.6項(2) 参照)。軍人でいえば、同時期に将校34,301人、軍の最高幹部101人中、91名が逮捕され、うち80名が銃殺されたという。こうして指導者層を大量に失った軍は壊滅的な打撃を受けていたのである。

(3) 開戦

ドイツ軍の快進撃註541-6

1941年6月22日の早朝、バルト海からルーマニア東部にいたる南北1500キロに展開したドイツ軍はいっせいに進撃を開始した。応戦態勢が整っていないソ連軍を蹴散らし、ドイツ軍は驚異的な速さで進撃した。ソ連空軍は開戦初日に1800機、10日間で3000機の戦闘機や爆撃機を失った。

最も速かったのは機甲師団をたっぷり配置していた中央軍集団で、開戦後まもなくミンスクを包囲して7月2日に陥落させ、続いてスモレンスクを目指した。

北部軍集団はバルト3国に襲いかかり、開戦5日目にはラトヴィアの首都リガに突入、さらにレニングラードを目指して進撃した。

南方では他方面に比べて強力な兵力が配備されており、ソ連軍司令官がドイツ軍来襲の情報を受けて準備をしていたこともあって、ドイツ軍は苦戦し、キエフを包囲したのは9月2日であった。

衝撃を受けたスターリン註541-7

スターリンはドイツ軍の侵攻に大きなショックを受け、6月23日モスクワ郊外の別荘にひきこもってしまった。6月30日に政治局員が訪れたとき、彼は自分が逮捕されるのではないかと思ったが、そうでないことがわかり、7月1日、クレムリンに復帰した。そして、ラジオの演説でナポレオンと戦った「祖国戦争」の記憶をかき立て、ソ連人のナショナリズムを煽った。

ドイツ軍の当惑註541-8

進撃開始当初こそドイツ軍はその成果に満足し、「ロシア遠征は2週間で勝利するといってもおそらく過言ではあるまい」(陸軍参謀総長ハルダーの7月3日の日記) という楽観論もあったが、一方で占領した陸地面積の途方もない大きさや、ソ連軍のしぶとい抵抗で損耗も激しく、フランス侵攻とは違う、という感触を持ち始めた軍人たちも少なくなかった。

(4) スモレンスク攻略註541-9

ミンスクでソ連軍をやぶったドイツ中央軍集団は、7月16日にスモレンスクを占領したがソ連軍が反撃して、戦闘が続き、8月5日にドイツ軍は戦闘終了を宣言した。

この頃まで、ドイツ軍は表面的には快進撃を続け、損耗も絶対量で言えばソ連より少なかったが、本国からはるか遠く離れた前線への補給は困難をきわめた。ソ連の鉄道は線路の幅がドイツよりも広く、鉄道を使うためには線路の付け替え工事をしなければならなかった。自動車部隊の輸送で補完していたが、敵陣深く進撃するにつれて補給はままならなくなっていた。

(5) 戦略変更とキエフ戦註541-10

戦略変更

南方軍集団はウクライナ中部を流れるドニエプル川西部のソ連軍と戦っていたが、8月24日までに同地域をほぼ制圧することに成功した。これを見たヒトラーは、計画どおりモスクワ進撃を優先すべきだ、という陸軍の進言を押し切って、中央軍集団の機甲部隊主力をキエフ※2に攻略に向けるよう命令した。ヒトラーは、ウクライナの穀倉地帯や工業地帯、及びコーカサスからのソ連軍への石油供給の遮断など戦争経済上の目標を優先させ、モスクワ占領の優先度を下げたのである。

キエフ戦

ドイツ軍は9月2日、キエフを包囲した。70万人を超えるソ連軍もスターリンの死守命令に従って防衛したが、9月下旬にキエフは陥落した。ドイツ軍は、捕虜66万人、捕獲した戦車約900両、などと宣伝した。
この後、南方軍集団はウクライナ南部のオデッサと東部のハリコフを10月中に占領し、コーカサスを目指す。

※2 キエフはウクライナの首都、現在は「キーウ」と呼称する。ハリコフは現在「ハルキウ」と呼ぶ。

(6) レニングラード攻略註541-11

北方軍集団はバルト3国を攻め落とし、レニングラードを目指した。6月25日にドイツ側で参戦したフィンランドは、1939年冬のソ連・フィンランド戦争(5.3.2項(3)参照)で失ったレニングラード北方の領土を回復しており、ドイツ軍はフィンランド軍とタイアップして南側を占拠することにより、レニングラードの包囲を目指した。
レニングラードが包囲されつつある、との報告を受けたスターリンは烈火のごとく怒り、軍司令官を交代させ、「敵に降伏した兵士の家族は一人残らず銃殺する」「敵と共謀するものは老人、婦女子、病人とわず、直ちに粉砕せよ」などと指示した。

9月7日、ドイツ軍は包囲を完成させると、そのまま一気に陥落させるのではなく、兵糧攻めにして干上がらせる策を採った。表向きは軍事的損害の大きい市街戦を避けるためであったが、ヒトラーはレニングラードを「毒の巣」とみなし、軍隊のみならず住民すべてを一掃することを目指していた。
スターリンは包囲が迫っても民間人を避難させることはせずおよそ300万人が置き去りにされた。包囲は1944年1月まで約900日間も続き、100万人以上が犠牲になったとされている。

(7) 絶滅戦争註541-12

レニングラード包囲戦が示すように、独ソ戦は史上類をみない残虐な戦争となった。名著「独ソ戦争」の著者である大木毅氏は、ヒトラーのレイシズム(人種主義)とスターリンの共産主義防衛のためのナショナリズムがそれをもたらしたと述べている。

ドイツの戦争

ヒトラーは政権獲得後、世界恐慌後の不況克服も兼ねて、大規模な軍備増強を行ったが、その財源は国民の支持を失うことを恐れて、増税ではなく赤字財政に依存した。その結果、景気は回復したものの外貨準備はなくなり、労働力不足も深刻化した。

そうした状況でレイシズム(人種主義)を背景に資源や労働力確保のために始まったのが、オーストリアやチェコスロヴァキア、ポーランドの併合によって他の国の資源を強奪することであった。フランス侵攻あたりまでは、目標を達成したら講和を結んで終わらせるという「通常戦争」、植民地主義的な「収奪戦争」、そして人種主義というイデオロギーをもとにした「世界観戦争(=絶滅戦争)」という3つの性格を併せ持つ戦争であった。しかし、独ソ戦では人種主義的要素が強く、敗色が濃くなるにつれて相手を徹底的に叩きのめすまで戦う「絶滅戦争」の性格を強めていった。

ソ連の戦争

ドイツ軍の侵攻当初、ソ連の支配下にあったウクライナやバルト3国では、ドイツ軍を歓迎するムードすらあり、共産主義の護持だけでは国民をかき立てることはできなかった。スターリンは、ナポレオン戦争の記憶を引き出しナショナリズムを煽るとともに、「ファシストの侵略戦争との戦い」という正統性を掲げることによって戦争遂行意欲を高揚させたのである。こうした「祖国愛」は容易に相手国への憎しみと変化し、暴力のエスカレーションを招くことになった。


5.4.1項の主要参考文献

5.4.1項の註釈

註541-1 独ソ戦

太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P6-P7 大木毅「独ソ戦」,P8-P9 ヒトラー,平野・将積訳「我が闘争」,P933-P935

{ この地上で十分な大きさの区域を占めることだけが、一民族に生存の自由を保証しうるのである。 … 数百年来、ロシアはその上級の指導層にいたこのゲルマン民族的中核のおかげで存続してきた。この中核は今日ほとんど跡形もなく根絶され抹消されたとみなすことができる。その代りにユダヤ人が登場した。… 東方の巨大な国は崩壊寸前である。ロシアでのユダヤ人支配の終結は、国家としてのロシアの終結でもあるだろう。}(ヒトラー「我が闘争」,P934、P951)

註541-2 作戦の策定

大木「同上」,P12-P32

{ ヒトラーは、… 1940年12月5日の国防軍首脳部との会談では、ソ連軍は、装備、兵員、とりわけ指揮においてドイツ軍に劣っており、… いったん打撃を受けたなら、1940年のフランス以上の崩壊に至ることが期待され得ると発言したの。また、ハルダー以下の参謀将校も、… ソ連軍を質量ともに過小評価し、楽観的な判断を下していた。}(大木「同上」,P32)

註541-3 作戦の内容

太平洋戦争研究会「同上」,P58-P59 大木「同上」,P35-P37

註541-4 無視された警告

大木「同上」,P2-P3 ビーヴァー「第2次世界大戦(上巻)」,P380-P381

註541-5 大テロル(大粛清)の影響

ビーヴァー「同上(上巻)」,P78-P80 太平戦争研究会「同上」,P19-P20

{ かつて赤軍を席巻した大粛清のせいで、大規模部隊を動かした経験を全く持たない将校がいまや師団長や軍団長をつとめており、しかも密告や告発、NKVD(内務人民委員部)による逮捕を恐れるあまり、状況に従って臨機応変に判断をくだす気風までが廃れていた。最も勇敢な指揮官でさえ、グリーンに襟章と顎紐が特徴的なNKVD将校が、いきなり本部や司令部に姿を見せれば、恐怖のあまりガタガタ震え、冷や汗をかくしかなかった。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P391)

註541-6 開戦

太平洋戦争研究会「同上」,P59-P61 ビーヴァー「同上(上巻)」,P387-P403 大木「同上」,P34-P46

註541-7 衝撃を受けたスターリン

{ 6月30日、政治局員たちはスターリンの別荘に駆けつけた。スターリンはげっそりと痩せ、逃げ腰だった。自分を逮捕するために来たと思い込んでいるようだった。「この緊急時に戦時内閣を率いることができるのは、あなただけです」と言われ、スターリンは翌7月1日、クレムリンに戻った。
2日後、ソ連人民に向けたラジオ演説で「何としてでも祖国を守らなければならない」と呼びかけ、ナポレオン相手の「1812年祖国戦争」の記憶をかき立てた。ソ連人民は共産主義のイデオロギーなどよりも、愛する国土のためにいのちを投げ出す可能性がはるかに高いことをスターリンは熟知していた。}(ビ-ヴァー「同上(上巻)」,P394-P395<要約>)

註541-8 ドイツ軍の当惑

ビーヴァー「同上(上巻)」,P401-P402 大木「同上」,P49-P54

{ ドイツ軍が占領した陸地面積の途方もない大きさ、いけどもいけども地平線が広がる大地はドイツ兵たちの気を滅入らせた。また、フランスとは異なる国民性も要注意だった。残ったソ連兵はフランス兵と違って戦いをやめずに身を潜め、隙をみて襲いかかってきた。それゆえ、捕えたロシア兵はゲリラと見なされ、問答無用で射殺された。}(ビ-ヴァー「同上(上巻)」,P401-P402<要約>)

{ ドイツ軍将兵は、ロシアはフランスではないと思い知らされた。指揮系統を混乱され、補給路を断たれても、ソ連軍はなおも戦い続けた。ハルダー陸軍参謀総長は「将校の損失は著しく多い」と日記にしたためている。加えて、電撃戦を可能としてくれるはずの道路は、フランスのように舗装されておらず、ガソリンスタンドもなかった。}(大木「同上」,P50-P51<要約>)

註541-9 スモレンスク攻略

大木「同上」,P52-P61 太平洋戦争研究会「同上」,P59 ビーヴァー「同上(上巻)」,P402-P404

{ 対ソ侵攻作戦に投入された3個軍集団はすでに213千人の犠牲者を出していた。数字自体はソ連側の10分の1に過ぎないけれど、このままさらなる消耗戦が続いた場合、延び切った補給線を防衛しつつ、残存するソ連軍を打ち破ることはやや不可能なのでは、と気づいてしまったのだ。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P404)

註541-10 戦略変更とキエフ戦

大木「同上」,P64-P68 太平洋戦争研究会「同上」,P60-P61 ビーヴァー「同上(上巻)」,P405-P408

{ 戦後、ドイツ国防軍の幹部たちは「キエフ戦のためにモスクワへの進撃が遅れた結果、ソ連軍に防備を固める時間を与え、戦闘が冬季にずれ込んでモスクワ占領に失敗した」という。しかし、今日、このような主張は成立しないことが論証されている。たとえば、マーチン・ファン・クレフェルトによれば、8月の時点で中央軍集団の補給は深刻な状況にあり、モスクワを攻撃することは不可能だった、としている。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P66、P68<要約>)

註541-11 レニングラード攻略

大木「同上」,P70、P110-P112 ビーヴァー「同上(上巻)」,P408-P412 太平洋戦争研究会「同上」,P63

{ ドイツ第18軍には、市民の降伏を受け入れてはならないとの命令が下達されており、さまざまな部隊の記録には「繰り返された突囲に際して、女や子供、丸腰の老人を撃った」と記載されている。}(大木「同上」,P112)

{ こうした窮境にあって、人肉食が横行するようになった。… 1942年12月までに内務人民委員部(NKVD)は死肉食・人肉食の嫌疑で2105名を逮捕した。ただし、当時の当時のレニングラードのNKVDは、体制に従順でない分子を逮捕する名目に人肉食を使ったと伝えられているから、実際の数は判然としない。}(大木「同上」,P111)

{ レニングラードが仮に、降伏という決断をしても、ヒトラーはそれを受け入れる気はなかった。ヒトラーが望んだのは、レニングラードの都市と住民の双方をこの世から抹殺することだけだった。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P414<要約>)

註541-12 絶滅戦争

大木「同上」,P89-P93,P115-P118,P220-P222 ビーヴァー「同上(上巻)」,P398,P420

{ 多くのドイツ人たちは、自国の東方に暮らすスラブ系民族に対し、先祖伝来の禍々しい記憶をかかえており、そうした悪印象は各種報道によって、強化されてきた。ナチの宣伝工作は、ドイツの秩序とボリシェヴィキの無秩序やかれらの不潔さ、神の否定などを殊更に対比させ、そうした文化的特質が衝突を生んでいるのだと強調した。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P419<要約>)