日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.3 第2次世界大戦の始まり / 5.3.4 イギリス大空襲

5.3.4 イギリス大空襲(Battle of Britain)

ヒトラーはイギリスを屈服させるために大空襲を開始したが、十分な成果をあげられず、Uボートを使ってイギリスへの物資供給を断つ作戦も開始した。一方、アメリカは武器貸与法を成立させ、イギリスなどへの物資支援を開始した。

図表5.7(再掲) 第2次世界大戦のはじまり

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(1) フランス海軍の無力化註534-1

ヒトラーはフランス征服後、イギリス本土に軍を上陸させる計画をたてていたが、その際、カギになるのは海軍力である。フランスが降伏した際、ほとんど無傷で残ったフランス海軍はそのままフランスの新政権(ヴィシー政権)のもとにあったが、チャーチルはそれらがドイツ軍に渡ることを恐れた。さらに、チャーチルは全世界とアメリカ合衆国に向けて、イギリスの徹底抗戦の意志を最大限誇示したいと考えていた。

7月3日、イギリス軍は各地でフランス海軍の軍艦を接収した。多くは平和的にイギリス軍に引き渡されたが、一部では引き渡し交渉が成立せず、イギリス海軍の攻撃により巡洋艦などを撃滅したケースもあった。
イギリス海軍はこの処置を海軍創設以来の「恥ずべき任務」と考えたが、全世界およびイギリス国内に対して、徹底抗戦の覚悟を示したことは絶大な宣伝効果をもたらした。なかでも米国のローズヴェルト大統領は、イギリスが降伏することはあるまい、と確信した。

(2) アシカ作戦註534-2

イギリス本土攻略作戦は「アシカ作戦」と呼ばれ、最初の計画は1939年12月にできていた。ただ大量の兵員や戦車などの装備などを輸送する船団を仕立て上げなければならず、陸海空3軍間で論争が続いていた。ヒトラーは、1940年7月19日のドイツ国会議員への演説でイギリスに和平を呼びかけたが、イギリスは拒否し、まずは空軍による大攻勢を8月から開始することになった。

(3) イギリスの防衛体制註534-3

空軍戦力

ドイツ空軍がイギリス本土爆撃に使用できる航空機は、爆撃機1000機、急降下爆撃機350機、戦闘機(メッサーシュミットなど)950機、爆弾も積める重戦闘機370機の計2700機あまりだった。これに対して、イギリス軍は戦闘機(スピットファイアーなど)が中心で700機であったが、これを週に100~140機生産する態勢を整えていた。

パイロット

空襲が最も激しかった1940年の夏、イギリス空軍のパイロットは2940人いたが、うちイギリス人は80%ほどで、残りは外国人だった。最も多かったのはポーランド人で、145人いた。彼らはドイツのポーランド侵入により、イギリスに避難してきた者たちだったが、恐ろしく勇敢で故国を侵略したドイツ軍と戦うことに喜びさえ抱いていた。

レーダーシステム

イギリスは世界に先駆けて開発したレーダーシステムを海岸線に沿って設置していた。このシステムにより、海峡の上空で常時、空中哨戒を行う必要がなくなり、貴重な飛行時間を浪費せずに敵機に対応することができた。

(4) 空襲開始註534-4

ドイツ空軍が初めてイギリスを爆撃したのは7月10日だったが、最初は制空権を確保することが目的だったので、イングランド南岸の港湾施設や飛行場などが対象だった。しかし、イギリス空軍の迎撃にあって目的は達成できなかった。

ドイツ軍は「アドラーアングリフ(鷲の攻撃)」と名づけた作戦を8月13日から開始した。イギリスの海軍基地と空軍の飛行場を重点的に爆撃する計画だったが、攻撃する場所を間違えたり、イギリス空軍機に迎撃されたりして十分な成果をあげることができなかった。その後も思うような成果を上げられないまま、大規模な空爆が続いたが、8月24日ドイツ空軍は誤って爆弾をロンドン市内に落とした。チャーチルは怒って報復爆撃を指示し、8月25日にイギリス空軍はベルリンを爆撃した。

(5) 空襲の縮小註534-5

9月7日、ドイツ空軍は爆撃主体をロンドンに切り替え、1000機以上の航空機を投入して大規模爆撃を行い、その後も都市への爆撃を続けたが、イギリス空軍も抗戦を続け、ドイツ空軍の損害はしだいに増えていった。「アシカ作戦」は10月2日には延期が決定していたが、10月から夜間空襲が始まり、冬になっても続けられた。

空襲の最盛期は8月と9月で、8月から11月までの4か月間でドイツ空軍は約1700機を失い、イギリス空軍は900機を失った。また、この年の末までにイギリスでは23千人の民間人が爆撃で死亡し、32千人が重傷を負った。だが、このような損害を受けても、イギリス国民の戦意を打ち砕くことはできなかった。

ナチ上層部は、空爆作戦だけでイギリスを屈服させるのは無理ではないか、と考え始めていた。第1次大戦でイギリスが実施した海上封鎖を思い起こし、同じことをイギリスに対して行うことが効果的であろう、そういう空気が広がっていった。その結果、これ以降の対イギリス作戦は潜水艦(Uボート)を使って、イギリス諸島を「兵糧攻め」にする方向へと移っていく。

(6) アメリカの軍事支援註534-6

ローズヴェルト大統領は、1937年10月に行った有名な「隔離演説」※1で、名指しはしないものの独伊日のファシズム国家の危険性を指摘していたが、アメリカ合衆国の国内世論はヨーロッパやアジアの戦争に関与すべきではない、というのが大勢を占めていた。

チャーチルは再三にわたってローズヴェルトに支援を求めていた。ローズヴェルトは1940年11月の大統領選挙で再選されると、12月29日に「アメリカは民主主義の兵器工場とならなければならない」と国民に訴え、翌1941年1月の年頭教書では「言論・表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由を守るために、ファシズムと戦っている国々への支持を訴えた。そして、同年3月に武器貸与法を成立させ、アメリカの防衛に必要とあらば、どの国にたいしても武器弾薬を売却・譲渡・貸与できるようにした。

こうした武器貸与法の付帯条項には極めて苛酷な貸し付け条件があり、国有財産の監査、保有する外貨準備と金準備を使い切るまでは支援できない、などイギリスへの支援に反対する人々を納得させるためとみられる厳しい条件が付けられていた。

ともあれ、この法にもとづきローズヴェルトは、西大西洋における安全保障ゾーンの設定、アイスランド防衛の肩代わり、イギリス海軍艦艇の修理をアメリカの港湾施設で実施、などのほかにイギリスの護送船団をアイスランドまでアメリカ海軍がエスコートするなど、公然と連合国側を支援することになった。

※1 隔離演説は1937年10月5日、シカゴ゙で行われた演説で「国際的無法状態という疫病が広がりつつあり、その患者は隔離されなければならない」と述べた。1937年7月には盧溝橋事件が起きている。

(7) Uボートによる封鎖作戦註534-7

Uボートは第1次大戦で活躍したドイツの潜水艦だが、第2次大戦でもその改良版が大西洋で連合軍の艦艇を苦しませた。チャーチルに{ 大戦中、自分の心胆を寒からしめた唯一の問題こそ、Uボートによる海上封鎖だった…}(ビーヴァー「第2次世界大戦(上巻)」,P369-P370) と言わせるほど、連合軍にとって大きな脅威だった。

1940年の秋以降、フランス西岸を基地としてUボートの活動は活発化する。イギリス大空襲が思うような成果をあげられない中で、Uボートはイギリス諸島の海上封鎖作戦の主力となっていった。1941年4月の連合国側商船の被害は68万6千トンにもなった。

連合軍側は様々なUボート対策を打ち出していった。駆逐艦による護衛(1941年9月からはアメリカ海軍がエスコート)、航空機レーダーによる探知、暗号解読(1941年5月にはドイツ軍の暗号化装置“エニグマ"を押収)、などにより、しだいに被害は減少したが、Uボートによる攻撃は終戦まで続けられた。


5.3.4項の主要参考文献

5.3.4項の註釈

註534-1 フランス海軍の無力化

ビーヴァー「第2次世界大戦(上巻)」,P252-P256 太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P42-P43

註534-2 アシカ作戦

ビーヴァー「同上(上巻)」,P258-P260 太平洋戦争研究会「同上」,P43-P44

{ ヒトラーの警戒心は別の方面に向いていた。いまここで、もし大英帝国が解体したら、アメリカや日本やソ連が、イギリスの植民地を奪取しようと動くかもしれないと。結果、ヒトラーは諸状況を勘案したのち、次のように決定した。来るべきイギリス侵攻計画――「アシカ作戦」――は、… ゲーリングがドイツ空軍をもってイギリスを屈服させたあとに、本格的に着手すると。}(ビーヴァー「同上(上巻)」、P259)

註534-3 イギリスの防衛体制

ビーヴァー「同上(上巻)」,P262-P269 太平洋戦争研究会「同上」,P44-P46

{ イギリスの新鋭戦闘機スピットファイアは、… ドイツのメッサーシュミットと比較すると、スピードはほぼ互角、上昇力や急降下速度ではむしろ劣っていた。しかし、急角度で曲がったり、宙返りする旋回能力ではスピットファイアが優っていたので、ドイツ機が撃墜されるケースが多かった。}(太平洋戦争研究会「同上」、P46)

{ 上官を上官とも思わぬポーランド兵の態度は、しばしば問題とされたけれど、… 彼らは最新の戦闘機を手に入れたいま、燃えるような復讐心へと転化した。… イギリス式食生活への恐怖から、ポーランド人はこれ以上ないくらい激しい郷愁に襲われた。たとえば、焼きすぎのマトンとキャベツ、あるいは何にでもついてくる甘いカスタード・ソースと呼ばれるもの … には言葉を失った。}(ビーヴァー「同上(上巻)」、P264)

註534-4 空襲開始

ビーヴァー「同上(上巻)」,P267-P277 太平洋戦争研究会「同上」,P46-P48

{ 【イギリス上空で撃墜された】あるポーランド人パイロットは、パラシュートがオークの木に引っかかって宙づりとなった。枯草を投げ上げるときに使う三つ又の農具や竿なんかを手にして、人々が駆けつけてきた。… そのうちの一人、散弾銃を手にした男が、引きつったような声で、「ヘンデ・ホーホ(手を挙げろ!)」とドイツ語で言った。ポーランド人パイロットは可能なかぎり訛りのない英語をこころがけつつ即座に言い返した「ファック・オフ(このくそったれが)」と。不機嫌そうな一団はその瞬間、破顔一笑。「味方だ、味方だ」と声を合わせて叫んでいた。}(ビーヴァー「同上(上巻)」、P273)

註534-5 空襲の縮小

ビーヴァー「同上(上巻)」,P277-P281 太平洋戦争研究会「同上」,P47-P49

{ ドイツ軍のイギリス本土侵攻計画、いわゆる「アシカ作戦」はすでに10月2日、翌春までの延期が事実上決定されていたのだが、ふたつの意味で心理的影響を及ぼした。ドイツ軍が間もなくやってくるぞ、という警戒心は、チャーチルが国論をまとめあげ、長期戦に向け国民の覚悟を固めさせるうえで大きく寄与した。対するヒトラーもなかなかだった。侵攻作戦を放棄したあとも長きにわたって巧妙な心理的威嚇を持続させ、結果、イギリスはこれ以降も、必要不可欠なレベルをはるかに超える守備部隊を、イギリス本土に留めおくことになる。}(ビーヴァー「同上(上巻)」、P282)

註534-6 アメリカの軍事支援

ビーヴァー「同上(上巻)」,P364-P369 太平洋戦争研究会「同上」,P52

{ 1940年11月、アメリカ海軍作戦部長が作成したたたき台をもとに、米英両国の参謀たちが1941年1月末から3月まで意見交換を行い、アメリカが参戦した場合、英米連合軍が如何なる戦略を採用すべきか、が定まった。「まずはドイツを叩く」という基本方針が原則的に同意された。たとえ太平洋で日本相手の戦争が勃発しても、アメリカはまず、ドイツの打倒に集中することが確認された。なぜなら、アメリカ軍がヨーロッパ戦線に大幅な関与を行わない限り、イギリスが自力で戦争に勝てないことは自明の理であり、そして、ひとたびイギリスが失われれば、アメリカ合衆国と世界の通商関係は、丸ごと危険にさらされるからである。}(ビーヴァー「同上(上巻)」、P365)

註534-7 Uボートによる封鎖作戦

ビーヴァー「同上(上巻)」,P369-P374

{ 船長から甲板員まで、すべてのクルーはUボートがすでに忍び寄っているのではないかとか、魚雷を食らって、いつ何時寝台から弾き飛ばされるか分かったもんじゃないといった怯えに24時間つきまとわれた。そんな危険を少しでも和らげてくれるもの、それはひどい天気と荒れる海面ぐらいだった。…
一方、Uボートの乗員は、不快な居住環境にいた。結露による水滴が隔壁を伝い落ち、艦内の空気は、濡れた衣服と、何日も風呂に入らぬ人体からあがる、おそろしい悪臭のせいで、つんと鼻についた。それでも彼らの士気は戦争のこの段階では総じて高かった。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P372-P373)