日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.2 世界恐慌から第2次大戦へ / 5.2.6 ソ連の外交と大テロル

5.2.6 ソ連の外交と大テロル

1924年にレーニンが死去したあと、スターリンはトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、プハーリンなどの政敵を退け、1929年頃までに独裁体制を確立していた。(4.5.4項(6)参照) 共産主義革命を押し進めようとしたソ連は国際的に孤立したが、ドイツにナチス政権が成立し、ファシズムの脅威が現実になると方針を転換した。まず、国内の「反乱分子」を100万人規模で粛清する「大テロル」を敢行して独裁体制をさらに強固なものとする一方で、西欧側に近づき、対ファシズムでの協調路線をとろうとした。

図表5.1(再掲) 戦間期

Efg501.webp を表示できません。Webpに対応したブラウザをご使用ください。

(1) 1920年代前半のソ連外交註526-1

ドイツとは1922年のラバロ条約(5.1.4項(4)参照)で賠償問題を解決し外交関係も回復したが、英・仏とは不安定な状態が続いていた。

ジノヴィエフ書簡事件

イギリスで労働党政権のもと総選挙が行われようとしていた1924年10月、イギリス外務省はコミンテルン議長ジノヴィエフからイギリス共産党に宛てた書簡を暴露した。そこには、イギリス社会での煽動を強化するように、との指示が書かれていた。この書簡は捏造された可能性が高いが、イギリス世論は沸騰して労働党政権は選挙に敗北、保守党政権に代わった。翌11月イギリス政府はソ連との通商条約の破棄を通告し、1927年5月には国交を断絶した。

ロカルノ条約とソ連

1925年に締結されたロカルノ条約では、英・仏・独・伊・ベルギーの5か国間で、国境の現状維持・不可侵などが規定された(5.1.4項(6)参照)が、ソ連からみるとこれは反ソ統一戦線の結成であった。ソ連は隣接諸国との条約網をつくって安全を確保すべく、1925年以降、トルコ、ペルシア、フィンランド、ポーランド、フランスなどと中立条約や不可侵条約を締結した。

コミンテルン第6回大会(1928年7月~9月)

この大会で採択された国際的闘争方針は、資本主義が第3期に入り帝国主義戦争の危険が高まる、などの展望を示した上で、社会民主主義勢力をファシズムと同一視する社会ファシズム論を採用した。これにより、ドイツでは共産党と社会民主党の協力関係が失われ、ファシズムの政権獲得を許すことになった。

(2) 大テロル(大粛清)(1934年12月~1939年)註526-2

背景

スターリンの独裁体制は確立されたものの、ソ連は国内外の危機に見舞われていた。国内では計画経済におけるひずみが農民や労働者の犠牲を強いており、飢饉も発生していた。国外でも30年代に入るとナチス政権が成立してソ連の侵略をうかがい、東方では日本が満州に進出して、ソ連は東西から挟撃される危険にさらされた。

キーロフ暗殺事件

1934年12月、スターリン派の党第一書記キーロフが一党員によって暗殺された。スターリンは背後に大掛かりなテロ組織が存在すると見て、ジノヴィエフ派の残党13人を逮捕して処刑、ジノヴィエフ本人とカーメネフも逮捕された。

スターリン憲法

1936年12月、普通選挙、市民の基本的権利(労働、教育、社会福祉など)を認めたいわゆる「スターリン憲法」が制定された。これは「世界で最も民主的な憲法」と自賛されたが、その背景にはナチス・ドイツと対抗する上で英仏などと連携するために、ソ連もファシズムと闘う民主国家であることをアピールする必要があった。この憲法のもとで行われた大テロルでは、人民の敵「ファシスト」を打倒するため、ファシストと結んだ国内の「手先」が徹底的に粛清された。

大テロル

1936年8月には、逮捕されていたジノヴィエフやカーメネフなどが裁判にかけられ、死刑判決を受けて処刑された。その後も党員や経済関係者などが、「反革命」、「サボタージュ・妨害行為」などの罪で摘発され、処罰された。1934年党大会における代議員1966名のうち1108人が1939年までに逮捕されたという。

1937年6月から粛清は軍人にもおよび、赤軍の5人の元帥のうち3人、15人の司令官のうち13人、57人の軍団長のうち50人が処刑され、軍は大打撃を受けた。これが独ソ戦に苦戦する大きな要因となる。

テロルは国民の全階層に拡大され、「人民の敵」の嫌疑をかけられた者やその家族、友人も同罪として処罰された。密告や拷問による自白の強要が行われ、略式裁判による死刑や長期刑が常態であった。
大テロルは1938年になって収束に向かうが、その犠牲者数は少なくとも100万人以上に及んだ。

図表5.5 ソ連の大テロル及び飢饉の犠牲者数

ソ連のテロル

※1 反革命罪で有罪とされたもの ※2 刑事弾圧によるもの

出典) 栗生沢「ロシアの歴史」、P141 より作表

(3) 国際連盟加入(1934年9月)註526-3

1933年8月、独ソ秘密軍事協力が打ち切られ、独ソ関係は急速に冷却した。危機感を抱いたソ連は、1933年12月25日、スターリンがニューヨーク・タイムズの特派員に「国際連盟が戦争を阻止できるならば、ソ連は国際連盟を支持する」と語った。これを受けて、国際連盟はソ連の加盟について議論し、賛成多数で加盟を招請することが決定された。ソ連は1934年9月、常任理事国として加盟することが決定した。

(4) 人民戦線戦術(1935年7月)註526-4

ソ連が対ドイツ戦略のため英仏に接近する動きは1935年7月のコミンテルン第7回大会でも明白になった。前回第6回大会で社会民主主義勢力をファシズムとみなしていたのを改め、ファシズムに対抗する者はすべて味方として協力し合う、とする人民戦線戦術に転換した。この路線変更によって、世界の共産主義運動は、資本主義を即時打倒する世界革命ではなく、平和と民主主義の擁護、反ファシズム運動を当面の課題とすることになった。ソ連は、この戦術に基づき1936年7月に勃発したスペイン内戦で人民戦線政府側を積極的に支援した。


5.2.6項の主要参考文献

5.2.6項の註釈

註526-1 1920年代前半のソ連外交

栗生沢「ロシアの歴史」,P142-P143 和田編「ロシア史」,P319-P322 斎藤「戦間期国際政治史」,P160-P183

{ コミンテルン第6回大会が、資本主義の第3期の到来という現状認識とそれに対応する行動スタイルを採択したのは、国外の状況ではなく、当時ソ連内で進行中の状況、すなわち、スターリンの独裁を後押しするために仕組まれたものであろう。}(和田編「同上」,P322)

註526-2 大テロル(大粛清)

栗生沢「同上」,P140-P141 和田編「同上」,P334-P338

{ 36年に採択された憲法(スターリン憲法)は、社会主義の体制が完成したとして、ソ連の全市民の平等な諸権利をうたいあげ、ソ連を構成する諸民族についてもその平等、11共和国の対等性を規定していたが、現実にはそれを裏切る状況が展開して、民族言語は抑圧され、民族運動家と目される人々は、スターリンの下でのテロルの犠牲となっていった。}(木畑「20世紀の歴史」、P143)

註526-3 国際連盟加入

篠原「国際連盟」,Ps2700-

註526-4  人民戦線戦術

栗生沢「同上」,P143-P144 和田編「同上」,P338-P339 斎藤「同上」,P220-P222

{ のちにフランスやスペインの人民戦線運動が敗北に帰して、第7回大会を最後の大会としてコミンテルンの世界組織としての活動が実体を失った時、いわば追いつめられたソ連邦の対外政策は、独ソ不可侵条約に見られるように、国家理性の赤裸々な発動としての外交的権謀術数を展開するのである。}(斎藤「同上」,P222)

{ 人民戦線戦術とは、正確にいえば、ファシズムに反対し、ファシズムを打倒するための労働者統一戦線を基礎として、中間層を含む人民戦線を形成し、さらに人民戦線政府を樹立する( … )という構想である。…}(Dimitrov,op,cit.,p63 邦訳、第2巻、113-114ページ)(斎藤「同上」,P227)