日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.2 世界恐慌から第2次大戦へ / 5.2.3 ヒトラー政権成立

5.2.3 ヒトラー政権成立

オーストリアの税関職員の子として生まれたヒトラーは第1次大戦に従軍後、小さな右翼政党に入り、政治家への道を歩み始めた。持ち前の巧みな弁舌と私設軍隊である「突撃隊」の武力を背景に勢力を伸ばし、共産党や社会民主党などの左翼政権に反発する保守系の大物軍人をとりこんで、またたくまにドイツの独裁者に成り上がった。

図表5.3 ナチス・ドイツの台頭

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(1) ヒトラーの生い立ち註523-1

アドルフ・ヒトラーは1889年4月20日、オーストリア北部、ドイツとの国境を流れるイン河畔にあるブラウナウという町で生まれた。父は税関職員、母は父の3番目の妻で23歳年下だった。父はアドルフを実科学校へ入れたが、本人はそれを嫌い、父の死後、中途退学した。ウィーンに出て美術学校を目指したが不合格、母も亡くなり、1913年国境を越えてミュンヘンに移住した。

1914年8月、第1次大戦が勃発するとヒトラーはバイエルン王国陸軍に志願兵として従軍した。勲章をもらったが、統率力が乏しいことを理由に下士官にはなれなかった。

終戦後も軍にとどまり、教宣部隊のスタッフとして活動したが、上司の指示で訪れた極右政党「ドイツ労働者党」の月例会で党首に認められ、入党を決意した。1920年3月31日に除隊後は党の活動に専念することになる。

(2) ミュンヘン一揆(1923年)註523-2

ナチ党活動開始

ドイツ労働者党は、1920年2月、党の「25箇条の綱領」を発表し、党名を「国民社会主義ドイツ労働者党」(略称ナチ党)に改称した。ヒトラーは得意の演説で聴衆を惹きつけ、党内でのポジションも上昇して、1921年7月、事実上の党首となった。ヒトラーは街頭での集会を何度も行ったが、集会を守るために私設の武装組織である「突撃隊」をつくり、暴力路線を突き進めた。

ホッフ・ブラウ

ナチ党の「25箇条綱領」が発表されたミュンヘンのビアホール(筆者撮影)

ミュンヘン一揆

1923年1月フランスがルール地方を占領(5.1.4項(4)参照)し、ドイツ政府は「消極的抵抗」を呼びかけたが、マルクの大暴落などで経済は大混乱し、共産党勢力が活動を活発化させた。こうした環境で右翼の牙城となったミュンヘンで、ヒトラーは元参謀次長のルーデンドルフやバイエルン州の政治家を巻き込んで中央政府に対してクーデターを起こそうとしたが仲間に裏切られて孤立した。同年11月8日夜、ヒトラーは突撃隊を率いて州幹部らが出席していた演説会を襲ったが失敗して捕えられた。

ヒトラーは運よく国家反逆罪の適用を免れ、ミュンヘンの特別法廷で5年の禁錮刑が言い渡された。仮釈放される1924年12月まで、獄中で自由な生活を送ったヒトラーは、唯一の著書「我が闘争」を著した。

(3) 党の再建(1925年~)註523-3

ナチ党はヒトラーが逮捕された時点で活動禁止となっていたが、ヒトラーが仮釈放されてまもなく、活動可能となった。

ヒトラーは党の再建にあたり、それまでの武闘路線から、選挙を通して政権をめざす合法路線に転換する。ナチ党はヒトラーを頂点とするピラミッド状の組織に編成された。すなわち、ドイツ全土を30余りの大管区にわけ、その下に郡-支部-細胞-ブロック、を設置する上意下達の組織である。また、職業ごとの団体(ナチ教師同盟、ナチ医師同盟…)のほか、ナチ婦人団、ナチ学生同盟、ヒトラー・ユーゲント(青少年団)などにより、運動のすそ野を広げた。これらの運動とともに、ヒトラーのカリスマ性や巧みな広報宣伝活動により、ナチ党は次第に国民の支持を獲得していった。

1928年5月の国政選挙では当選者12名/得票率2.6%だったが、1930年9月の選挙では、同107人/18.3%と躍進し、1932年7月の選挙で同230人/37.3%と倍増させて第1党になった。

図表5.4 ドイツ国会選挙での政党得票率推移

 ドイツ国会での政党得票率推移

出典)石田勇治「ヒトラーとナチ・ドイツ」、P111 より作成

(4) ヒトラー政権誕生(1933年)註523-4

大統領緊急令

1930年4月に成立したブリューニング首相※1から、パーペン、シュライヒャー※2と続く首相らは議会に基盤を持たず、ヒンデンブルク大統領の緊急令によって辛うじて政権を運営していた。大統領緊急令は、ワイマル憲法が定める大統領大権の一つで、「公共の安寧と秩序」が著しく脅かされるなど国家危急の事態において、大統領はその事態を克服するための「必要な措置」を講ずることができる、というものであった。これがヒトラーの独裁政権を合法的に成立させる根拠となった。

※1 ブリューニングはカトリック系の中央党党首。

※2 パーペンは貴族出身の中央党右派系。シュライヒャーは軍人出身の右派でヒンデンブルクとつながっていた。

ヒンデンブルク大統領

1932年4月に大統領に再選されたヒンデンブルクは、元陸軍参謀総長で国民的人気を博していた。その相談役のようになっていたのが軍人出身のシュライヒャーだった。彼らは、議会制民主主義を嫌い、帝政時代の立憲君主制を理想の統治形態と考えていた。

ヒンデンブルクは大恐慌対策に苦しむブリューニングに見切りをつけ、シュライヒャーの進言にそって貴族出身で同様に議会制民主主義を否定するパーペンを首相にすえた。その直後、1932年7月の選挙でナチ党が第1党になると、シュライヒャーはヒトラーを副首相としてパーペン内閣に参加させようとしたが、ヒトラーはこれを拒絶し、パーペンに不信任をつきつけた。パーペンは国会を解散し、1932年11月に再び選挙が行われたが、共産党が躍進を続ける一方、ナチ党は後退した。

ヒトラー政権成立

選挙後、ヒンデンブルクによりパーペンは更迭されシュライヒャーが首相の座についたが、これに怒ったパーペンは、ヒトラーに近づいていった。財界からもヒトラーの首相任命を求める請願書が大統領のもとに届いていた。パーペンはナチ党とともに国家人民党などを加えた右派統一戦線を形成し、ヒトラーを首相、自分を副首相とする案を作ってヒトラーの合意をとりつけ、ヒンデンブルクに進言した。パーペンとヒンデンブルクは、議会制民主主義に終止符を打ち、共産党勢力を抑えこむことができれば、ヒトラーを排除するつもりであった。
こうして1933年1月30日、ヒトラー政権が成立したのである。

(5) 独裁体制確立(1933-34年)註523-5

議事堂炎上事件と選挙

ヒトラーは就任直後、ラジオを通じて穏やかな言葉で「国民相互の対立を克服して和解を図る」ことを訴えたが、彼の真の目的である議会政治の廃止、マルクス主義の一掃、中央集権化などを実現するために、ナチ党の単独過半数獲得を目指して選挙を行うことにした。

選挙戦が終盤にさしかかった2月27日夜、ベルリンの国会議事堂がオランダ人共産主義者の放火によって炎上する事件が起きた。ヒトラー政府はこれを共産党による国家転覆の陰謀だと決めつけ、非常事態を宣言して共産党をはじめ急伸左翼運動の指導者を一網打尽に捕えた。

3月5日に行われた選挙でナチ党は得票を伸ばし、連立与党の国家人民党とあわせて過半数を獲得した。

全権委任法

全権委任法(授権法とも呼ばれる)は、国会審議を経ずにすべての法律を制定できるようにする法律である。憲法改正と同じ効果があるため、採択のためには議員の3分の2以上の出席と出席議員の3分の2以上の賛成が必要だった。3月5日の選挙で、総議席数647のうち、与党は340議席を獲得したものの3分の2には及ばなかった。しかし、議事堂炎上事件で共産党議員全員(81人)と社会民主党の一部(26人)が逮捕されて出席できなかったため、与党+保守系議員が全員出席すれば、3分の2が確保できることになった。最終的には社会民主党の残りの議員94人だけが反対票を投じたが、全権委任法は成立した。

政党の解体と地方分権の無力化

全権委任法成立後、共産党はすでに壊滅状態にあり、社会民主党も激しく弾圧されて活動は大きく縮小された。その他の政党も解体するかナチ党に吸収されるかしていった。1933年7月に「新党設立禁止法」が制定され、事実上ナチ党による一党独裁国家となった。

ドイツは連邦国家として州の自治が認められていたが、1933年3月末から4月にかけて成立した「州と国の均制化のための」2つの法律、ならびに1934年1月の「国家新編成法」によって、州は政治的自立性を奪われ、中央集権国家となった。

レーム事件

レームは突撃隊の指導者である。レームは党の武闘組織である突撃隊を民兵組織に改め、いずれ軍を吸収しようとしていた。軍はこれに反発し、ヒトラーも軍に同調した。1934年6月30日、ヒトラーは国家反逆罪の名目で親衛隊を指揮してレーム他突撃隊の指導者、さらには前首相のシュライヒャーなど政敵も捕らえ、100名近くを殺害した。

突撃隊というナチ党の過激組織の指導部を一掃したことで、軍や保守系市民からの支持を獲得しヒトラーの権力基盤を更に強化することになった。突撃隊に代って親衛隊が警察権力として活動の場を広げていく。

ヒトラー総統誕生

1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が死去すると、政府が事前に作った法律により、大統領と首相の職務を統合した「総統」にヒトラーが就任した。こうしてヒトラーは立法、司法、行政に加えて軍の指揮権も持つ、独裁者になった。


5.2.3項の主要参考文献

5.2.3項の註釈

註523-1 ヒトラーの生い立ち

石田「ヒトラーとナチ・ドイツ」,P21-P35

{ ドイツ労働者党は1919年1月、革命騒乱が続くミュンヒェンに雨後の筍のように叢生した反ユダヤ主義的極右政党のひとつだ。ヒトラーが視察に訪れたとき、党員はわずか50名程度の無名に等しい弱小政党だった。労働党の名を名乗っていたが、…左翼政党と対立し、マルクス主義から労働者を解放し、民族の協同体に組み入れることをめざしていた。}(石田「同上」,P33)

註523-2 ミュンヘン一揆

石田「同上」,P38-P47,P51-P56、P65-P69 坂井「ドイツ史10講」,Ps2670-

以下、「わが闘争」からの石田氏の引用。

{ 我々が何のために闘うかといえば、それは我々の人種と民族の存続、ならびにそれらの増殖を確保し、… もって我が民族が、万物創造主によって与えられた使命を達成すべく、成長するためである。
アーリア人種の対極をなすのが、ユダヤ人だ。 … ユダヤ人にはいかなる文化的形成力もない。それはユダヤ人には昔も今も理想主義がないからだ。理想主義がなければ、人間は真に発展できない。}(石田「同上」,P74-P76)

註523-3 党の再建

石田「同上」,P77-P112

註523-4  ヒトラー政権誕生

石田「同上」,P115-P132 坂井「同上」,Ps2723-

{ 大統領のヒンデンブルクがヒトラーを見下していたことはよく知られている。政界の人間でどこの馬の骨とも知れぬ成り上がりもののヒトラーに好感をもった人はそう多くはなかったはずである。しかし彼の力を利用しようとする人はいた。そして議会政治が行き詰まったあげくの大統領内閣がまた行き詰まったという状況、そういったものが合わさって1933年1月30日のヒトラーの首相任命となった。}(坂井「同上」,Ps2724-)

註523-5 独裁体制確立

石田「同上」,P141-P163,P183-P187 坂井「ドイツ史10講」,Ps2857-,Ps2885-

{ 議事堂炎上事件の背後にはナチスがいるのではないか、という議論はかなり以前から繰り返し行われてきたが、最新の研究によれば、単独犯行説が有力になっている。}(世界史の窓「国会議事堂放火事件」)