日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.2 世界恐慌から第2次大戦へ / 5.2.1 世界大恐慌

5.2 世界恐慌から第2次世界大戦へ

戦間期の後半はニューヨーク発の世界大恐慌で始まる。不況の嵐が吹き荒れる中で、ドイツやイタリア、スペインでファシズム政権が勢いを増していった。とりわけドイツでは、ヒトラーが政権を握ると軍備増強やアウトバーンなどの公共工事で不況を乗り切り、プロパガンダで民衆の支持を得て、野望の実現に向けて動き始めた。

5.2.1 世界大恐慌

1929年10月24日(木)、「暗黒の木曜日」と呼ばれるこの日からニューヨークで始まった株価の暴落は、世界中に波及し、銀行や企業の倒産、失業者や生活困窮者が激増した。このときアメリカ大統領だったフーヴァーは恐慌対策に失敗、後をついだローズヴェルトは消費拡大を掲げた「ニューディール政策」を実施したが、大恐慌を沈静化させるために長い期間が必要だった。

大恐慌はナチスや日本の軍国主義を勢いづかせ、第2次世界大戦へとつながる契機ともなったが、それはまた近代国際経済システムの発展にとって貴重な経験にもなった。

図表5.2 世界大恐慌

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注) 株価推移表は、秋元英一「世界大恐慌」,P28、及び今田寛之「1929-33年世界大恐慌について」,日本銀行金融研究所「金融研究」(昭和63年4月)による。GNPと失業率のグラフは、秋元「同上」,P89,P267より作画。

(1) 1920年代のアメリカ註521-1

1920年代のアメリカは、大量生産、大量消費を背景に未曽有の好況を迎えた。量産化に成功したT型フォード車は年間190万台生産され、電気洗濯機、電気冷蔵庫、ラジオ、電話機、蓄音機などの家電製品も飛ぶように売れた。簡素な1階建てプレハブ住宅がブームとなり、マイホームが普及した。また、チェーンストアや百貨店のような小売業、飲食店、映画館なども人気を博した。人々は生産性向上のために苛酷になった労働と引き換えに賃金増を獲得したが、クレジットカードの普及や、自動車、マイホームなどの割賦販売も登場し、高額商品の購入が促進された。

(2) 大恐慌のはじまり註521-2

こうした好況を受けて株価は上昇を続け、1928年には年間を通じてダウ工業株価指数は35%も値上がりした。1929年9月3日、ニューヨーク証券取引所の株価指数は381を記録したが、10月になると株価は下がり、10月23日は午後から売り注文が続出して取引高は640万株、ダウ指数は305となった。

暗黒の木曜日

翌10月24日(暗黒の木曜日)、前日のニュースを聞いた投資家が多くの売り注文を出したために、取引所は混乱状態に陥ったが、財界人の買い支えにより、取引高は記録的な1289万株、終値は299(底値272)となった。10月29日には230まで下落したが、その後も下落は続き、1933年2月に50の底値をつけるまでニューヨークの株価は下がり続けたのである。

大不況の到来

株価の下落はアメリカの経済に深刻な影響を及ぼした。最初の4年間で、鉄鋼生産は恐慌前の60%、住宅建設は25%、自動車の生産は14%にまで落ち込み、失業者数は、総労働人口の25%にあたる1300万人に達した。恐慌前から低迷していた農産物価格も最初の3年間に約4割にまで下落した。さらに、1930年末から銀行の倒産が相次ぎ、1931年の1年だけで2300行が倒産した。

(3) フーヴァーの失敗註521-3

1929年に大統領に就任した共和党のハーバート・フーヴァーは、1921年から29年まで商務長官を務め、「繁栄の20年代」を導いた成功体験をもっていた。フーヴァーは、政府の役割は最小限の介入で産業をリードすることだと考えており、恐慌対策も「連邦政府は直接介入しない」という方針で実施された。

いわゆる「小さな政府」を志向していたフーヴァーが、恐慌への対策をとりはじめたのは、不況が深刻な問題なってきた1931年秋以降だった。1931年10月、フーヴァーは銀行家たちによびかけて5億ドルの資金をプールし、苦境にある銀行を支援させようとしたが、銀行家たちは消極的で失敗に終わった。

つづいて、1932年2月から連邦政府の機関として「債権金融公社(RFC)」を設立して、銀行などに融資を行ったが、これも十分な成果はあげられなかった。一方で、恐慌対策の政府資金を確保するために所得税などの大幅増税を行った。フーヴァーは他にも、州や自治体の救済事業向け融資、住宅融資の支援、農産物価格の維持対策などを行ったが、いずれも成果をあげられないまま、民衆のあいだには「フーヴァーは大企業や銀行ばかりに資金を供給して民衆には何の援助もしようとしない」というイメージが広がっていった。

(4) 市民たちの苦闘(事例)註521-4

フィラデルフィアの試み

市財政からの融資と有志の寄付により、ホームレスの人々のための緊急シェルターが作られた。8階建ての旧いビルを借りて3000台の簡易寝台が用意され、救済対象者は一日に3~4時間働くことにより食事と宿泊場所が提供された。

1932年夏になると、寄付金や市財政の途絶により、救済事業は打ち切らざるを得なくなった。救済を受けられなくなった人々は、生鮮食品市場からの廃棄品や物乞い、場合によっては個人の玄関先からの盗みなどで飢えをしのいだ。

刑務所を農民が襲撃

アイオワ州スー・シティの牛乳生産組合は、1932年8月、市内の酪農会社に価格の引上げを要求したが無視された。農民たちは市周辺の道路を封鎖し、出荷のために牛乳を運んできたトラックを阻止、強行突破しようとしたトラックの牛乳は溝にぶちまけられた。しばらくして、トラック輸送を確保しようとした保安官と農民のピケ隊が衝突した。生産組合と酪農会社は価格引上げで合意したが、農民たちは近くの刑務所を襲い、ピケで逮捕された農民を解放した。

退役軍人の反乱

1932年7月、ワシントンDCには困窮した退役軍人とその家族ら4万人が集まり、第1次大戦の恩給を前倒しして支払うことを要求した。下院は前倒し支給を可決したが、上院は否決した。結集していた人の多くは去っていったが、納得できない約2000人が付近でキャンプ生活をはじめた。彼らは破壊分子としてFBIの監視対象とされたが、7月後半になっても居座り続けたため、同月28日夜、ダグラス・マッカサー率いる軍隊が催涙ガスなどを使って強制的に排除した。このニュースは全米に広がり、フーヴァーへの失望感が深まった。

(5) フランクリン・ローズヴェルト註521-5

1932年11月の大統領選挙では、ニューヨーク州知事から民主党の大統領候補となったフランクリン・ローズヴェルトが、現職のフーヴァー(共和党)を大差で破って当選し、同時に行われた連邦議会選挙でも民主党が圧勝した。

ローズヴェルトが政権を引き継いだとき、失業者は1000万人を超え、銀行の取り付け騒ぎが全国に広がりつつあった。ローズヴェルトは就任早々、ニューディールと名づけた大恐慌を克服するための政策に着手した。ニューディール政策の基本方針は、消費を刺激することによる経済の活性化であった。

(6) ニューディール政策

銀行再建註521-6

ローズヴェルトが最優先で対応しなければならなかったのは銀行パニックに対応することだった。1933年3月4日、大統領に就任すると、3月6日には全国の銀行を休業させることを宣言した。この時点で全米の銀行は18,400あったが、支払い能力に応じて3クラスに分けた。クラスAは健全、Bは採算点ギリギリ、Cは閉鎖対象である。その結果、3月15日までに半数の銀行が再開され、その後も再開される銀行が増えていったが、最終的に約1000行が閉鎖された。再開された銀行の健全性を確保するため、フーバーが設置した復興金融公社(RFC)が銀行の優先株を購入して自己資本を補強するなど、様々な方策を準備した。

金本位制離脱註521-7

前述のようにローズヴェルトの基本方針は消費の刺激であり、そのためには物価を上げるインフレ志向の政策が必要だった。この当時、世界の主要国は金本位制を採用していたが、通貨発行量が金の保有量によって制限される金本位制ではインフレ政策をとることはできなかった。すでに、イギリスは同様の理由で金本位制から離脱しており、アメリカも1933年4月19日に金本位制から離脱した。

農業の復興註521-8

アメリカの農業は第1次大戦時とその直後の需要拡大に対して、機械化や農地拡大により生産力を増やしたが、その後の需要減に加えて大恐慌で農産物価格は大幅に下落した。1933年5月に成立した農業調整法は、作付け面積又は産出額を制限するかわりに、生産制限に協力した農家には補助金が支払われる、というものであった。また、農産物の輸入制限も行われた。

商工業等の復興註521-9

農産物の生産制限と同様の調整を工業製品についても行うようにしたのが、全国産業復興法(NIRA)である。産業ごとの事業者団体に生産量や価格、賃金等を定めた「公正競争規約」作らせることで、過剰生産とデフレを抑制するとともに、労働者の賃金を引き上げて購買力を拡大することが目的であった。NIRAには、労働者保護条項として、最低賃金や最長労働時間、経営者との交渉権などが定められた。さらに、公共事業局(PWA)を設置してハイウェイや学校、発電所などの公共施設を建設することも含まれていた。

なお、NIRAに対しては中小業者の反撥が強く、ある鶏肉会社が起こした裁判で、最高裁は1935年5月に「公正競争契約」を作らせることは違憲、との判決を出したため、NIRAは2年ほどで中止となった。

失業・困窮者救済註521-10

失業者や生活困窮者の救済事業を行うために設けられたのが、連邦緊急救済局(FERA)である。救済対象になったのは、失業者とその家族および最低限の生活水準を維持するのに必要な収入を得られていない人たちで、人種、肌の色、市民権の有無などを問わなかった。食料やその他の必需物資が提供されたが、事業を実施するのは州政府でFERAはそこに資金を供給した。なお、FERAは1935年夏にその事業を就業促進局(WPA)に引き継いだ。WPAでは物資提供のかわりに簡単な作業の報酬を支払う形になった。

失業者の救済は、FERA以外にも上記PWAによる公共事業の他、テネシー川流域開発公社(TVC)による水力発電所の建設事業、民間資源保全部隊(CCC)による植林や土壌保全事業などに失業者を雇用した。

労働者保護と社会保障註521-11

上述のようにNIRAは最高裁で違憲とされたが、ローズヴェルトは労働者の購買力を高めるために労働者保護は必要と判断して、NIRAの保護条項をさらに強化した「全国労働関係法」(通称ワグナー法)を1935年7月に成立させた。ワグナー法により労働者一般の団結権、交渉権が確立されるとともに、不当労働行為が定義された。

ニューディール開始とともに賃金よりも物価が先行して上昇し始めたため、失業者や高齢者の生活を直撃し、富の再分配や老齢年金を求める民衆運動が活発になった。これを受けて、1935年8月に成立した「社会福祉法」では、失業保険と老齢年金、老齢者・障害者・児童のための手当支給が定められた。

(7) 米国以外の大恐慌註521-12

{ 恐慌は西半球のアメリカ勢力圏からアジアの植民地、さらにヨーロッパの工業国へと進行した。 … 1929年から32年までに、世界の工業生産は半減し、32年末には全世界の失業者は5000万人を越えたと見られている。}(斎藤「戦間期国際政治史」,P145)

イギリス

1925年、イギリスは金本位制に復帰したが、その際、ポンドのレートを実勢よりも10%ほど高くしたため、イギリス経済は慢性的不況に陥ることになった。そこへアメリカ発の大恐慌が押し寄せ、1931年9月には金本位制からの離脱とポンド切り下げに追い込まれた。1932年には帝国特恵関税同盟を形成し、イギリス帝国内部の諸国が外部の諸国に対して差別的な高関税を課すことにより、帝国ブロック内での自給自足をめざした。これによって、イギリスはアメリカやフランスよりやや早く、恐慌から脱出することができた。

こうしたブロック経済は、ドイツや日本のファシズム化の追い風となり、第2次世界大戦勃発の誘因の一つになった。

フランス

フランスは1928年にフランを大幅に切り下げ(いわゆる「ポアンカレ・フラン」)、金本位制に復帰、ポアンカレ・フランはフランス経済を繁栄させた。フランスに世界大恐慌の波が押し寄せたのは1931年で、1935年に最悪となり、1936年に金本位制から離脱したものの、恐慌前の水準に戻ることなく第2次大戦に突入した。

ドイツ

世界大恐慌の影響が最も大きかったのはドイツだった。輸出は減り、工業生産も激減し、失業者数は1933年に600万人近くに達した。1933年1月にナチ党のヒトラーが首相となり、公共事業(アウトバーン建設など)や軍備増強に多額の資金をつぎ込んで失業者を減らし1937年に失業者は91万人にまで削減された。ヒトラーの失業対策は、戦争に向けた国民統合(フォルクスゲマインシャフト=民族共同体)を実現する目的も兼ねて行われ、若者は勤労奉仕や徴兵制度、女性は家庭に戻って子どもを産むことにより労働力からはずし、その分を男性の就労を増やすことで見かけ上の失業者を減らすような方法も採用された。

日本

浜口首相と井上準之助蔵相はアメリカで始まった恐慌の影響は少ないとみて、1930年1月に金本位制に復帰した。その際、円の為替レートを1割ほど円高に設定したため、輸出は激減し、失業者は激増した。1931年12月に犬養毅内閣が成立し、蔵相に高橋是清を起用すると、高橋は金本位制からの離脱を決め、積極財政策に転じた。その結果、輸出は増加に転じ、1933年には鉱工業生産額が世界で最初に恐慌前の水準を上回った。

(8) 大恐慌はなぜ起きた?註521-13

大恐慌が起きた原因については諸説あり、しかも複数の原因がからみあっている。ここでは、秋元英一氏の説をごく簡単に紹介する。


5.2.1項の主要参考文献

5.2.1項の註釈

註521-1 1920年代のアメリカ

中野「20世紀アメリカの夢」,P103-P104 秋元「世界大恐慌」,P36-P44

{ 1920年代には新車の70%、家具の70%、ラジオの75%が信用販売だった。自動車の信用販売は新車の場合、標準的に頭金が3分の1、返済の期間は12か月だった。「自分の手持ち資金内での生活」が当然と考えていた19世紀的アメリカ人が、1920年代になると、借金に伴う罪悪感は消え、中所得層にも購買層をひろげた。こうして「アメリカ的」生活様式は自動車に乗ってやってきたのである。}(秋元「同上」,P43-P44<要約>)

註521-2 大恐慌のはじまり

秋元「同上」,P28-P30 中野「同上」,P120-P121

註521-3 フーヴァーの失敗

秋元「同上」,P74-P83 中野「同上」,P121-P122

{ フーヴァーの考え方には、景気循環理論が微妙な形で影を落としている。循環性の不況はいずれ好況に転じるはずで、干渉すれば「自然の」プロセスを妨げてしまう。…
フーヴァーが恐慌の前半期に盛んに繰り返したために当時の風刺の流行語にもなった言葉、「好景気はもうそこまで来ている」も、単に政治的な発言というわけでもないだろう。}(秋元「同上」、P75-P76<要約>)

註521-4 市民たちの苦闘(事例)

秋元「同上」,P94-P95、P97-P99,P122-P123,P110-P112 中野「同上」,P123

{ 株価暴落の直後から企業は労働者を解雇しはじめ、大量失業は都市を中心に広がっていった。早期の回復が増え続ける失業者を吸収する究極の手段だったはずだが、そうした期待は満たされず、… 失業の状態は悪化し、放浪者化する人がふえた。…}(秋元「同上」,P138)

註521-5 フランクリン・ローズヴェルト

中野「同上」,P126 秋元「同上」,P187-P189

{ ローズヴェルトは5月のジョージア州での演説でこう述べている。
「われわれが直面している基本的なトラブルは、資本の不十分さではない。それは十分すぎる投機的生産と結びついた購買力の不十分な分配にあった。わが産業の多くで賃金が上昇したけれども、資本に対する報酬と比例的なほどには上昇しなかったし、しかも同時に我が人口の他の一大集団の購買力が縮小するにまかされたのである。」}(秋元「同上」,P188)

{【この時代は】恐怖が人々の心理を支配しつづけた時代だった。また、そのような緊迫した非常事態であるがゆえに、特に強力な行政国家と政策執行者が求められた時代であった。そして、ローズヴェルトは半ば確信犯的にアメリカ憲政の常道を踏み越えて、強権的な大統領となろうとしていた。
記憶されなくてはならないのは、当時の政治情勢にあっては、そうした全体主義への道ともとられかねない手法が、一定の支持を得ていた事実である。}(中野「同上」、P136)

註521-6 銀行再建

秋元「同上」,P168-P169 中野「同上」,P127

{ ローズヴェルトは、銀行再開の前夜ラジオ放送で、茶の間の大衆に銀行の安全性を訴えたが、そんな新大統領には連日国民から激励と期待、救済の望みを託した無数の手紙が届いた。}(中野「同上」,P127)

註521-7 金本位制離脱

秋元「同上」,P103-P104 中野「同上」,P129

{ 恐慌の進展にともなって、しだいに多くの国が金本位制を離脱して、それぞれの通貨をフロートさせることになると、こんどは固定相場を維持している諸国が割高な為替によって、困難を倍加させることになる。アメリカの場合、イギリスとその連邦諸国が金本位制を離脱した1931年秋以降、恐慌は深まった。「金ブロック」と呼ばれる最後まで金本位制に踏みとどまった諸国(フランス、ベルギー、スイスなど)では、恐慌の影響があらわれるのが遅く、景気回復も遅れた。(秋元「同上」、P61)

註521-8 農業の復興

秋元「同上」,P115,P192-P195 中野「同上」,P128-P129

註521-9 商工業等の復興

秋元「同上」,P199-P206 中野「同上」,P131-P132,P137

註521-10 失業・困窮者救済

秋元「同上」,P213-P222 中野「同上」,P129-P130,P139-P141

{ ローズヴェルトは、連邦政府による大規模な公共投資を梃子にして失業を吸収するタイプの政策には及び腰だった。そのイメージとは裏腹に、ニューディールは結果としてTVA(テネシー川流域開発公社)やPWAのような公共事業よりも、FERAやWPAのような救済事業に重点を置いた。}(秋元「同上」,P221)

註521-11 労働者保護と社会保障

秋元「同上」,P205-P211,P225-P227 中野「同上」,P137,P141-P1145

{ 困窮した母子に対して、過酷な収入調査を課し、依存者の烙印を押すやり方には、旧い母性主義へのこだわりがあったかもしれない。それにもかかわらず、不況下で30年代末には約70万の母子家庭が要扶養児童手当を受けて生活を維持していた。未だ不十分ではあったが恒久的なセーフティネットが個人主義の国アメリカに築かれつつあった事実は重い。}(中野「同上」,P145<要約>)

註521-12 米国以外の大恐慌

イギリス; 木畑・秋田「近代イギリスの歴史」,P144-P148
フランス; 服部・谷川「フランス近代史」、P221-P226
ドイツ; 若尾・井上「近代ドイツの歴史」,P210-P211,P228-P231 石田「ヒトラーとナチスドイツ」,P206-P216

{ 【国内市場隔離を基本とする一国主義的な恐慌脱出策である】アウタルキー的政策に傾斜したナチス体制下では、当初はともかく、しだいに輸入代用品の生産が盛んとなり、消費者の満足度は下がり、生活レベルは低下した。}(秋元「同上」,P199)

日本; 古川隆久「昭和史」,P103,P108 秋元「同上」,P280-P284

註521-13 大恐慌はなぜ起きた?

秋元「同上」,P297-P300