日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.2 世界恐慌から第2次大戦へ / 5.2.7 スペイン内戦

5.2.7 スペイン内戦

スペイン内戦(1936年7月~1939年3月)は、当時の共和政を担っていた共和主義・共産主義などの左派系政権に対して、王党派や軍人、ファシストなどの右派(ナショナリスト)系がしかけた内戦で、ヘミングウェイ「誰がために鐘が鳴る」やピカソの「ゲルニカ」の素材となったことで世界に知られている。

この内戦では左派系をソ連が、右派系を独伊が、それぞれの陣営に引き込む思惑をもって支援したが、{ 大戦間期を通じてヨ―ロッパ中で昂進した左右対立の、最も暴力的な形での噴出 }※1と見ることができよう。結局、右派系が勝利し、そのリーダだったフランコ将軍による独裁政治が1975年まで続くことになる。

※1 立石・内村編「スペインの歴史を知るための50章」、P255

図表5.6 スペイン内戦

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(1) 第2共和政成立註527-1

王政から独裁政へ

スペインでは1873-74年に第1共和政があったが、その後、ブルボン朝の王政が続いていた。1898年の米西戦争に敗れて、キューバ、フィリピンなどの植民地を失い、第1次世界大戦(1914-18年)には参戦しなかったものの、大戦後は経済不振もあって王政は弱体化していった。1923年には王政下でプリモ・デ・リベーラ将軍による独裁政治が始まったが、これも世界大恐慌の影響を受けて1930年に退陣を余儀なくされた。

第2共和政成立

1931年春に行なわれた選挙では王政派をおさえて共和派が勝利し、国王アルフォンソ13世は国外に亡命して第2共和政が成立した。共和派はドイツのワイマール憲法をモデルにした民主的な憲法を制定し、農地改革や労働条件の改善などを進めたが、右派勢力はこれに反発し、労働者や農民との間で衝突が繰り返されたため、1933年に内閣は総辞職して総選挙が行われた。

この選挙で右派勢力が勝利し、農地改革の停止や言論の自由の抑圧が行われるようになると、左右両派の対立はいっそう激しくなり、1936年に再び選挙が行われることになった。

人民戦線政府成立

左派側は1935年にコミンテルンが提示した人民戦線構想に呼応して、中間的な共和政右派から共産党までが連携して選挙にのぞんだ。その結果、1936年2月の選挙では左派勢力が勝利し、人民戦線政府が成立したが、右派勢力の不満は抑えきれなくなっていた。

(2) 左右両派のプロフィール註527-2

左派(政権側)は人民戦線を作ったものの、内部は2つに分かれていた。一つは共和政擁護に重点を置く共和派や社会労働党右派、共産党などで、ソ連はこのグループを支援した。もう一つは、社会労働党左派、アナキスト、反コミンテルン派共産主義者などで、反ソ連派であり、この対立は左派側のネックとなった。

右派(反乱軍)には、軍や王党派のほか、ファシスト勢力やカトリック右派などがあり、これをドイツ、イタリアのファシスト政権が支援した。反乱軍のリーダとなったのは、フランコ将軍であった。フランコは有力将軍の一人にすぎなかったが、反乱の開始とともに、同輩が死亡したり、政府側に逮捕されたりしたため、指導者の地位につくことになった。

(3) 内戦勃発註527-3

人民戦線政府成立直後から、軍によるクーデターが計画されていた。1936年7月13日、右翼の大物政治家が暗殺されたことをきっかけに、7月17日にモロッコで、18、19日にはスペイン全土で軍の反乱がはじまった。フランコ指揮する反乱軍が正規軍であったのに対して、政権側はわずかな正規軍と労働者、市民の武装で対抗するしかなかった。

ドイツとイタリアは内戦直後から右翼反乱軍を支援し、航空機の支援や地上軍の派遣も行った。他方、イギリスとフランスは紛争がヨーロッパ全土に拡大することを懸念して不干渉政策を提唱したが、ソ連はこれを無視して共和国政府の要求に応じて支援を決定し、大規模な物資援助を開始した。

反乱軍は最初、首都マドリードを狙ったが、政権側の粘り強い抵抗にあって断念し、北部工業地帯の攻略に切り替えた。

(4) 反乱軍の攻勢註527-4

1937年4月、独伊の空軍部隊はスペイン北部のゲルニカを無差別爆撃した。ドイツ空軍は兵器や戦術の実験場としてスペイン内戦を活用したが、その悲劇的なシーンがピカソの絵にも描かれたゲルニカ爆撃であった。反乱軍はその後、ビルバオ、サンタンデールなど北部都市を攻略し、1937年10月には北部を支配下においた。

一方、劣勢に立たされた政権側の内部対立を象徴したのが、1937年5月に起きた「5月事件」だった。ソ連支持派と反ソ連派がバルセロナで武力衝突し、500名近い死者が出た。

反乱軍は1938年4月には北部全域を掌握し、政権側が最後の大攻勢をかけたエブロ川※1の戦いに敗れると内戦の帰趨は決した。

※1 エブロ川は、カタルーニャ州境を流れ、バルセロナの南方で地中海にそそぐ

(5) 内戦終結註527-5

1938年12月、フランコはカタルーニャへの総攻撃を開始し、翌39年1月26日バルセロナが陥落した。2月27日には英仏がフランコ政権を承認し、3月22日人民戦線政府は無条件降伏した。3月28日、フランコはマドリードに入り、ここに2年半におよぶスペイン内戦は終結した。

(6) 内戦後のスペイン註527-6

内戦終結後、フランコは旧共和派、左派勢力に徹底的な弾圧を加え、独裁体制を確立させた。終結から半年も経たずに第2次世界大戦が勃発し、ドイツ、イタリアから参戦を要請されたが、国内は疲弊しきった状態で新たな戦争に参加する余力はなく、「非交戦参戦」という実質的にほぼ中立の立場をとった。

ファシズムの影響を強く受けたフランコ独裁体制では、立法権や行政権、軍事指揮権などあらゆる権利がフランコに集中しており、これは1975年に本人が死去し、民主体制への切り替えが始まるまで続いた。第2次大戦後、スペインは孤立し国際連合への加盟は1955年になってやっと実現、欧州経済共同体(EC)に加盟が許されるのは1986年であった。


5.2.7項の主要参考文献

5.2.7項の註釈

註527-1 第2共和政

立石・内村編「スペインの歴史を知るための50章」,P228-P251 斎藤「戦間期国際政治史」,P229-P248

{ … スペイン第2共和国憲法が制定された。この憲法はワイマール憲法に範をとった民主主義的憲法であり、新共和国は農業問題はじめスペイン社会の近代的改革をその課題としていた。しかし、世界恐慌下に激化した労働運動・農民運動、あるいは反教会運動の前に、共和派左翼と社会党の連立内閣であるアサーニャ政府は適切な対策を欠き、革命化に向かう大衆に満足を与えることはできなかった。一方、… 第2共和政に対抗する王党派からファシストに至る右からの戦線が、大資本家、地主、教会、軍部の連携によって次第に構築されはじめた。}(斎藤「同上」、P230)

註527-2 左右両派のプロフィール

立石・内村編「同上」,P249-P258 斎藤「同上」,P230-P234

フランコが反乱軍の指導者になった理由はほかにもありそうである。{ 実戦経験豊富なモロッコ部隊を率い、枢軸国からの支援のパイプを有していた }(立石・内村「同上」,P257)

註527-3 内戦勃発

立石・内村編「同上」,P255-P259 斎藤「同上」,P229-P240

註527-4  反乱軍の攻勢

立石・内村編「同上」,P258-P260 斎藤「同上」,P238-P242

{ フランコら軍部の反乱は、人民戦線政府を一挙に打倒しうるという判断に基づいて起こされ、戦争の長期化は予想されていなかったので、内戦初期においては、フランコの資金の大部分は、その資本を国外に移していた資本家から拠出されていた。 … ナチス・ドイツからの軍需品購入の見返りとして鉱産物を提供しなければならなかった。 … スペインの水銀や鉄などの鉱産資源はナチス・ドイツの再軍備の進展のために重要であった。… (John R Huburt, "How Franco Financed His War”,in:Journal of Modern History、XXV、4,404)… }(斎藤「同上」,P244-P245)

註527-5 内戦終結

立石・内村編「同上」,P260

註527-6 内戦勃発

立石・内村編「同上」,P261-P263、P385