日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第5章 / 5.1 第1次大戦の後始末 / 5.1.1 ヴェルサイユ体制

ship第5章 第2次世界大戦

第1次世界大戦が終わってわずか20年で、それよりはるかに大きな規模の第2次世界大戦が始まった。戦場はヨーロッパと太平洋に分れ、それぞれほぼ独立に戦われた。ここでは、主としてヨーロッパ戦線でどのような戦争が行われたかを見ていきたい。

5.1 第1次大戦の後始末

第1次世界大戦と第2次世界大戦にはさまれた約20年間を戦間期と呼ぶ。さらに、歴史学者の斉藤孝氏は、この期間を次の4つに区分している。(斎藤孝「戦間期国際政治史」,P4)

・1918~23年 革命的高揚とこれに対する反革命の闘争期

・  ~29年 資本主義の復興と相対的安定期

・30年代前半 ヴェルサイユ体制崩壊期

・30年代後半 ファシズムと反ファシズム運動との闘争期

このレポートでは、世界大恐慌(1929年~)より前を第1次大戦の後始末をする時期、それ以降を第2次大戦に向けて動き出した時期ととらえ、それぞれの時期の主たるテーマ別に項分けした。

図表5.1 戦間期

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5.1.1 ヴェルサイユ体制

1918年11月11日、ドイツと連合国との間で休戦協定が締結された。そして1919年1月18日からパリで開催された講和会議で戦後処理問題が議論され、同年6月28日対ドイツ講和条約(=ヴェルサイユ条約)が調印された。パリ講和会議では国際連盟の創設も決定された。ヴェルサイユ条約を中心とする一連の条約によって成立した国際秩序のことをヴェルサイユ体制という。

(1) パリ講和会議の背景註511-1

パリ講和会議が開催された1919年の初頭は、対ソ干渉戦争でソヴィエト政権を打倒することはできず、ドイツやハンガリーで起きた共産革命註511-2を抑え込んだものの、東欧諸国の独立、アジアなどでの民族運動が活発になった時期でもあった。

ロシアは10月革命直後に「平和に関する布告」を発表して、無賠償、無併合、民族自決の原則を提示し、これに動揺した連合国を抑えるためにウィルソンは「14か条」の原則を掲げ、民主主義の理念に基づく国際権力政治の廃絶と諸民族の民主的発展の理想を唱えた。共産革命の波及を怖れるヨーロッパ列強は戦時中に優越的地位を獲得したアメリカ大統領が唱える「14か条」に対して公然と反対することはできなかった。

「14カ条」はパリ講和会議の原則とされたものの、戦争参加にあたって各国間で領土配分などを取り決めた秘密協定を反故にすることもできず「無賠償、無併合」を実現することは不可能だった。民族自決についても、そもそも「14か条」では「民族自決」という言葉は使っておらず、東欧諸国の独立を認めているだけでアメリカ自身を含めた列強の植民地支配を崩壊させることはまったく視野に入っていなかった。

{ ヴェルサイユ体制は、「帝国主義的平和をウィルソン主義の白袈裟で粧ったもの」であったということができよう。}(岡「国際政治史」、P179)

(2) パリ講和会議開始註511-3

1919年1月12日、パリのフランス外務省で米英仏伊4カ国の首相・外相によって非公式の準備会議が開かれ、講和会議の運営方針が決められた。会議には27か国が参加し、うち米英仏伊日の5大国が最高会議を構成し、これが会議の中枢となった。総会は全部で6回開かれたが、重大事項は5大国の最高会議によって決定された。敗戦国であるドイツ、オーストリアなどは参加を許されず、連合国側だったロシアも招請されなかった。

戦後処理について最も強硬な要求を出したのはフランスだった。フランスはドイツの軍事的復興を徹底的に阻止し、自国の安全保障を確立しようとした。

(3) ヴェルサイユ体制成立

パリ講和会議の結果に基づき、同盟国ごとに条約を締結した。トップは対ドイツで、1919年6月28日ヴェルサイユ宮殿鏡の間――ここで普仏戦争後、統一ドイツ帝国の初代皇帝になったヴィルヘルム1世の戴冠式が行われた――において調印式が行われた。以降、オーストリア、ブルガリア、ハンガリー、トルコの順で調印された。各国ともに条約の第1編は国際連盟規約になっていた。註511-4

ドイツ(1919年6月28日 ヴェルサイユ条約)註511-5

ドイツのヨーロッパの領土は、フランスやポーランドなどとの国境線が見直され、戦前と較べて面積で13%、人口で10%削減された。普仏戦争で獲得したアルザス・ロレーヌ地方はフランスに返還されただけでなく、ザール地方の炭鉱採掘権がフランスに譲渡され、ライン川左岸の非武装化が決められた。

海外植民地はすべて取り上げられ、東アフリカはイギリス・ベルギー、西南アフリカは南アフリカ連邦、西アフリカはイギリス・フランス、太平洋諸島の赤道以北は日本、以南はオーストラリアに、それぞれ「委任統治」※1されることになった。また、中国の山東半島の日本の権益が認められたが、これに不満を持った中国はヴェルサイユ条約に署名せず本国では五四運動とよばれるデモ・集会・暴動などが起きた。

軍備の制約も決められ、陸軍兵力は10万、徴兵制の禁止、軍艦保有量は10万トン、空軍の保有禁止、などが決められた。

賠償については、英仏はじめヨーロッパの連合国に復讐主義的な心情が高まり、賠償額をできるだけ多くしようという動きがあった。結局この条約では賠償額は定めず、別途1921年5月1日までに算出することになった。ここで戦争責任を一方的にドイツ側にあるとして莫大な賠償金を請求したことが、ドイツ国民の憤激をかうことになる。ドイツの戦争責任については、ドイツの歴史学会でも種々議論があり、ドイツに一定の責任があったことは否定できないが、「勝者による一方的判決」という問題があることも指摘されている。

※1 「委任統治」は、形式上国際連盟から委託されて統治することをさす。詳しくは5.1.2項(5)を参照。

オーストリア(1919年9月10日サンジェルマン条約)註511-6

ハプスブルク家が支配していた多民族国家オーストリア・ハンガリー帝国は、その中核部がオーストリア、ハンガリー、チェコスロヴァキアの3国に分裂し、外縁部は他の国に併合された。南部(クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナなど)はユーゴスラヴィアの一部、北部(ガリツィア)はポーランド、東部(トランシルヴァニア)はルーマニア、西部(ティロルなど)はイタリアに併合された。

新オーストリアの軍備は3万に制限され、ドイツとの合邦は禁止された。また、戦争責任を承認して賠償金を課せられた。

その他の国々註511-7

ハンガリーの面積は開戦時の3分の1にまで減らされ、主たる民族であるマジャール人の3分の1がハンガリー国外に置かれることになった。また軍備縮小と賠償金の支払いが決定された。

ブルガリアも領土は狭められ、軍備縮小と賠償金の支払いが課せられた。

トルコは、対ソ干渉戦の基地となって連合軍が駐留したことや民族主義運動が活発になったことから、講和条約が締結されたのはパリ講和会議後1年以上経た1920年8月だった。旧トルコ領は大幅に削減され、トルコの財政・軍事が連合国の監督下に置かれた。その後もトルコの民族運動は激化し、1923年7月、連合国は民族主義者の要求を取り込んだ新たな講和条約を結んだ。

(4) 民族運動の活発化

ロシア10月革命時の「平和に関する布告」とウィルソンの「14か条」により、「民族自決」が掲げられると、アジアの植民地でも民族運動が盛んになったが、いずれも帝国主義列強により鎮圧された。アジアやアフリカの植民地が解放されるのは、第2次大戦後まで待たねばならないが、この2つの宣言が植民地の解放に向けた転換点になったことは間違いない。

以下、この時期に起きた主な民族運動を紹介する。

朝鮮三・一運動註511-8

1910年に日本に併合された朝鮮では、1919年3月1日、独立宣言書が発表され、以後約2か月にわたって三・一運動と呼ばれる大規模な反日運動が繰り広げられたが、日本は激しい武力弾圧で抑え込んだ。これに先立ち、1918年11月に上海で新韓青年党が組織され、ウィルソンに「独立請願書」を送ってパリ講和会議への代表派遣を決定したが、三・一運動は代表派遣のための示威運動であった。この請願は黙殺された。

この運動に対して日本は、朝鮮人官吏の任用と待遇改善、言論・出版・集会・結社の規制緩和、産業・教育・警察など諸分野の改善を行ったが、憲兵が警察に代わったことに示されるように植民地統治の根幹が緩められたわけではなかった。

エジプト1919年革命註511-9

1919年3月9日、エジプトのカイロで学生によるストライキや示威行進で始まった運動は、公務員、商人、農民など様々な人々に広がっていったが、宗主国のイギリス軍は機関銃や装甲車で弾圧した。1922年にエジプトは独立し、翌23年には立憲王国としての体裁を整えたが、イギリス軍の駐留権が残るなど制限された独立であった。

インド非暴力抵抗運動註511-10

1919年4月6日、インドでは大戦期に総力戦を支えたガンディーが、イギリスがそれに報いることなく民族運動抑圧のための法を制定したことに抗議して、ハルタール(全市罷業)を呼びかけ、イギリスに対抗する非暴力抵抗運動を開始した。4月13日にはパンジャブ地方アムリットサルでインド人集会に対する無差別発砲が起き、数百人の死者が出た。民主運動はさらに激化し、1921年から22年にかけて労働者のデモや農民の反乱が頻発したが、イギリスの弾圧とガンディーらの運動停止指令によって1922年、第1次反英運動は終り、ガンディーは投獄された。

中国五・四運動註511-11

1919年5月4日、パリ講和会議が日本による山東省の旧ドイツ権益の継承を認めたことに抗議して北京の学生が抗議行動を始めた(五・四運動)。これはすぐに全国に広がり、各地で商店や労働者のストライキが行われた。日本はドイツの潜水艦作戦に対してイギリスから要請された支援の交換条件として山東省と太平洋諸島の利権獲得をイギリスに認めさせていたのである。山東権益は1921-22年のワシントン会議で中国への返還が決められたが、中国の半植民地的状態が変わることはなかった。


5.1.1項の主要参考文献

5.1.1項の註釈

註511-1 パリ講和会議の背景

斎藤「戦間期国際政治史」,P17-P22

{ 【アメリカの】国務長官ランシングは日記にこう書きつけていた。「【民族】自決の原理は、ドイツの植民地住民に適用することなどできない。彼らは主として野蛮人からなっており、文明の程度が低すぎて、知的決定を行う能力がないからだ」。}(歴史学研究会編「強者の論理」,P382)

パリ講和会議前後の関連するできごとは次の通り。

註511-2 ヨーロッパの共産革命

・ドイツ革命; 1918年10月28日、キール軍港で水兵の反乱が起き、11月4日キール市に労兵協議会が成立した。協議会は全国に拡大したが、皇帝が退位し社会民主党が政権を握ると協議会の活動は縮小に向かった。1919年1月1日にドイツ共産党が設立されたが、まもなくその指導者は軍部により殺害され、革命の動きは封じられた。(斎藤「同上」,(P53-P54)

・ハンガリー革命; 1918年11月、ハンガリー共産党が結成され、3月首都ブダペストで労農兵ソヴィエト(評議会)が権力を掌握して共和国成立を宣言した。しかし、フランスの支援を受けたルーマニア軍が侵攻し、8月1日ソヴィエト政権を打倒した。(斎藤「同上」,(P55、P67)

・イタリアの「赤い2年間」; 終戦後イタリアは都市における食糧不足が深刻化した。民衆は不満を募らせ、1919-20年の間、イタリア各地でストライキや工場占拠などが頻発し、のちに「赤い2年間」と呼ばれたが革命に発展することはなかった。(北村「イタリア史10講」,(Ps2474-)

註511-3 パリ講和会議開始

斎藤「同上」,P23-P25 小川他「国際政治史」,P85-P86

{ 最初は英仏伊米日の各2名の代表で構成された「10人会議」が中心となり、特別委員会の報告や利害関係者や専門家の意見を適宜徴しながら決定することを試みた。その後、進捗をはかる必要上、英仏伊米の首相・大統領をもって4人会議を組織、その下にこの4か国の外相と日本代表とからなる5人会議を置くことに改められ、平和条約の作成はこの4人会議が中心になって行われた。}(岡「国際政治史」,P171-P172<要約>)

パリ講和会議に参加した27か国以外に、ボリビアなどドイツと断交した国や中立国および形成中の国家は5大国が必要とした場合、意見を述べることができた。(斎藤「同上」,P28)

註511-4 ヴェルサイユ体制成立

斎藤「同上」,P24,P39

註511-5 ドイツとの講和条約_ヴェルサイユ条約

斎藤「同上」,P33-P36 小川他「同上」,P86-P87

{ ドイツの歴史学会は、第1次世界大戦はドイツの防衛戦争であり、ドイツに一方的責任があるのではないことを証明しようとしてきた。西欧の歴史家たちもドイツに同情的だった。ところが、第2次大戦後、ハンブルク大学の歴史学教授フィッシャーが新たな史料研究によって、バルカンの紛争を世界戦争に転換させたことではドイツに決定的な責任があることなどを発表した(1959・61年)。
こうしてドイツの学界に伝統的だった「防衛戦争」論(=ドイツ無罪論)は否定されたが、ヴェルサイユ条約の戦争責任論を当然として、それに対する当時のドイツ人の反応を冷笑するようなことがあってはなるまい。ドイツ人の反発には実情を知らないことに発する誤解や、敗戦の意味を深く考えない大国意識的不遜さもある。しかし、ヴェルサイユ条約には「勝者による一方的判決」という別の次元の重い問題が孕まれていることも知るべきである。}(坂井栄八郎「ドイツ史10講」,Ps2563-<要約>)

註511-6 オーストリアとの講和条約_サンジェルマン条約

斎藤「同上」,P39-P40

註511-7 その他の国々との講和条約

斎藤「同上」,P40,P42

註511-8 朝鮮三・一運動

木畑「20世紀の歴史」,P93、P96 斎藤「同上」,P18

註511-9 エジプト1919年革命

木畑「同上」,P93-P94、P96-P97 斎藤「同上」,P102

註511-10 インド非暴力抵抗運動

木畑「同上」,P94-P95、P97 斎藤「同上」,P103

註511-11 中国五・四運動

木畑「同上」,P95、P97 斎藤「同上」,P98-P99