日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.3 第2次世界大戦の始まり / 5.3.3 フランス失陥

5.3.3 フランス失陥

1940年5月10日、ついにドイツ軍はオランダ、ベルギー、フランスへの侵攻を開始した。待ち受ける連合軍の意表を突くような作戦と飛行機・戦車・装甲車など近代兵器を駆使した「電撃戦」により、わずか1.5月ほどで英仏連合軍を破り、オランダ・ベルギー・フランスは降伏した。

図表5.7(再掲) 第2次世界大戦のはじまり

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(1) ドイツ軍の戦略註533-1

侵攻作戦の骨子

図表5.9をもとにドイツ軍の作戦を説明する。まず、軍を北からA,B,Cの3つの集団に分け、それぞれさらに2~3個の軍団で構成する。B軍集団は北からオランダとベルギーに侵攻し、アムステルダム、アントウェルペン、ブリュッセルを攻略する。次に中央のA軍集団の第4軍はベルギー南部を目指し、機動部隊の主力を抱えた第12軍と第16軍はルクセンブルクを通ってフランスに突入、さらに一部の機動部隊はそのまま大西洋岸まで突っ走って北に戦力を集中するであろう連合軍を包囲する。そして、C軍集団ははるか南方で陽動作戦を行ってマジノ線に圧力をかけ続ける。ざっとこんな作戦であった。

作戦のミソは侵攻の主力は北部にあると思わせてそこに連合軍の兵力を集中させる一方、機動部隊がアルデンヌの森という山岳地帯※1を突っ切ってマジノ線の北端からフランス国境線に達して、北部に集中した連合軍を包囲する、というところにある。

※1 アルデンヌは、密集した樹木が広がる山岳地帯ではあったが、戦車が通るのに十分な未舗装の小道があった。ベルギー政府はその危険性を指摘したが、連合軍司令官は無視した。(ビーヴァー「同上(上巻)」、P160)

最新の軍備、戦術

ドイツ軍の戦車や飛行機は最新鋭だっただけでなく、空陸協同の連携攻撃はイギリスにもフランスにも真似のできない新しい戦術であった。また、この作戦では落下傘部隊による降下作戦やグライダーに乗った兵士による急襲なども行われた。さらに、無線機の活用は機動的な集団行動に寄与した。

情報戦

侵攻前後の情報戦にもドイツは力を入れた。攻撃はオランダ・ベルギーに集中するとか、スイス領内を強行突破する、といったうわさを蔓延させた。フランスのガムラン総司令官はまさにこの情報戦にひっかかった。
また、ドイツ軍はフランス側の暗号を解読し、連合軍側の配置を細部にまで把握していた。

図表5.9 ドイツのフランス侵攻

ドイツのフランス侵攻

出典)ビーヴァー「第2次世界大戦(上)」,P166、太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P29 をもとに作成。

(2) 連合軍の戦略註533-2

連合軍は、主力のフランス軍が総司令官をつとめ、イギリス海外派遣軍(BEF)とベルギー軍、オランダ軍で構成されていたが、ベルギーとオランダは規模も小さく、中立性を訴求するため戦争に対して消極的だった。フランス軍は総司令官ガムラン将軍を筆頭に防御重視の姿勢が末端まで徹底しており、国民にも無気力が蔓延していた。唯一、戦車部隊の一部を率いるシャルル・ド・ゴール大佐(のちのフランス大統領)だけが一人気を吐いていた。

フランス軍の保有する戦車はドイツ軍戦車に劣っていなかったが、ドイツ軍のように空軍や歩兵と一体化した運用ではなかった。何より、決定的に弱かったのが空軍力である。イギリスの戦闘機ハリケーンとスピットファイアは、ドイツのメッサーシュミットに対抗できる性能を持っていたが、投入できる機数は少なかった。フランスにはそうした新鋭機はなく、ベルギーに至っては複葉機で戦うような状態だった。さらに仏英両軍の通信設備はおそろしく旧式で、戦場がひっきりなしに移動する機動戦では有線による通信は役に立たなかった。

(3) オランダ・ベルギー降伏註533-3

1940年5月10日の早朝、ドイツ軍の攻撃は空軍による爆撃から始まった。狙ったのはオランダ、ベルギー、フランスの飛行場で、この攻撃でフランス空軍は壊滅的な打撃をうけた。次いでドイツ軍の主力は北から攻めてくる、との印象をあたえるため、オランダに爆撃を集中させた。
一方、地上軍は戦車や装甲車を先頭に進撃を開始し、そのあとに徒歩の歩兵たちが続いた。

オランダ降伏

ドイツ軍は開戦直後に空挺部隊をロッテルダムに降下させるとともに、市街地を猛爆した。空挺部隊はオランダ軍に退けられたものの、侵攻した地上軍は5月13日にはロッテルダムに達し、オランダは14日降伏した。オランダ女王と政府はその前日にロンドンに亡命した。

ベルギー降伏

5月10日、ベルギーとドイツ国境付近にあるエバン・エマール(Eben-Emael)要塞をグライダーに乗ったドイツ兵が襲い、要塞を無力化した。ベルギー軍は英仏軍とともに、ドイツ軍と戦ったが、しだいにベルギー西部に追いつめられ、5月28日、無条件降伏した。

(4) 連合軍崩壊註533-4

5月10日、西を目指したドイツ機甲師団は最大標高700mのアルデンヌの森を越え、12日にはムーズ川※2沿いのディナン(ベルギー)やスダン(仏)に到達した。このあたりに配置されていた連合軍部隊は装備も劣った弱小部隊だったうえに、ガムラン総司令官はこの期に及んでもこの方面からドイツ軍が侵攻することはない、と思っていたため、防衛体制が強化されることはなかった。ドイツ軍は多少の抵抗を受けただけで、14日にはムーズ川を越えた。

フランスに入った機甲師団は、この後大西洋岸を目指して西進していく。その模様をビーヴァー氏は次のように描いている。

{ ドイツ軍の各先鋒は、前へ前へと一気呵成にすすんでいった。その切っ先にあって露払い役を演じるのは八輪装甲車とサイドカー付きオートバイからなる偵察大隊の面々だ。…そのあとに続くのが、黒服の戦車搭乗員たちである。… みなヒゲも剃らず、疲労困憊、不潔のかたまりだった。… 各装甲師団のすぐ背後には自動車化された歩兵部隊からなる侵攻の第二波が続いていた。… かれらのさらに後方には、文字通り徒歩で移動する歩兵たちが続いていた。}(ビーヴァー「第2次世界大戦(上巻)」、P191)

5月20日、機甲師団の先鋒はソンム川の大西洋への河口に到達した。こうして北部にいた英仏連合軍の主力は、大西洋岸に封じ込まれることになった。総司令官ガムラン将軍はレイノー仏首相に解任され、ウェイガン将軍が後任についた。同時に副首相としてペタン元帥※3が迎えられた。

※2 ムーズ(仏Meuse、蘭Maas)川は、フランス北東部からベルギーを通ってオランダで北海に注いでいる。

※3 フィリップ・ペタン元帥は、第1次大戦でフランスを勝利に導いた英雄として、フランス国民に絶大な人気があった。

(5) ダンケルクの奇蹟

ドイツ装甲軍団一時停止註533-5

5月24日までにドイツ軍は、アルデンヌの森を越えて疾駆してきた装甲軍団と北部から侵攻してきた軍団が合流してダンケルクを囲む総延長50kmの包囲網を築いていた。装甲軍団はここで行動を一時停止した。行動を停止した理由については諸説あるようだが、ビーヴァー氏は「遅れている歩兵が追いつくのを待つべきだ」としてヒトラーの支持をとりつけたことによるものだという。この停止がダンケルクからイギリス本土に脱出しようとする連合軍部隊を救った。。

撤退作戦開始註533-6

連合軍が包囲され絶滅の危機にあることを知ったチャーチルは26日の夕刻、陸相を通じてBEF司令官ゴート卿にダンケルクからイギリス本土への撤退を指示した。撤退は5月19日に負傷者や後方部隊などから始まっていたが、本格化したのは5月26日の夜からだった。輸送用の船は海軍の軍艦約200隻のほかに、民間の船主に志願をよびかけ、貨物船、大型ヨットなど600隻も加わった。渡航する船に対してドイツ空軍が攻撃をしかけ、それを海軍の対空砲で迎撃するという状況での撤退劇になり、死傷者は少なくなく、駆逐艦10隻も沈没もしくは大破された。海軍の損耗が激しくなったため、撤退作戦は6月4日にダンケルクを出港した船が最後になった。

撤退作戦の成果註533-7

撤退作戦開始前、イギリス海軍本部は45千人ぐらいは救いたいと考えていたが、結果は338千人も輸送することができた。このうち193千人がイギリス兵で残りはフランス兵だった。およそ8万人の兵士(大半はフランス兵)は、戦場の混乱などで置き去りになり、ドイツ軍の捕虜となった。

(6) フランス降伏

フランス政府の疎開註533-8

6月5日、ドイツ軍は圧倒的に優位な兵力と制空権を活かしてフランス北部から南部への侵攻作戦を開始した。フランス軍は勇敢に戦ったが、ドイツ軍の進撃を止めることはできず、6月10日、ついに政府はパリを離れ、南のボルドーに首都機能を移転した。6月14日、ドイツ軍はパリに無血入城した。

抗戦派と講和派註533-9

この頃、フランス政府にはレイノー首相やド・ゴール准将など一部に徹底抗戦派がいたが、主流は軍総司令官のウェイガン将軍と84歳の重鎮ペタン元帥を中心とする講和派の人々であった。彼らは、フランスがこのような事態になったのはイギリスのせいだ、と責任転嫁した上で、敗戦のどさくさに紛れて共産革命が起きる可能性があり、それを防ぐためにフランス陸軍を維持する必要がある、と考えていた。

6月13日、ドイツ軍がパリ入城の準備を整えたその日、チャーチルは避難しているフランス政府を訪ねた。レイノー首相はドイツとの単独講和を申し出たが、チャーチルは「貴国の立場は理解できる」とした上で「ローズヴェルト大統領に支援を働き掛けたらどうか」と述べた。チャーチルにとっての最大の懸念は、巨大なフランス海軍が無傷のままドイツ軍の手に渡ることだった。もしそうなれば、ドイツ軍によるイギリス本土上陸作戦の成功確率が一挙に高まるからである。

政権交代とフランス降伏註533-10

6月16日、ローズヴェルト大統領の回答が届いたが、フランスが期待するような内容ではなかった。レイノー首相は落胆し、ルブラン大統領に辞任を申し出た。大統領はそれを受けて、ペタン元帥を首相に任命し、その日のうちに新内閣を発足させた。ド・ゴールら抗戦派は、戦いを継続するためイギリスに渡った。

6月22日、第1次大戦でドイツが降伏文書に署名させられたパリ郊外の「コンピエーニュの森」で、今度はフランスが休戦協定の文書に署名した。

(7) 降伏後のフランス註533-11

休戦後のフランスは次の4種類の地区に分割された。

ペタン元帥らの政府は、首都をヴィシーに置いたのでヴィシー政権と呼ばれた。海外植民地を継承し、10万人の陸軍と従来の海軍を保有することが認められた。

莫大なドイツ軍の占領経費(1日4億フラン)はヴィシー政権の負担とされた。ライヒスマルクとフランス・フランの交換比率は圧倒的にドイツ有利に設定され、フランスからドイツに輸出される食料や工業製品は事実上、ドイツに搾取される状態だった。ドイツで働く労働者も強制的に徴用された。フランス革命以来の理念である「自由・平等・博愛」にかわって「労働・家族・祖国」が唱えられ、「産めよ、殖やせよ」が新たな目標とされた。

ヴィシー政権は、ドイツに協力しつつ占領政策の緩和を求めるという姿勢であったが、ドイツの無理な要求を拒否することはできず、傀儡政権と変わりなかった。

※4 イタリアは1940年6月10日、英仏に宣戦布告し、フランス南東部に侵入していた。


コラム ヴィルヘルム2世とヒトラー

ドイツがオランダを降伏させた翌日、ヒトラーのもとへオランダに亡命していたかつてのドイツ皇帝ヴィルヘルム2世から電報が届いた。その電報には次のように書かれていた。

「わが指導者よ! 朕は貴殿に祝意を表するとともに、貴殿の卓越した指導力のもと、ドイツ君主政の完全復活を希望しておる」

かつての皇帝陛下が、昔のビスマルクの役割をヒトラーに期待していると知って、驚くとともにあきれるしかなかった。「なんという愚か者か!」とヒトラーは従者に語ったという。

(参考文献: ビーヴァー「第2次世界大戦(上巻)」,P188)


5.3.3項の主要参考文献

5.3.3項の註釈

註533-1 ドイツ軍の戦略

ビーヴァー「第2次世界大戦(上巻)」,P158,P165-P169、P173

{ 仏英連合軍をベルギー領内におびき寄せるという「マンシュタイン計画」の成功には、フランス人がかかえる別の心理的要素も作用したように思われる。仮に、オランダ、ベルギー、フランス一帯に広がるフランドル地方が戦場になるならば、第1次世界大戦で甚大な被害を蒙ったフランス領内ではなく、いっそベルギー領内で戦闘が展開されるほうがましであると、大半のフランス人同様、ガムラン総司令官も判断したのだろう。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P168)

註533-2 連合軍の戦略

ビーヴァー「同上(上巻)」,P158-P161

{ フランス国民はそもそも今回の戦争を支持しておらず、そのことはほとんど隠しようがなかった。気を付けた方がいいぞ、イギリスはフランスを戦争に巻き込むつもりだし、しかも実戦の大半はフランス側に押しつけるつもりだぞ――というドイツ側がしかけた強力な宣伝工作はたしかに効いており、仏英関係を見事にむしばんでいた。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P160)

註533-3 オランダ・ベルギー降伏

太平洋戦争研究会「第2次世界大戦」,P31-P32 ビーヴァー「同上(上巻)」,P175,P187-P188,P225-P226

{ ヒトラーは、グライダーに乗った強襲隊員がム-ズ川と「アルベール運河の合流点にある「エバン・エマール要塞」の斜堤に、見事着陸を果たしたと聞き、身震いを禁じ得なかったという。彼らはドイツ第6軍が翌日夕方に到着するまで、眼下に広がる巨大要塞の守備隊を見事に封じ込めて見せた。…
最大の目標だったハーグに対する空挺作戦こそ失敗したものの、オランダの深部まで敵兵がパラシュート降下で侵入したことは、相手方に相当な恐怖心を与え、パニックと混乱をつくりだした。ドイツの空挺隊員は尼僧に化けて空から降ってきたとか、子供たちに毒入りの菓子をばらまいたとか、… 途方もないうわさが飛び交った。」(ビーヴァー「同上(上巻)」、P175)

註533-4 連合軍崩壊

太平洋戦争研究会「同上」,P28-P32 ビーヴァー「同上(上巻)」,P169-P210

註533-5 ドイツ装甲軍団一時停止

ビーヴァー「同上(上巻)」,P217-P218 太平洋戦争研究会「同上」,P32-P33

{ このときのいったん休止は、ヒトラーが藪から棒に私的介入を行った結果ではない。5月24日夜、ドイツ陸軍総司令官フォン・ブラウヒッチュ上級大将が、ハルダー陸軍参謀総長の支持を得て、進軍続行を下命したにもかかわらず、現場のルントンシュテット「A軍集団」司令官がヒトラー総統の支持を取り付けて、まずは歩兵が追いつくのを待つべきだと主張した――というのが一連の経緯である。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P217-P218)

註533-6 撤退作戦開始

ビーヴァー「同上(上巻)」,P228-P233 太平洋戦争研究会「同上」,P32-P33

{ 【民間のヨットなど】小型船の多くは、海岸から沖合で待つ、より大型の艦艇に兵士たちを運ぶため、大車輪で活躍した。… いわゆる「ダンケルクの奇蹟」が実現できたのは、最も重要な数日間、夜も昼も、海が総じて穏やかだったことが大きかった。… イギリス空軍による上空援護に穴があくと、ドイツ空軍機がすかさず襲ってくるため、沖の艦までたどりつけたからといって、必ずしもそれで安泰というわけではない。… また、ダンケルクの内部に残るしかなかった負傷者は、それよりはるかに苛酷な状況に見舞われ、看護兵や軍医は、かれらを励ますこと以外、ほとんど何もできなかった。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P231-P232)

註533-7 撤退作戦の成果

ビーヴァー「同上(上巻)」,P233 太平洋戦争研究会「同上」,P33

註533-8 フランス政府の疎開

ビーヴァー「同上(上巻)」,P234-P236 太平洋戦争研究会「同上」,P34

{ ドイツ軍は海岸沿いのアプヴィル、アミアンからモンメディアまでの330キロ、マジノ線の全線300キロ以上の線に機甲部隊を東西に並べ、一斉に南下した。
政府はパリを離れ、ツール、ボルドーへと避難をつづけた。}(太平洋戦争研究会「同上」,P34)

註533-9 抗戦派と講和派

ビーヴァー「同上(上巻)」,P206、P237-P239 太平洋戦争研究会「同上」,P35

{ チャーチルは彼なりの助言を試みた。パリの家々を順次、防御陣地にしながら、ゲリラ戦を展開するのも悪くないのではないかと。… それまで無言だった元帥はそこで口を挟み、「そんなことをしたら、この国は廃墟になってしまう」と、言った。彼らの最大関心事は、革命勢力による秩序紊乱を十分に粉砕できるだけの実力組織、すなわち国軍を、いかにすれば今後も維持できるかの一点だった。}(ビーヴァー「同上(上巻)」,P237)

なお、太平洋戦争研究会は、{ ルブラン大統領は、固辞するペタン元帥に哀願して首相を引き受けさせた。}(太平洋戦争研究会「同上」、P35) とだけ書いている。

註533-10 政権交代とフランス降伏

ビーヴァー「同上(上巻)」,P239-P240,P249-P250 太平洋戦争研究会「同上」,P35

註533-11 降伏後のフランス

太平洋戦争研究会「同上」,P37-P39 ビーヴァー「同上(上巻)」,P250