日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.1 第1次大戦の後始末 / 5.1.4 ドイツの賠償と復興

5.1.4 ドイツの賠償と復興

ドイツは第1次大戦直後、各地に評議会(ロシア語でソヴィエト、ドイツ語でレーテ)が設立され、一時的に社会主義政府が成立した地域もあったが、大衆の多くは資本主義体制内での改革を支持した。帝政を排除した後は、世界で最も民主的な憲法といわれたワイマル憲法のもと連邦制共和国として出発した。

天文学的といわれた戦後賠償に苦しみつつも、アメリカの経済支援を受けて復興に取り組んだが、世界大恐慌に襲われ、失業などの社会不安を背景にナチスの台頭を許すことになる。

※1 ワイマル 独語:Weimarer; ワイマール、ヴァイマルとも表記する。憲法制定議会が開かれたドイツ中部の都市の名前に由来する。

図表4.19(再掲) 戦間期

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(1) ドイツ革命註514-1

1918年10月30日に起きた水兵の反抗は、11月3日キール軍港の水兵の武装蜂起をよび、さらに労働者や市民の共感も得て11月8日までにドイツ全土に広がった。11月9日、宰相マックス公は皇帝ヴィルヘルム2世の退位と社会民主党首エーベルトへの政権移譲を宣言した。

各地に労働者と兵士による「労兵評議会(レーテ)」が組織され、ミュンヘンでは社会主義政府が成立した。首都ベルリンでは、労兵評議会において、社会民主党と急進左派の独立社会民主党から構成される「人民委員政府」が承認され、暫定政府となった。各地の評議会では穏健な改革派が優勢で、エーベルトも革命を否定し、旧体制勢力の一部も取り込んで資本主義体制内での改革路線を志向する。12月中旬に開かれた全国労兵協議会で、この路線に沿って憲法制定国民議会の選挙を行うことが決定した。

独立社会民主党は政府を脱退し、その最左翼「スパルタクス団」はドイツ共産党を結成して1919年1月にベルリンで反乱を起こすが、社会民主党の「義勇軍※2」により鎮圧された。1月15日にはドイツ共産党の指導者ローザ・ルクセンブルクとカール・リプクネヒトが計画的に殺害された。ミュンヘンでは労兵協議会共和国が設立されたが、これもまもなく「義勇軍」によって鎮圧され、レーニンが最も期待したドイツにおける革命は退潮に向った。

※2 { 義勇軍というのは、正規の軍隊が機能停止状態の中で作られた志願者による軍隊組織で、これが各地で革命勢力鎮圧のために投入された。}(坂井榮八郎「ドイツ史10講」,Ps2556-)

(2) ワイマル共和国註514-2

1919年1月19日、憲法制定のための国民議会選挙は、満20歳以上の男女の普通選挙で実施され、投票率は83%、民主主義的憲法の創出を掲げた社会民主党、民主党、中央党が、あわせて75%を超える得票を得て勝利した。新しい議会は不穏なベルリンを避けて、ドイツ中部の古都ワイマルで2月6日に開催された。社会民主党のエーベルトを大統領に選び、上記3党の連立政府によるワイマル共和国が発足した。

議会は新憲法の制定作業に入り、1919年7月末に新憲法を制定した。ドイツ帝国時代と同様の連邦制であるが、連邦諸国は君主のいない「州」になり、その権限も縮小されて中央集権的な連邦制共和国になった。国家元首である大統領及び2院制の国会議員は男女平等の普通選挙で選ばれた(議員は比例代表制)。大統領は内閣の任免権や国会解散権のほか、非常事態における緊急立法権などの大権をもっており、これがのちにナチス独裁の根拠になった。

ほかに、国民の生存権などの基本的人権に加えて、青少年や母性の保護、必要な生計費支給、労働権の保障や経営者と労働者による共同決定権など、「社会国家」を称するにふさわしい内容が盛り込まれ、当時の世界で最も民主的な憲法と評された。

(3) 戦争責任問題註514-3

ワイマル憲法が成立する少し前、1919年6月28日にヴェルサイユ条約が調印された。この時点では賠償額は提示されなかったが、海外植民地のすべてとアルザス・ロレーヌなどの領土を失い、軍備の大幅縮小などが定められた。パリ講和会議への出席を許されなかったドイツは、これを無条件で受け入れるしかなかった。

しかし、戦争責任がドイツとその同盟国に押し付けられたことは、ドイツ国民を憤激させ、民族的屈辱と受け取られた。ドイツの学界をあげて、あの戦争はドイツの防衛戦争であり、ドイツに一方的な責任があるわけではないことを証明しようとし、西欧の学者たちも同情的であった。

第2次大戦後、ハンブルク大学歴史学教授フリッツ・フィッシャーが新たな史料研究によって、ドイツに戦争責任があったことを発表、最初は強い反発があったが、この説が一般的に承認されるようになったという。

(4) 戦後賠償問題

天文学的数字の賠償額註514-4

1921年5月、連合国はドイツに賠償総額を1320億金マルクと伝えた。イギリスの経済学者ケインズは、ドイツの支払い能力を最大限で20億ポンド(400億金マルク)と見積もっており、1320億金マルクは支払い能力を大きく超えた金額であった。

ドイツでは内閣が交替し、新内閣は賠償支払いに応じつつ条約の修正をはかろうとするが、連合国は応じず、国内の反対派からも激しい攻撃を受けた。蔵相と外相が右翼によって暗殺され、労働者はストライキを多発させた。

対ソ賠償問題註514-5

1922年4月、イタリアのジェノヴァで開かれた会議で、連合国はソ連に帝政ロシアの債務やソ連が没収した外国人財産の返還を求めたが、ソ連はこれを拒否し対ソ干渉戦争による被害に対する賠償を請求した。その直後、ソ連とドイツは相互に賠償を放棄し、外交関係を復活させるラバロ条約を締結した。

フランスのルール地方占領註514-6

1923年1月、フランスはドイツの賠償支払いの一部不履行を理由に、ドイツ経済の心臓部であるルール地方※3を占領して工場や物資を接収した。ドイツ政府は「消極的抵抗」を発令して官吏にフランス軍への服従を禁止し、企業の労使もフランスへの不服従運動を展開した。

ドイツ政府はこの窮状において、公務員や労働者の生活を支えるために通貨を増発したため、インフレが空前の勢いで進行し、1923年11月にマルクの価値は1913年にくらべて1兆分の1にまで低落した。このインフレは反政府勢力を勢いづかせ、10月にはザクセンなどで共産党参加の左翼政権ができ、コミンテルンが乗り出したため、政府が介入して左翼政権を倒壊させるという事件が起こった。また、11月にはミュンヘンでナチスのヒトラーが一揆を起こしたが失敗し、ヒトラーは捕らえられて禁固刑に処せられた。

11月15日、ドイツ経済界が担保を負担する新通貨「レンテンマルク」が発行され、インフレは急速に収束した。政府は国の借金を減らし、大企業は資産を増やしたが、中小企業や給与生活者、年金生活者は打撃を受け、失業者が急増した。一方、フランスも占領コストの増大、国内世論の批判に加え、国際的に孤立する恐れもあり、占領の継続は困難になっていた。

※3 ルール地方 ドイツ西部の重工業地帯で、主要都市にはエッセン、デュッセルドルフなどがある。

(5) ドーズによる調停註514-7

1923年9月、ドイツ政府は「消極的抵抗」の中止を表明し、連合国に対してドイツの経済状態と支払い能力の調査を要求した。これに基づき、アメリカの財政家ドーズを委員長とする委員会が報告書を作成し、このドーズ案に基づく賠償支払い計画が1924年8月のロンドン会議で調印された。ドーズ案はドイツ経済回復までの暫定的な措置であり、1年毎の支払額を向こう5年間のみ決め、ドイツ経済振興のためにアメリカからドイツに資本を投入するというものであった。ドーズ案成立後、フランスはルール地方から撤退し、ドイツ経済は急速に回復して発展を遂げることになった。

(6) ロカルノ条約註514-8

フランスのルール地方占領前から、ドイツはライン川沿岸地域(ラインラント)の集団安全保障条約を提案していたがフランスに拒絶されていた。イギリスの斡旋によってドイツが素案を作成し、その案を基礎にヨーロッパの安全保障問題を討議する国際会議が1925年10月5日からスイスのロカルノで開かれ、ラインラントに関する相互保障条約などが締結された。この条約は英・仏・独・伊・ベルギーの5国間で、国境の現状維持・不可侵、ラインラントの軍備禁止、紛争の平和処理などを規定するもので、ドイツの国際連盟加盟が条件となっていた。(ドイツは1926年9月に国際連盟に加盟)

条約の内容はヴェルサイユ条約と同じものが多かったが、各国の関係は改善され、ひとときの安定が確保された。ただ、この条約からソ連は排除され、ドイツの東部国境については保障しておらず、ソ連側からは西側諸国によるソ連包囲網と見られた。

(7) 相対的安定期註514-9

1924・25年から29・30年の世界大恐慌までの5年ほどは「相対的安定期」と呼ばれるが、その前後と較べれば安定していたように見えるだけで、内実は違っていた。少数派の内閣が次々と入れ替わって、右傾化が進み、議会政治は空洞化していった。経済は回復方向だったが、工業生産が戦前の水準に達するのは1928/29年頃で、失業率は5~6%あり、若者たちは恒常的な就職難に悩まされていた。

(8) 賠償支払い打ち切りへ

ヤング案註514-10

ドイツは、ドーズ案で決められた年次支払額を毎年支払ってきたが、その原資は貿易収支による黒字分などではなく外債によるものであった。つまり、借金により借金を返すことになり、ドイツの財政を悪化させていた。

1929年2月11日、アメリカ人ヤングを委員長とする委員会が発足し、同年6月7日に新しい賠償協定(ヤング案)が成立した。ドイツは1988年までの58年間にわたり、総額358億マルクを支払うことになり、ドイツの負担は軽減された。同時にドイツが要求していた、ラインラントからの連合軍の撤兵、ならびにドイツ財政に対する連合国の監督が廃止された。

ローザンヌ協定註514-11

1929年10月24日いわゆる「暗黒の木曜日」、ニューヨーク株式市場の株価が大暴落し、世界大恐慌が始まった。ドイツは外国資本への依存が大きかったが、アメリカなどはドイツからの資本を引き上げるとともに、関税障壁をつくってドイツ製品の販路は縮小された。ドイツの失業者は500万人近くに及び経済は破綻寸前になって賠償支払いは困難になった。

1932年6月16日からスイスのローザンヌで英・仏を発起人として賠償問題の会議が開かれ(アメリカは欠席)、7月9日、ドイツの賠償支払いを30億マルクに減額することを決定した。ただし、英仏などがアメリカに対して負っている戦債を帳消しにすることを条件としていた。アメリカはこれを認めなかったが、対米債務は事実上曖昧になり、ドイツではヒトラーが賠償支払いを拒否したため、賠償問題は宙に浮いたままとなった。


5.1.4項の主要参考文献

5.1.4項の註釈

註514-1 ドイツ革命

斎藤「戦間期国際政治史」,P53-P56 若尾・井上「近代ドイツの歴史」,P193-P196 坂井「ドイツ史10講」,Ps2539-

{ 軍部や大資本・ユンカーなどの旧支配層は、社会民主党を利用してその勢力を温存しようとした。連合国もまたドイツに対する食糧供給によってドイツ国民の慰撫を計るとともに、ドイツにおける反革命組織に対しては寛大な態度をとっていた。}(斎藤「同上」,P54)

{ 社会民主党がまず考えたことは、権威主義的旧体制からの決別と平和と民主化を望む大衆の要求の実現に専心することではなく、… 安寧、保安、秩序の回復であった。そのため、旧体制の支配的勢力との妥協を図ろうとした。…エーベルトは軍最高司令部のグレーナーと提携同盟を結び、… 旧官僚層もほぼそのまま引き継がれた。… 労働者の状況は一定の前進を見たが、伝統的エリート層は生き残り、… ワイマルの政治文化の重要な構成要因となっていく。}(若尾・井上「同上」、P194-P195<要約>)

註514-2 ワイマル共和国

坂井「同上」,Ps2558-,Ps2597- 若尾・井上「同上」,P197-P199

{ この憲法は旧左派自由主義の流れを引く民主党の内相プロイスが起草し、いわば理論的に最善の制度を目指してつくられたものなのだが、人々の意識はそれとはだいぶ違ったところにあった。…
ドイツ帝国は崩壊し、皇帝はいなくなったけれども、国家・社会の枠組みは、実は特別に変わってはいなかった。… 人々の意識も変わりようがないところがあった。… 端的に言って、国民も諸政党も議会政治には慣れていなかった。
議会制民主主義というのは、どこの国でもそれが国民の中に本当に定着するためには時間がかかるものである。…歴史の経験からすれば、少なくとも半世紀はかかる、というのが私の観察である。ドイツ国民はこの過程が英仏より遅れ、まだ成熟してはいなかったが、その過程にはあった。}(坂井「同上」,Ps2616-<要約>)

註514-3 戦争責任問題

坂井「同上」,Ps2562- 若尾・井上「同上」,P199-P200

{ ドイツの学界に伝統的だった「防衛戦争」論(極論すればドイツ無罪論)は否定された。しかし、だからといって私たちがヴェルサイユ条約の戦争責任論を当然とし、それに対する当時のドイツ人の反応を冷笑するようなことがあってはなるまい。…ヴェルサイユ条約には「勝者による一方的判決」という別の次元の重い問題が孕まれている。ドイツが公正に扱われていないと感じた連合国側の政治家もいたはずである。}(坂井「同上」,Ps2588-<要約>)

註514-4 天文学的数字の賠償額

斎藤「同上」,P72,P76-P77 坂井「同上」,Ps2651-

{ ドイツ国内では、右翼勢力や重工業の企業家から賠償支払いに反対する運動が起きた。支払い政策の推進者であった外相ラテナウは、1922年6月右翼的軍人によって暗殺された。}(斎藤「同上」,P72<要約>)

註514-5 対ソ賠償問題

斎藤「同上」,P73

註514-6 フランスのルール地方占領

坂井「同上」,Ps2659- 斎藤「同上」,P73-P75 若尾・井上「同上」,P204

{ 1919年11月のフランス総選挙の結果、成立した議会は「軍服議会」と呼ばれ、対独強硬論を唱える右派の勢力が増大した。フランスはドイツの経済的再建の基礎を破壊すると同時に、フランス自体の復興とアメリカに対する債務の返済に当てるために、ドイツから巨額の賠償を獲得しようとした。それは本来の賠償ではなく、敗者からの露骨な収奪であったといってよい。}(斎藤「同上」,P71)

註514-7 ドーズによる調停

斎藤「同上」,P75 小川・板橋・青野「国際政治史」,P98-P99 若尾・井上「同上」,P204

{ イギリスは賠償問題に関しては、ドイツが旧来イギリスの資本主義の重要な市場をなしてきた関係から、苛酷な賠償義務によってドイツ経済が甚だしく脆弱化するのを好まなかった。そのため、イギリスはルール占領に対して当初から反対であった。そこで、ルール占領によって賠償問題が全く行き詰まりになったとき、イギリスはアメリカに対してドイツの賠償能力調査のため協力することを要請した。}(岡「国際政治史」,P186-P187<要約>)

註514-8 ロカルノ条約

斎藤「同上」,P118-P121 岡「同上」,P207-P208

{ 当時、英ソ関係は緊張しており、イギリスには独ソ接近を阻止してドイツを西欧陣営に抱き込む企図があった。一方、ドイツの目標はラインラントからの連合国軍の撤兵、東部国境の改訂とオーストリアとの合併であり、ソ連への接近を「切り札」として西欧諸国の譲歩を得ようとした。… ロカルノ条約成立後、1926年4月24日、独ソ中立条約が調印された。}(斎藤「同上」,P120-P121<要約>)

註514-9 相対的安定期

坂井「同上」,Ps2690-

註514-10 ヤング案

斎藤「同上」,P183

註514-11 ローザンヌ協定

斎藤「同上」,P145-P147 岡「同上」,P218-P220

{ ローザンヌ会議において、イギリスはドイツに重い賠償義務を負わせ続けることは、ナチの勢力を増大させることになるとして大幅削減を力説した。フランスは賠償負担の軽減によりドイツの経済復興が促進されることを惧れてイギリスの見解に烈しく反発したが、結局は不本意ながらイギリスに同調した。}(岡「同上」,P219-P220<要約>)