日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.2 世界恐慌から第2次大戦へ / 5.2.2 イタリアのファシズム

5.2.2 イタリアのファシズム

ファシズムという言葉の起源は、1919年にイタリアのムッソリーニが作った「戦士のファッシ」に由来する。ファッシは団結を意味し、19世紀末の社会主義運動で用いられたものである註522-1。はじめは社会主義者であったムッソリーニだが、第1次大戦後は社会主義運動を暴力で抑圧し、中産階級の支持を得て政権を握った。しかし、領土拡大を目指したエチオピア戦争で国際的に孤立化し、ナチス・ドイツに接近していく。

図表5.1(再掲) 戦間期

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(1) 大戦後の「赤い2年間」註522-2

第1次大戦に連合国側で参戦し勝利したイタリアは、旧ヴェネツィア領だったダルマティアやイストリア(いずれも現在のクロアチア領)の獲得を期待していたが、民族自決の原則のもとに開かれたパリ講和会議ではそれらを獲得することができなかった。また、政府による需要が急減して景気が悪化し、民衆の生活は戦時中にも増して苦しいものになった。

1919年から20年にかけて、イタリア各地でストライキや工場の占拠が頻発し、社会主義政党が支持を集め、「赤い2年間」と呼ばれる状態になった。

(2) ムッソリーニとファシスト党註522-3

ムッソリーニ(1883生-1945没)は、フィレンツェの北東、フォルリで生まれた。父親は社会主義に傾倒する鍛冶職人でムッソリーニも一時、社会党に入党したが、1919年に「戦士のファッシ」という党を創設し、暴力的に社会主義者を排除する運動をはじめ、1921年には「国民ファシスト党」を結成して党首となる。社会主義者にかわって支持を集め、1922年国王の指名をうけて政権を獲得した。議会で国民ファシスト党は少数派であったが、1924年に行われた選挙では、暴力による選挙妨害などを行って圧勝した。

活発になっていた労働運動に対して、革命の危機を感じた地主勢力や中産階級は、暴力的な手段を用いた反共主義・反社会主義運動を展開するムッソリーニのファシスト党を支援したのである。

(3) 全体主義化註522-4

ムッソリーニは「力による支配」を宣言し、言論や出版の自由など国民の権利を制限する一方で首相の権限を強化し、独裁体制を固めていく。また、イタリア人全体をファシスト化することを目指して、余暇や出産・育児など国民の私的生活の領域に介入するための事業団などを設置した。例えば、全国母子事業団は多産奨励、女性の保護・健康促進を旨とした組織であったが、ファシズムは女性蔑視に満ちていた。

(4) エチオピア戦争(1935-36年)註522-5

対外的な領土拡張主義はファシストの基本理念であったが、日本の満州侵出やナチス・ドイツの登場に刺激されてムッソリーニは、1896年にイタリアが征服に失敗したエチオピアの侵略を決意した。

1934年末、イタリア領ソマリランドとエチオピア国境でイタリア軍とエチオピア軍の小競り合いが起きると、イタリアはこれを侵略の口実にしようとした。当時、国際連盟に加盟していたエチオピアは、これを連盟に訴えたが、イタリアとの対立を望まない英仏の態度から棚上げにされた。エチオピアはアメリカにも訴え、英仏は調停案を出したりしたがいずれも成功せず、イタリア軍は1935年10月に大挙してエチオピアに侵入した。

エチオピアは激しく抵抗したが、イタリアはマスタードガスを始めとして残虐な手段を使用して侵略を続けた。国際連盟はイタリアを非難する国際世論を無視できず、イタリアへの経済制裁を発動、イタリアは国際連盟を脱退した。しかし、禁輸品から重要な石油が除外されたためイタリアの侵攻は続き、1936年5月に首都アディスアベバを占領、ムッソリーニはエチオピアの併合を宣言した。

国際連盟はなすすべもなく制裁を解除し、その権威は失墜した。以後、国際問題は大国の直接交渉によって処理される傾向が強くなっっていく。

(5) ナチスとの関係強化註522-6

もともとムッソリーニはヒトラーに警戒心を抱いており、エチオピア戦争の前年1934年にはオーストリアの親イタリア派ドルフス首相がオーストリア・ナチスによって暗殺された際は、ドイツの介入を牽制するため、イタリア/オーストリア国境に軍を集結させていた。

しかし、エチオピア戦争による国際的孤立を経験して、イタリアはナチス・ドイツに急速に接近していく。1936年7月にスペイン内戦が勃発すると、ドイツとイタリアはフランコ側に軍事援助を与え、10月にはイタリア外相がドイツを訪問して議定書を作成、いわゆる「ローマ・ベルリン枢軸」が成立した。ムッソリーニはミラノで演説し、「ローマとベルリンとの垂直線は障壁ではなく、枢軸である」と語り、ここに枢軸という言葉が用いられるようになった。イタリア側は、なおイギリスとの関係改善を狙っており、ドイツ側はイタリアのオーストリアに対する関心に疑念を抱いていた。

1937年9月、ムッソリーニがドイツを訪問、11月に日独防共協定に加わり、12月には国際連盟を脱退した。1938年5月にはヒトラーがイタリアを訪問、1939年5月には「鋼鉄の協定」と呼ばれる独伊友好同盟が結ばれた。


5.2.2項の主要参考文献

5.2.2項の註釈

註522-1 ファシズムの語源

北村「イタリア史10講」,Ps2519-

{ 「ファッシ」は団結を意味し、19世紀末の社会主義運動でしばしば用いられた。}(北村「同上」,Ps2520-)

註522-2 大戦後の「赤い2年間」

北村「同上」,Ps2460- 斎藤「戦間期国際政治史」,P81-P82

{ イタリアはパリ講和会議で主張した領土的要求の多くを拒否され、… 戦後諸国の経済的ナショナリズムはイタリア産業の市場と原料供給地とを狭隘ならしめ、さらに1920年代におけるアメリカやイギリスなどの移民制限立法はイタリアの過剰人口の捌け口を著しく狭めた。}(岡「国際政治史」,P217<要約>)

註522-3 ムッソリーニとファシスト党

北村「同上」,Ps2510- 小川・板橋・青野「国際政治史」,P108

{ ファシストは銃や爆弾を使って社会党市長の就任式を破壊し、社会党の牙城ボローニャ市政に打撃を与えた。軍や警察には社会主義に敵意を抱く人々が多く、ファシストよりも社会党員を取り締まった。}(北村「同上」,Ps2537-)

註522-4 全体主義化

北村「同上」,Ps2573-

{ 全国バリッラ事業団は、18歳以下の青少年を対象とした組織で、学校教育とは別個に、軍事教練やスポーツ、文化活動、職業訓練などを行った。… 近年の研究ではこうした事業団の活動はファシズム政権が期待したほどには機能せず、体制に対する大衆の合意の形成という観点からすると、失敗に終わったと評価されることが一般的である。(北村「同上」、Ps2598-)

註522-5  エチオピア戦争

斎藤「同上」,P187-P195 北村「同上」,Ps2657-

{ エティオピアを征服したイタリアは過酷なテロリズム支配によって住民に臨んだ。エティオピアではイタリア支配に対するゲリラ活動が続き、イタリアはエティオピアの獲得によって得るところは少なかった。}(斎藤「同上」,P195)

註522-6 ナチスとの関係強化

北村「同上」,Ps2672- 斎藤「同上」,P165、P208,P278