日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.1 第1次大戦の後始末 / 5.1.3 ワシントン体制

5.1.3 ワシントン体制

ワシントン体制とは、1921年11月から1922年2月にかけて米国ワシントンで行われた会議により締結された3つの条約に基づく東アジア・太平洋地区における国際秩序のことをいう。参加したのは、米日英仏伊の5大国のほか、オランダ、ベルギー、ポルトガル、中国の合計9か国で、次の3つの主要な条約が成立した。

ワシントン会議は、{ パリ講和会議以上にアジアにおける民族・植民地問題を無視したものであり、ワシントン体制は東アジア・太平洋における植民地主義体制の再編成であった。}(斎藤「戦間期国際政治史」,P101)

図表5.1(再掲) 戦間期

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(1) 背景註513-1

第1次世界大戦でヨーロッパ列強はいずれも多数の人的犠牲と多額の戦費を消費し、イギリスですら合衆国への債務を抱えることになった。日本は日英同盟を根拠に参戦し、さしたる苦労もせずに南洋諸島や中国に勢力を伸ばしたが、それは中国やアメリカのみならずオーストラリアやカナダなど、イギリス帝国内の国にとっても大きな脅威となった。

そうしたなかでアメリカ合衆国は、中国市場へ進出するために従来から主張してきた門戸開放政策の国際的承認を目指し、中国も日本を含む列強の持つ特権の返還を求めていた。また、軍縮は多額の負債を抱えた列強も望むところであった。さらに、日英同盟についてはカナダなどが反対し、アメリカもそれが日本の中国政策の支柱となることを恐れていた。

(2) 海軍軍縮条約註513-2

まず議論されたのは海軍軍縮の問題である。アメリカは各国主力艦の総排水量比率を、米10:英10:日6:仏3.34:伊3.34とすることを提案、議論の末、この案通りに決定された。

この結論には2つのポイントがある。一つは、イギリスの比率がアメリカと同じだったことで、第1次大戦前のイギリスは世界2位と3位の合計に相当する海軍力を保持していたが、もはやそれを維持する国力はなくなったことを象徴するものであった。

もう一つは日本の比率で、日本は対米比70%を必達目標としていたが、首席全権であった加藤友三郎海相の判断でアメリカ案をのむことにした。その理由は、今後の戦争は総力戦になるので軍備増強だけでなく民間の工業力強化も必要なこと、アメリカと拮抗できる軍備を保有できても、戦争に必要な資金の調達はアメリカに頼らざるを得ないこと、であった。この結果は日本の軍拡派やナショナリストたちの反発をよぶことになる。

(3) 9か国条約註513-3

ワシントン会議に参加した9か国によって、中国の主権・独立の尊重と領土保全、通商の門戸開放と機会均等などを定めた9カ国条約が締結された。中国は既存の不平等条約の撤廃や特殊権益の返還を求めたが、既得権益には適用しないとの理解が調印国の間で成立しており、半植民地的状態は残ることになった。ワシントン会議に期待した中国国民は失望し、民族運動が激化していくことになる。

懸案だった山東問題※1について、日本は日中2国間の交渉を主張したが、米英をオブザーバとする2国間交渉を行うことになった。結局、山東鉄道の財産を中国に売却し、その償還期間中は運輸主任、会計主任に日本人を起用することなどを条件として妥協が成立、日本は山東の利権を中国に返還することになった。

※1 山東問題は、日本が第1次大戦に参戦した際、ドイツが保有していた山東省の権益を継承しようとして起きた問題。ヴェルサイユ条約では日本が継承することが認められたが、中国はこれに反発してヴェルサイユ条約に署名しなかった。

(4) 4か国条約註513-4

4か国条約は、米英日仏の4か国が太平洋における平和の維持と領土の現状維持とを約定したもので、日英同盟の廃棄も規定された。

日英同盟は1921年に自動更新され、イギリスは1年の延長を決めていたが、アメリカは日英の海軍力を合計した戦力が大きすぎること、中国における特殊権益でイギリスが日本を支持してきたことに反発していた。日本では日英同盟の継続論が強かったが、カナダが継続に強く反対していたため、イギリスはアメリカを含めた三国同盟案を提案した。しかし、アメリカは軍事同盟の性格を残したものへの参加を拒否し、最終的にフランスも含めた太平洋の現状維持を保障する4か国条約とすることに落ち着いた。

(5) その後のワシントン体制

ワシントン会議の成果と課題註513-5

ワシントン会議は大国間の秘密協定にとらわれずに中小国も含めたオープンな会議によって軍縮や中国の領土保全などの合意を取り付けることに成功し、主宰したアメリカの威信を世界に誇示することになった。しかし、中国の半植民地状態を改善することはできず火種は燻ぶったままであった。

中国の政権抗争

この頃、中国には2つの政府があった。一つは日本を含む列強が承認していた北京政府でこれは、辛亥革命後の袁世凱政権を引き継ぐものであり、もう一つは孫文や蒋介石の国民党が広東に設置した政府である。

1925年に孫文が死去したあと国民党を率いた蒋介石は、ソ連が支援する中国共産党と連携し、民衆の排外運動をとりこみながら、1926年7月から北伐(ほくばつ)と呼ばれる北京政府の打倒を目指した軍事作戦を開始した。

中国の排外活動註513-6

北伐軍は1927年3月南京に入城すると、外国領事館や居留民を襲撃して暴行・略奪を行った。これに対してイギリスとアメリカは南京近くの長江に浮かぶ軍艦から城内を砲撃した(第1次南京事件)。日本政府にもイギリスから共同軍事介入の照会があったが断った。中国民衆による排外運動はこれ以前にも起きており、イギリスとアメリカは不平等条約の改定や租界の返還などに応じるようになっていた。

一方、日本では武力行使をしなかったことを「軟弱外交」として非難する声が高まり、官僚出身の若槻禮次郎内閣にかわり、1927年4月に陸軍出身の田中義一内閣が成立した。田中内閣は一転して強硬策をとり、1927年6月と1928年5月には山東に出兵したため、それまで主としてイギリスに向けて行われてきた中国の排外活動は日本に向けられるようになった。

ワシントン体制崩壊註513-7

そうした排日活動は日本軍部の力を更に強大化することになり、1931年9月に陸軍(関東軍)は満州事変を起こした。これは明らかに9か国条約に反する行為であった。日本は1934年12月末に海軍軍縮条約の破棄を通告し、ここにワシントン体制は完全に崩壊した。


コラム ワシントン会議に対する日本人の反応

徳富蘇峰_ジャーナリスト、歴史家

平民主義者から国家主義者に変節
「ワシントン会議はわが日本においては、遼東還付の三国干渉よりも大いなるところの侮辱を国民に与えた会議である」(澤田次郎「近代日本人のアメリカ観」,P81)

大川周明_国粋主義の理論的指導者

「ワシントン会議は、太平洋における日本の力を劣勢ならしめることにおいて、並びに東亜における日本の行動を掣肘拘束することにおいて、アメリカをしてその対東洋外交史上未曽有の成功を納めさせた」(大川周明「米英東亜侵略史」、P51)

大川は軍事力で領土を拡大する満州事変のような行動を肯定し、門戸開放政策に表れた新しい外交の特徴を米国の押し付けとしか見られなかったのだろう。自民族中心的な発想の特徴である。

渋沢栄一_日本の財界の大御所

渋沢は次のようにニューヨークの実業家を前に、海軍軍縮条約への賛同を表明した。
「有名なる国務卿ヒューズ氏が牛耳を取りて、断固たる海軍軍備縮小の提議を為されてより、外交上にも一転機を画し、人類の進むべき道に対して新たなる方向を示されたのは誠に慶ばしい事である。… 軍備縮小によって多額の節約をするということのみが、軍備縮小の目的ではない。この節約によって得られるべき資本及び余力は、平和と進歩とのために用いられるべきである」(木村昌人「渋沢栄一」,P142-P143)

石橋湛山_東洋経済新報主筆 戦後は内閣総理大臣も歴任

石橋は、植民地はかかる費用が得られる利益より多いので割に合わない、と考えていた。「米国の要求、すなわち極東の経済的解放によって、… 日本は満蒙の特殊利益を失うかもしれぬ。しかし、もし…支那の全土に、自由に活動しうるならば差し引き日本は莫大な利益を得る」(石橋湛山「石橋湛山著作集3」,P98)

日本陸軍の軍縮対応

ワシントン会議に出席した参謀本部第2部長の田中国重は、海軍軍縮を「帝国有史以来の一大国辱」と捉えたが、後に陸軍大臣となる宇垣一成は北進論者だったので、日米戦争を回避するためのワシントン会議での譲歩を評価したという。陸軍内部でワシントン条約の評価は論争的だったので、1923年に改定された国防方針は極めて曖昧なものとなった。

日本海軍の軍縮対応

ワシントン会議の首席全権だった加藤友三郎海相は、軍備の整備と共に工業力の発達や貿易の伸長による国力充実が必要と考え、アメリカ案を受け入れたが、随行していた加藤寛治(のちに海軍軍令部長)は、「海軍は開戦初頭に東亜にいるアメリカ艦隊を撃破し、陸軍と協同してフィリピン・グアムの根拠地を破壊する。そして来援するアメリカ主力艦隊に対して、海軍は地の利を活かして対米7割の兵力で迎撃する」。つまり加藤友三郎は将来の対米戦を総力戦と考えていたが、加藤寛治は短期決戦型で展開すると考えていたのである。

(参考文献: 油井大三郎「避けられた戦争」、P86-P92、P98-P100)

※ 引用文も油井氏の著書からの引用である。


5.1.3項の主要参考文献

5.1.3項の註釈

註513-1 背景

斎藤「戦間期国際政治史」,P97-P100 中山「帝国主義の開幕」,Ps4314-

{ アメリカの狙いは、日本の中国進出の阻止、英米の海軍力の均等、日英同盟廃棄であった。}(小川他「国際政治史」,P100

{ 【アメリカの】国務長官ヒューズは、山東問題で悪化した日米関係の修復、海軍の軍縮、中国における門戸開放政策の国際承認、日英同盟の解消などを協議する国際会議の開催が必要と考えた。}(油井「避けられた戦争」,P67-P68)

{ 中国の総貿易額のなかで日本との貿易額が占める割合は、1918年には38.6%であり、… これは日本の独走的な中国制御を抑止しようとしていた合衆国にとって見過ごすことのできない重大な事実であった…}(中山「同上」,Ps4337)

註513-2 海軍軍縮条約

油井「避けられた戦争」,P70-P72,P98-P100 木畑・秋田「近代イギリスの歴史」,P149

国際政治学者の高坂正尭(1934-96)は加藤海相の判断を賞賛している。

{ この比率は、日本にとってむしろ有利なものであった。当時の日米間の経済力の大きな相違を考えると、もしワシントン条約が調印されずに建艦競争が続いていたら、日本はアメリカによっていっそう大きな差をあけられるか、又は経済的破綻をきたしていたことだろう。…(ちなみに当時日本は国民所得の7.72%を軍事費に使っていたのに、アメリカは2.26%を使っていたに過ぎなかった。)
しかし、加藤友三郎のように広い識見と冷静な読みを兼ね備えた人はあまり多くない。普通の人はこの劣勢比率だけを見て、それを威信にかかわるとして憤慨してしまうのである。}(高坂「国際政治」,P45)

註513-3 9か国条約

油井「同上」,P73-P76 斎藤「同上」,P101-P102

註513-4 4か国条約

斎藤「同上」,P99-P100,P106-P107、油井「同上」,P72-P73

註513-5  ワシントン会議の成果と課題

中山「同上」,Ps4402- 中野「20世紀アメリカの夢」,P102、斎藤「同上」,P101

註513-6 中国の排外活動

油井「同上」,P150-P160,P190-P215 斎藤「同上」,P183

{ 1925年5月30日に上海の共同租界で発生した暴動(5・30運動)、6月に広東で中国人のデモ隊とイギリス兵が衝突した事件により英貨ボイコット運動が激化、… 英国の1925年の対中輸出は前年より30%強減少した。… 英国政府内では、武力による鎮圧論が台頭したが、外務省は逆効果だとして拒否、列強に向けて中国に関税自主権を認めるべきだとの声明を発表した。… 中国民衆は1927年1月に漢口と九江の英国租界を実力で奪還する行為に出たが、英国政府は抵抗せずに受け入れた。}(油井「同上」,P155-P156<要約>)

{ 英米は1927年から28年にかけて、中国を代表する政権は国民党政権になると予想し、彼らが強く要求する不平等条約の改正に応じるとともに、英国は一部の租界の返還にまで踏み込むことによって、中国との関係改善を図っていったのであった。それに対して、田中政権は満蒙権益の死守にばかりに目を奪われて、1年後には実現することになる国民党政権による中国統一を見越した政策転換には踏み切れなかったのであった。}(油井「同上」,P206)

註513-7 ワシントン体制崩壊

斎藤「同上」,P183