日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.2 世界恐慌から第2次大戦へ / 5.2.4 ナチス・ドイツの台頭

5.2.4 ナチス・ドイツの台頭

独裁者となったヒトラーは、過激な人種主義(レイシズム)を掲げ、優秀なアーリア人(ドイツ人)の生活空間の拡大とユダヤ人の排除のために、全体主義体制の導入と再軍備を着々と進めていった。1938年、ヒトラーは武力を背景に、まず隣国オーストリアを併合し、続いてチェコスロヴァキアも支配下においた。このとき、イギリスとフランスはドイツとの戦争を怖れて宥和策をとったが、1939年にヒトラーがポーランドへ侵入すると宣戦布告し、第2次世界大戦がはじまることになる。

図表5.3(再掲) ナチス・ドイツの台頭

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(1) 再軍備と外交(1933年~)

再軍備とヴェルサイユ体制の崩壊註524-1

首相就任直後の1933年2月、ヒトラーは国防相や軍首脳に、再軍備の開始と徴兵制の導入、ヨーロッパ東部のゲルマン化などを語る一方、33年5月の国会演説では、ドイツが求めるのは「世界平和の維持」であり、ヴェルサイユ条約を含むすべての国際条約を遵守する、などと語った。こうしてヒトラーは平和主義と武断主義の顔を使い分けながら、戦争への道を歩んでいった。

1933年10月、ジュネーヴ軍縮会議によって、軍拡が抑制されることを嫌ったヒトラーは国際連盟を脱退した。1935年3月には再軍備着手を宣言し、徴兵制を導入した。翌36年6月にはイギリスと海軍軍縮協定を結ぶことにより、イギリスにドイツ海軍の増強を公認させ、続いて同36年9月には軍備増強のための4か年計画を発表して国家予算の半分を国防費につぎこんだ。

ザール地方の帰属とラインラント進駐註524-2

フランスとの国境沿いにあるザール地方はヴェルサイユ条約により15年間、国際連盟の管理下に置かれていたが、その期限が切れる1935年1月、条約の規定により住民投票が行われ、圧倒的多数でドイツに帰属することが決定した。

1936年3月、ロカルノ条約(1925年)で非武装地帯になっていたラインラントにヒトラーは軍事的リスクを承知の上でドイツ軍を進駐させた。しかし、フランスやイギリスは反応せず、ドイツ国民から喝采を受けた。

イタリア、日本との外交強化註524-3

1935年10月、イタリアがエチオピアに侵攻し、国際連盟が制裁を科すがドイツは参加せず、これをきっかけに独伊は接近していく。1936年7月にはスペイン内戦が勃発、独伊共同でフランコ独裁政権を支援した。
また、日本とはソ連を仮想敵国とした防共協定を1936年11月に締結した。

ホスバッハ文書註524-4

1937年11月、ヒトラーは軍幹部との秘密会議で、オーストリア、チェコスロヴァキアへの侵攻計画を披露した。この時ヒトラーが話した内容は「ホスバッハ文書」として、第2次大戦後のニュルンベルグ裁判で重要証拠として採用された。

(2) オーストリア併合(1938年)註524-5

ドルフス首相暗殺

ヒトラーは同じドイツ民族であるオーストリアとの合邦を公然と求め、オーストリアにもドイツとの合併を望む声は高かった。

オーストリアでは1932年以来、ドルフスが首相としてイタリア・ファシズムに倣った憲法を布告し、教会と資本家の上に立つ「僧侶ファシズム」と呼ばれる独裁体制を築きつつあり、ドイツとの合併には反対していた。ヒトラーはオーストリア内のナチスにクーデターによって政権を獲得させようとした。

1934年7月25日、オーストリア・ナチスは反乱を起こし、ドルフスを射殺した。オーストリアを支援していたムッソリーニは、イタリア・オーストリア国境に軍隊を派遣し、ドイツを牽制した。イタリアのこの強硬姿勢を見て、ヒトラーは時期尚早と判断し、関与を中断した。

オーストリア併合

1938年2月イギリスでは対独宥和派のハリファクスが外相に就任し、フランス外交もイギリスに追随するようになっていた。

こうした状況下、ヒトラーはオーストリア首相シュシュニックを自分の山荘に呼び出し、ナチス政治犯の釈放、オーストリア経済のドイツへの同調などの要求を出し、受け入れなければ武力行使する、と脅迫した。結局、シュシュニックは退陣を余儀なくされ、親独のザイス・インクワルトが首相になった。

ドイツ軍はザイス・インクワルトの要請という名目でオーストリアに侵入し、インクワルトはドイツとの合邦法に署名した。3月14日、ヒトラー自身がウィーンに入り、オーストリアの合邦を宣言した。

ムッソリーニは動かず、イギリスとフランスも抵抗の意志を示さなかった。

(3) チェコスロヴァキア解体(1938-39年)註524-6

ズデーデン問題

ズデーデン地方は、チェコスロヴァキア西部ドイツ国境付近の地域でドイツ系の住民が多い。1938年4月24日、ズデーデン=ドイツ人党が自治権を求める運動を始めた。この運動の背後にナチス=ドイツがいることはわかっており、対独宥和策をとる英仏は4月末、チェコスロヴァキア政府に譲歩を勧告した。

チェコスロヴァキア政府は、9月5日要求の大部分を受け入れることを決定したが、ドイツ人党やナチス・ドイツはズデーデン地方の合併を目指していたため、適当な理由をつくって交渉を断絶、ドイツへの帰属を目指して暴動を起こした。

ミュンヘン会談

イギリスのチェンバレン首相は、9月15日と22,23日にヒトラーと会談したが、ヒトラーはズデーデン地方の即時譲渡を要求し、10月1日までにズデーデンを占領すると主張した。チェコスロヴァキアはこの要求を拒否して総動員令を発令し、フランスも反対、イギリスも海軍に動員令を出すなど、緊張した雰囲気となった。

ソ連はチェコスロヴァキアへの援助を発表、アメリカ合衆国も調停を提案したが、チェンバレンは対独宥和を優先し、9月29日からミュンヘンで英仏独伊の首脳会談(=ミュンヘン会談)を開いた。当事者であるチェコスロヴァキアは会談への参加を許されないまま、またスターリンとの調整もなされないまま、ズデーデンの割譲が決定した。10月1日、ドイツ軍はズデーデンに侵入し、ズデーデンは無傷でドイツに併合された。

ミュンヘン会談の副産物として、英独両国の不戦を約する共同声明が発表され、同様の声明が仏独間でも出される一方、ソ連は西欧諸国から孤立した。

チェコスロヴァキア解体

ヒトラーはチェコスロヴァキア全体を獲得することを狙っており、スロヴァキア人の独立運動を煽った。1939年2月末からスロヴァキアの独立運動は活発化し、3月14日スロヴァキアの独立が宣言された。

ヒトラーはチェコスロヴァキアの大統領ハーハをベルリンに招き、ズデーデンと共にチェコを構成するボヘミアとモラヴィア地方の割譲を要求、受け入れなければ2時間以内に首都プラハを空襲すると脅迫した。ハーハはその協定書に署名せざるをえなかった。3月15日、ドイツ軍はチェコに侵入し、16日、ヒトラーはプラハに入城した。

チェコはドイツの保護領となり、スロヴァキアは独立してドイツの保護国となった。
イギリスはドイツを非難する声明を発表し、その後ポーランドなどに対する安全保障を与える一方で、ドイツとの衝突を避けるべく、経済的宥和を続行した。


5.2.4項の主要参考文献

5.2.4項の註釈

註524-1 再軍備とヴェルサイユ体制の崩壊

石田「ヒトラーとナチス・ドイツ」,P230-P232、P246-P247坂井「ドイツ史10講」,Ps2933- 斎藤「戦間期国際政治史」,P160-P183

註524-2 ザール地方の帰属とラインラント進駐

石田「同上」,P238-P239,P243-P245 斎藤「戦間期国際政治史」,P160-P183

{ ナチス政権の登場以来、イギリスの対独政策は概してドイツに妥協的であり、ヒトラーの再軍備宣言や英独海軍協定に対してもイギリスの金融資本はむしろドイツの再軍備を支持する態度を示していた。}(斎藤「同上」,P182)

註524-3 イタリア、日本との外交強化

斎藤「戦間期国際政治史」,P178-P182 石田「同上」,P245

註524-4  ホスバッハ文書

{ 1937年11月5日、ヒトラーはフリッチェ陸軍総司令官、ブロンベルグ国防相、ノイラート外相、ゲーリング空軍相らを招いて、自ら作成した戦争遂行計画を披露した。そこでヒトラーはドイツ民族の生存を保証する「生空間」を武力で獲得する必要性を力説し、最初の標的はオーストリアとチェコスロヴァキアになるだろうと述べた。どう見ても侵略戦争のそしりを免れない戦争計画にフリッチェ、ブロンベルグ、ノイラートはその計画の無謀さを指摘して再考を求めたが、3ケ月後、この3人は解任された。
この時ヒトラーが話した内容の記録はホスバッハ文書として第2次大戦後のニュルンベルグ裁判で重要証拠として採用された。}(石田「同上」,P248-P249<要約>)

註524-5 オーストリア併合

斎藤「同上」,P164-P165、P257-P259 石田「同上」P236-P237,P249

註524-6 チェコスロヴァキア解体

斎藤「同上」,P260-P278 石田「同上」P249-P250

{ 1938年4月21日の … チェコスロヴァキア占領作戦計画の構想は、外交交渉の後、危機に導き、行動に移ること、例えば、チェコスロヴァキアの反独デモの間にドイツ公使を殺害し、そのような事件を理由として電撃戦を起こすなどの場合を考えていた。(Documents on German Foreign Policy, Service D, volⅡ.No.133)}(斎藤「同上」,P273)

{ … ヨーロッパ全域を戦場に代えて互いに殺し合うというイメージを前に、英仏両国が腹の底から怯えていた点が大きかった。 … 4か国の首脳がミュンヘンで会談すると、事態は思わぬ方向に転がった。ヒトラーの剣幕があまりにも激しかったため、チェンバレンもダラディエ仏首相もこれに気押されし、それで平和が保たれるならと、ズデーデン地方をヒトラーに進呈してしまった。}(A.ビーヴァー「第2次世界大戦(上)」,P26-P27)

{ 【ヒトラーはチェコスロヴァキアの解体に際して、】イギリスの姿勢が突如、宥和から抵抗に転じた理由はどうしても解せなかった。…
イギリスの反応に驚いたということは逆に、この独裁者が世界史についてきわめて不完全な知見しか持っていないことを意味した。18世紀以来、ヨーロッパにおけるほとんどすべての危機に対して、イギリスがどのように関与したか、そのパターンを理解していれば、チェンバレン政権の方針転換に不思議はなかったはずである。宥和から抵抗への変化には、イデオロギーも理想もなんら関係していない。… イギリスは別段ファシズムや、あるいは反ユダヤ主義に抗して立ち上がったわけではない。その動機は奈辺にあるかと言えば、これが伝統的戦略なのだというしかない。軍事力をちらつかせてチェコスロヴァキアを併呑したことは、… 既存の国際秩序に対する脅威と受け止めざるを得なかった。… それはイギリスとして絶対に看過できない展開なのだ。しかも、チェンバレン首相は、英仏独伊の首脳が一堂に会した場で、自分が謀られたことに強い憤りを覚えていた。ヒトラーはしかし、そうした怒りの感情を過小評価した。}(A.ビーヴァー「第2次世界大戦」、P30-P31)