日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.3 第2次世界大戦の始まり / 5.3.5 イタリア参戦とバルカン戦

5.3.5 イタリア参戦とバルカン戦

1940年6月11日、イタリアが枢軸国側で参戦すると、まもなく北アフリカとギリシアに侵攻した。いずれもイギリス軍によって押し戻されたが、ヒトラーは枢軸国側の戦意高揚と、ギリシアについては対ソ戦における南側面の安全確保を目的に両地域に侵攻し、支配下におくことに成功した。

図表5.7(再掲) 第2次世界大戦のはじまり

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(1) イタリア参戦註535-1

フランスの敗戦が濃厚になった1940年6月11日、イタリアはイギリスとフランスに宣戦布告した。シチリア沖にあるイギリスが支配するマルタ島を攻略する計画を策定していたが、「イギリスの敗北に乗じてかっさらえばいい」とその作戦はとりやめ、フランス南東部にわずかな兵を入れただけで、そこを獲得した。

6月18日にヒトラーと会談した際、ムッソリーニはフランス艦隊や仏領植民地に色気をみせたが、ヒトラーに「そうした行為に走ることは認められない」とたしなめられている。

(2) エジプト進軍とコンパス作戦註535-2

北アフリカのリビアはイタリアの植民地であり、隣のエジプトはイギリスの影響下にあった。ムッソリーニは1940年7月にリビア総督に対してエジプトに向けて進軍せよ、との命令を出したが、リビア総督はぐずぐずと出陣を延ばし、9月13日になってようやく動き出した。このときイギリス軍は兵力も装備も十分でなく、少し戦っては退き、戦っては退き、を繰り返した。イタリア軍の目的は、スエズ運河を押さえることだったが、途中で道に迷うなどヨタヨタと進軍を続け、エジプト領に入って間もなく、シディ・バッラニというところで進軍をやめてしまった。

イギリスは戦力を増強し、12月9日から「コンパス作戦」を開始、イタリア軍を押し戻し始めた。そしてリビアに侵入してトブルク要塞を陥落させ、2月にはその西にあるベンガジまで侵攻して作戦を終了した。
この後、ヒトラーはロンメル将軍を派遣し、北アフリカでは連合軍とドイツ軍の戦闘が続けられることになる。

図表5.10 北アフリカ戦線地図

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出典) 太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」やGoogleマップをもとに作成。
モロッコとアルジェリアはフランス領、リビアはイタリア領、エジプトはイギリスの影響下にあった。

(3) イタリアのギリシア侵攻註535-3

ムッソリーニは、1940年10月8日にドイツ軍がルーマニアに進駐したという話を聞いて、ドイツが自分に連絡せずに進駐したと思い込み、「ヒトラーは余に挑戦し続けている、今度こそしっぺ返しを食らわせてやる」といきまいた。(実はドイツから事前に連絡があったのだが手違いでムッソリーニには情報が届いていなかった。)

ムッソリーニはただちにギリシアへ侵攻するよう軍に指示した。対ソ戦をひかえてギリシア攻撃によりイギリス軍が出張ってくることを恐れたドイツは、それまで何度もムッソリーニにギリシアを攻撃しないよう警告していたのである。

1940年10月28日、イタリアは1939年に併合したアルバニアからギリシアに侵攻した。しかし、イギリス軍の支援を受けたギリシア軍によって年末までに押し戻されてしまった。

(4) 三国同盟とヒトラーの戦略註535-4

1940年9月27日、ドイツはイタリア、日本と三国同盟を締結した。ヒトラーは、この軍事同盟にアメリカの参戦を抑止させる効果と、ヨーロッパの反イギリス勢力――ムッソリーニのイタリア、フランコのスペイン、ペタンのヴィシー政権――が結集することを期待した。同年10月、ヒトラーはこれらの首脳と個別に会合したが、3者ともに自身の欲望実現のためにドイツの協力を求めることがあっても、自身がドイツに協力することには及び腰という点では一致していた。結局ヒトラーは、{ 大陸ブロックを形成し、イギリスに対抗するというドイツの構想において、かれらラテン諸国は全く当てにならない}(ビーヴァー「第2次世界大戦((上巻))」、P297-P298) ということを悟った。

(5) ドイツのバルカン戦略註535-5

ドイツが対ソ戦を始めるにあたっては、南側を固めておく必要があった。特にルーマニアは重要で、ドイツ機動部隊の燃料となる油田があり、兵士の供給源でもあった。1940年の秋、ドイツはこのルーマニアとハンガリーに外交攻勢をかけて、日独伊三国同盟に加盟させることに成功した。

また、イタリアのギリシア侵攻失敗によって、イギリス軍がギリシアに駐屯するようになっており、ルーマニアを守るためにはこれを排除する必要があった。さらに、北アフリカでのイタリア軍の敗北をほっておけば、連合軍を活気づけることになりかねず、ロンメル将軍を派遣して形勢逆転を図ろうとした。

ギリシア攻撃に先立ち、周辺のブルガリアとユーゴスラヴィアに三国同盟への加盟を呼びかけ、ブルガリアはすんなり応じたが、ユーゴは反対論が強く政府はあやふやな態度を取り続けていた。ドイツは執拗に加盟を迫り、1941年3月25日、ユーゴ政府は受諾せざるを得なくなった。だが、3月27日、セルビア人将校団がクーデターを起こし、政権を掌握してしまった。

(6) ドイツのギリシア侵攻註535-6

ドイツはギリシア侵攻作戦(マリータ作戦)に1941年1月~3月の3カ月間をかけた。チャーチルはドイツ軍がドナウ川下流域に集結しているのを知って、イギリスへの信頼感を高めるために、地中海方面軍総司令官に3個師団をギリシアに送るよう指示した。総司令官はその程度の軍勢でドイツ軍を防ぐことは困難で、犠牲を出すだけの派遣には消極的だったが、やむなく承知した。

3月27日にユーゴでクーデターが起きると、ドイツ軍は4月6日、ユーゴの首都ベオグラードを空爆するとともに、ギリシアとユーゴスラヴィアに向って装甲師団が進撃を開始した。ユーゴ軍は対空砲も対戦車砲もないなかで、果敢にドイツ軍に挑んだが4月17日に降伏した。ギリシア軍とイギリス軍も健闘したが、イギリス軍は4月21日に撤退を決め、ギリシア軍も降伏する部隊が増えるなかで、ドイツ軍は4月26日 アテネに入城した。

(7) クレタ島攻防戦註535-7

クレタ島はアテネの南の地中海に浮かぶ大きな島で、ルーマニアの油田地帯やスエズ運河を空爆することができる戦略拠点だった。イギリスは1940年11月、クレタ島を占領下においていた。ドイツ空軍はギリシア侵攻後、空挺部隊を使ってこの島を攻略することを決めた。イギリス軍はドイツ軍の暗号交信を解読して、その作戦の詳細まで探知していた。

ドイツ軍は総攻撃の前に対空砲などを狙った空爆を行った後、1941年5月20日から空挺部隊とグライダー部隊による空中強襲作戦を開始した。クレタ島の守備にあたった司令官は、空から兵士を降らせてくる、という発想が理解できず、海からの脅威にばかり目が向きがちだった。そのため、兵員の配置が適切でなかったり、滑走路を破壊しておかなかったり、というミスを犯してしまい、ドイツ軍は降下部隊に多大な損害を出したものの、結局のところこの島を占拠することに成功した。


コラム 対ソ戦の敗因はバルカン戦?

ヒトラーは、第2次世界大戦の終了間際、バルカン戦争のおかげで「バルバロッサ作戦(独ソ戦)」の発動が遅れ、その遅れが敗因のすべてだ、と語ったという。
しかし、歴史家が交わしている議論では、バルカン戦争はたいした影響を与えていない、というのが結論である。

「バルバロッサ作戦」の開始が5月から6月に遅れた原因は、いくつかあげられている。フランスから獲得したエンジン付き輸送車両の配備遅れ、燃料の割り当てが決まらなかった、晩春の豪雨のために前方飛行場の設置が遅れた、などである。

しかし、バルカン戦争がもたらした次のような副次効果について、疑問を呈する歴史家はほとんどいない。それは、ドイツがバルカンを攻めたのは、対ソ侵攻作戦を狙ったのではなく、スエズ運河の獲得が目的だった、とスターリンが確信したことである。

(参考文献: ビーヴァー「第2次世界大戦(上巻)」,P332)


5.3.5項の主要参考文献

5.3.5項の註釈

註535-1 イタリア参戦

ビーヴァー「第2次世界大戦(上巻)」,P219-P220、P249 太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P37

{ ムッソリーニは「今回、余は宣戦布告はするが、敢えて戦争を行なうつもりはない」と、言ったと伝えられている。この一見狡猾とも見える首領閣下の二股膏薬戦術で最大の犠牲となったのは、悲しいくらい劣悪な装備とともに、戦場へと送り出されたイタリア軍だった。イタリアとは旺盛な食欲と、貧弱な歯を持った国であると、かつてビスマルクは同国について喝破したことがある。第2次世界大戦を概観する時、この言葉がいかに的を射たものであるか、イタリはこのあと、そのことを身をもって悲惨な形で実証していくのである。}(ビーヴァー「同上(上巻)」、P220)

註535-2 エジプト進軍とコンパス作戦

ビーヴァー「同上(上巻)」,P300-P301、P306-P312 太平洋戦争研究会「同上」,P55-P57

{ 【2月7日の朝、イタリア軍は降伏した】疲れ果て、惨めな姿のイタリア兵が、見渡す限り広がっていた。【イギリス軍の】クーム中佐づきの准大尉の一人が無線による質問を受けた。「…いったい何人の捕虜を取ったのかと」。…その准大尉は答えた。「私の見るところ、おそらく数エーカーぐらいでしょう」と。5日後、ドイツ陸軍のエルヴィン・ロンメル中将がトリポリに第1歩を記した。}(ビーヴァー「同上(上巻)」、P312-P313)

* 1エーカーは約4047平方メートル(1辺が約63.6mの正方形)

註535-3 イタリアのギリシア侵攻

ビーヴァー「同上(上巻)」,P262-P269 太平洋戦争研究会「同上」,P44-P46

{ ギリシア侵攻の大義名分はまったくなく、単にヒトラーに対する屈辱感を晴らすためだった。ばかげているが、どうもそれが真相らしい。それまでにヒトラーは、ポーランド侵攻もノルウェー侵攻もムッソリーニにはなんの予告もなく始めたが、同盟国たるイタリアを無視するヒトラーにムッソリーニは耐え難い屈辱感を抱いていた。}(太平洋戦争研究会「同上」、P53<要約>)

註535-4 三国同盟とヒトラーの戦略

ビーヴァー「同上(上巻)」,P293-P298

{ 独西首脳会談が始まった。… スペイン総統の口からは言葉が奔流のように飛び出し、全く口を挟めなかった。… フランコは、ヒトラーが成し遂げたすべての事柄に対し、いちいち感謝の言葉を重ね、西・独両国の間には「精神の同盟関係」が存在すると力説する一方で、内戦によって疲弊したスペインゆえに、ドイツ側にたって参戦できないことに関しては、内心、忸怩たるものを感じている、と言った。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P294-P295<要約>)

{ ペタン元帥はヒトラーに対して同格の国家元首であるかのように接し、フランスの海外植民地は保証されてしかるべきだと主張したが、ヒトラーはあっさり却下した。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P297<要約>)

註535-5 ドイツのバルカン戦略

ビーヴァー「同上(上巻)」,P315-P324 太平洋戦争研究会「同上」,P53-P55

{ ルーマニアは第1次大戦で最も領土を増やした国であったが、ドイツとソ連は独ソ不可侵条約の秘密協定書でルーマニアの領土分割を取り決めており、ソ連はベッサラヴィアなどを獲得し、ハンガリーとブルガリアはドイツの仲介のもとで領土の割譲を受けた。ルーマニアの政権は親ナチスにかわり、1940年10月にドイツ軍を進駐させていた。}(太平洋戦争研究会「同上」,P54-P55<要約>)

註535-6 ドイツのギリシア侵攻

ビーヴァー「同上(上巻)」,P318-P319、P324-P331 太平洋戦争研究会「同上」,P55

{ ギリシアに派遣された連合軍の各部隊は、撤退に際し、橋梁や鉄道を爆破することに、かなりの戸惑いを覚えた。それでもギリシア人たちは、最大級の友情と寛大さをもって、かれらを遇してくれた。立ち去るとき、ギリシア正教の聖職者たちが連合軍の車輛に祝福を与えてくれたし、村々の女たちは兵士たちに花やパンを手渡してくれた。だが、… 自分たちがこの先、どれほど過酷な運命に見舞われるのか、彼らは気づいていなかった。… ドイツ占領下の最初の1年に、じつに4万人を超えるギリシア人が餓死することになるのである。}(ビーヴァー「同上(上巻)」、P329)

註535-7 クレタ島攻防戦

ビーヴァー「同上(上巻)」,P334-P350)

{ ドイツ国防軍はこの「クレタ島の戦い」で開戦以来、最大の打撃をこうむった。だが、… 守る側の連合軍部隊は結局、本来なら必要のない痛烈な敗北を喫した。そして奇妙なことに、戦いの双方は、今回の空挺作戦からそれぞれ異なる教訓を導き出すのである。ヒトラーは、大規模なパラシュート降下作戦は今後2度と行うまい、と決意した。一方、連合軍側はこののち、自前の空挺部隊の発展を積極的に推進していく。そして後年、かれらは空挺作戦から、悲喜こもごもの結果を味わうことになる。}(ビーヴァー「同上(上巻)」、P350)